でんぱ山にて

ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬)

第1話 電波塔

 葉間から差し込む日光が僕の影を濃くする。

 今日はよく晴れてよかったと朝に母親が口にしていたから、きっと空を見上げてみれば少しは心が洗われるのかもしれない。きっとこんな日の森の中は生き物たちの声で溢れていると思う。でも僕にとってそんなことが何になるっていうんだ。

 左耳から土を踏みしめる足音に続いて両親の吞気な会話が漏れ聞こえてくる。母親が「やっぱり来てよかったわね」としつこく強調し、それに父親は「うん、そうだね」とお決まりの相づちを打つだけのひどくつまらない会話だ。僕はあがる息にため息を混ぜながらずれかけたイヤホンを入れ直す。高音と重低音の混ざった電子音が再び頭の中を満たして、ようやくこの苦行に耐えることができている。本当ならこんな所、来たくなかったんだ。

 僕の住んでいる内美うちみ町から北東へ進んだ道の先にはちょっとした自然公園が広がっている。敷地内には全周10キロほどある池や広場を有し、週末には子供連れの親子や恋人たちが思い思いに自然を満喫している。僕も子供のころにはよく両親に連れられてここに遊びに来ていた思い出がある。父は僕になんとか野球をやらせたかったようだが、僕はボールよりも池に浮かぶボートの方に目が行ってしまい、結局ボールを追いかける時間のほうが長くなり、キャッチボールなんて全然成立しなかった。

 そんな訳で僕も父も面白くないと母の元に帰ると母は温かいミルクティーをくれるのだ。出されたばかりのミルクティーは湯気がはっきりと見えるほど熱かったため、母はいつもよく冷ましてから飲んでね、と注意するのだが運動して喉が渇いていたし、口元から湯気を吐き出す父の柔らかい笑顔を見ていると無性に熱いうちに飲んでしまいたくなるため、僕何度も舌先を火傷してしまった。

 だから僕はこの公園が嫌いではなかった。でも今まさにこの公園のことが嫌で嫌で仕方なくなりそうだ。そんな気分だった。

 急に耳の中を風がすり抜けていくような感覚に襲われて僕はビクッ、と体を思い切り震わせる。静寂を超えて微かにかさかさと乾いた音、とくとくと流れ続ける音、そして鳥の甲高い叫びのような鳴き声が聞こえてくる。

 僕が驚いていると、「省吾。イヤホンをつけながら山に登るもんじゃないぞ」と父がイヤホンのコードを片手に掲げていた。父の顔から怒っているわけではないことは分かる。後ろに見える母もこちらを心配そうに見つめているが怒っている様子ではない。

 僕は驚かされたことで、抑え込んでいた鬱憤がふつふつと腹の底から喉元まで一気に駆け上がってくるような感覚に襲われる。両親の心配する気配に気づきながらもとても自分の気持ちを抑えることができなかった。


 「いきなり何すんだよ。コード引っ張るなよ」


 僕は父の手からコードを取り返そうとするが一歩後ろへ下がりながら更に続ける。


 「山は危険なんだ。今日は晴れているから地面は乾いているかもしれんが、湿って滑りやすい所もあるかもしれない。ちゃんと靴裏の音も聞かないと最悪転倒して、そのまま転げ落ちるかも・・・

 「転倒!」


 父の並べ立てた最悪の結末に母が反応して奇声を上げる。また始まってしまったと僕は今度は大きくため息をついた。転げ落ちた先で熊に遭遇したらなどとより最悪な想像を広げる父とそれを真に受けてパニックを起こす母。そんな二人を落ち着かせるべきだと押し付ける頭の中の良心にいい加減嫌気がさして僕はつい、


 「うるさい!もとはといえばこんなところ来たくなかったんだよ。いい加減静かにしてくれよ」 


 と声を荒げた。

 それでも父は最悪の想像を止めようとはしない。むしろそんな精神状態で山に登るのは危険だと僕の精神を逆なでしてくる。母は既にパニック状態からもう泡を吹いて倒れそうな顔をして、この状況を何とかできるような状態ではない。

 僕はそんな両親に対して抱いていた何かが外れるような感覚を覚え、怒りなのか諦めなのかよく分からない感情のまま、父の手からイヤホンのコードを抜き取るとそのまま元来た道を戻りだした。


 「お、おい!省吾待つんだ!一人で行動するのはきけ・・・

 「ねえ、あなた!どういうことなの!省吾はどうなるっていうの!!」


 止めようとする父のことをパニック状態の母は逆に引き留めてしまう。きっと後で喧嘩になるだろう。それでも僕は動き出した足を止める気にはならなかった。

 とにかく落ち着きたかった。一人になりたかった。深呼吸がしたかった。

 両親のためにも、僕自身のためにも。


 両親がやけに僕を外へ連れ出そうとしだしたのは中学生の頃からだった。小さい時から大人しい性格で進んで外に出て遊ぼうとはしなかった僕を心配してのこともあるが、高校生ともなった今では心配性の母を重んじてのことにすり替わりつつある。家の中で何をするでもなく日々を過ごすだけの僕ではなく、外に出て何かに精を出す僕の姿を見せて安心させたいのだ。そんな両親に精神的な負担を強いらせていることに多少の罪悪感を感じないわけではない。だが、それ以上に言葉にできないモヤモヤとした不満が溜まり、慣れない登山でついイライラしてしまいあんなことを言ってしまった。

 僕は登りよりも息を荒げながら道を下っていく。頭の中は後方で喧嘩にまで発展しているかもしれない両親のこと、きょう一日のこれからのこと、自分自身のことでいっぱいだったため、足の先にこけで覆われた大きな石があることを見逃してしまっていた。

 足がついた瞬間、靴の溝はそのこけに付着した水分によって摩擦を失い、僕は足を滑らせてしまう。咄嗟に手を出して衝撃を受け止めようとしたが、背負った荷物の重さによって僕の体重は増しておりその分腕に加わる痛みも増していた。

 滑稽なまでな尻餅をついた僕は、お尻と手首の痛みにどう対処すればわからずしばらくの間その場で言葉にもならないようなうめき声をあげるしかなかった。


 「クソッ!くそったれ!!」 


 柄にもなく悪態をついてしまう自分が情けない。そう思うと余計に悪態がつきたくなる。僕は感情に任せて履いていた靴を脱ぎ捨てると道の先に思いっ切り投げ捨てた。父がこの日のために新調した登山靴はこうして捨てられてもう二度と僕たちが山に登ることはなくなる。そう思っていた。

 木葉がこすれあう音、川の流れ続ける音、内緒話をするような鳥の小さなさえずり。それらに交じってずっしりと大地を踏みしめるような音が聞こえて気がした。僕は両親がもうこちらに追い付いてきたのかと振り返ってみたが、二人の姿はおろか自分を呼ぶ声も聞こえないことに内心ほっとしたような悲しいような複雑な気分になった。そんな僕の気を引くようにまたずんっ、と重い音した気がした。

 僕は前方へと視線を戻す。何かが近づいて来る。僕の方へ。

 僕は痛む手でなんとか立とうとしたが、右足に力を入れた瞬間足首に激痛が走る。先ほど転んだ時に捻ったのかもしれない。ほかのことに気を取られていて気付かなかった。

 視線を前に向けると、ちょうど木と木の間に何か黒い大きな影が通った気がした。気のせいだと思いたかったが痛みで冷静さを失ったうえ、父が残した熊という言葉の印象に飲まれて僕は完全に終わった、と感じた。

 目の前が真っ暗になり両親のことが頭に浮かぶ。二人と行った場所やそこでの思い出がフラッシュバックする。その中には今まで記憶の奥底に沈んでいた思い出も含まれていて、僕はどこか落ち着いた思考で「これが走馬灯か」などと浸っていた。走馬灯は死に直面した人間が生き抜こうとするなかで過去の記憶から突破口を切り開こうとするために起きると聞いたことがあるが、たった十何年しか、しかも危険を避けた日々を送っていた自分にそんな記憶などあるはずもなく、僕にとってこの時間は安らかな最期を迎える準備にしかなりえなかった。


 「あぁ、ごめん。言うことを聞いていればよかった・・・」

 「あぁ、ごめん。少しも安心させられなかった・・・」


僕の意識はそこで真っ暗になる



 「ねぇ、きみ。大丈夫?」


 この山の熊は人の言葉を話すんだろうか。それとも安心させたところを襲う、そんな高度な知能を有しているのか。僕の頭の中で空想の産物のような熊が何匹も生まれ始めた時、僕の思考はようやっと現実に追い付いた。

 言葉を話す熊なんているはずがない。そんなの絵本の中でしか見たことがない。ということは僕に近づいてきたのは熊ではないのか。

 僕は恐る恐る目蓋を開く。意思とは反対に閉じようとする瞼をなんとか半分ほど開くと、そこには全体の輪郭こそ大きいけれど決して熊のような獰猛な動物には見えない華奢な青年が立っていた。

 僕は目蓋を全開にし、その全容を確認すると青年は驚いたように身じろいだ。


 「どうしたんだい?そんなに目を見開いてこっち見て」


 そう言う男からは熊というよりむしろ瘦せたリスのような印象を受ける。

 軽そうなスポーツウェアに身を包んでいるがその体はあまり筋肉質ではないようだ。全体としてさっぱりとした印象を受ける目の前の青年をどうして獰猛な熊などと見間違えてしまったのか。それは彼の背負っている荷物にあった。彼の背負うリュックの背面からは大きな木製の棒のようなものが伸びていて、そこに横長の木の板が張り付けてある。その分彼の全体の輪郭が大きく見えて熊と勘違いしてしまったのだろう。しかし、一体こんな山中で何をしようとしているのかさっぱりわからないが、第一印象としては悪い人間ではなさそうだった。


 「あ、す・・・すいません・・・・。ころんじゃって、つい・・」

 「ころんで、つい?]

 「えっと、その」

 「熊が出たかと思った?」

 「え!?」


 僕は初めて彼を見た時以上に驚いてしまい二の句が継げなくなる。


 「どうして?って顔をしているね」


 ニヤリと笑う彼に対して僕はもう言葉も出ずにただ頷くことしかできなかった。

 彼は僕のそばに近寄り膝をつくと


 「僕も昔、この山に登った時言われたんだよ。ここには熊が出る、ほらお前の後ろに!ってね」


 と顔をクシャっと丸めて答えた。

 その顔はニヤリと笑ったあの顔と同じとは思えないほど、柔らかく心を落ち着かせる効果があった。ということはさっきの笑顔はからかわれたのか。そう思うと無性に腹が立つ。こっちは本当に死にかけたと感じて走馬灯さえ見たというのに。


 「転んだ時にどこか打たなかった?痛いところはない?というか、君なんで片足が裸足なの?」


 彼はきょろきょろと周りを見渡しても靴が見当たらないので余計に不思議そうな顔をして僕のことを見つめてくる。僕は何と言ってごまかそうか頭を悩ませ、驚いた拍子に転んでそのまま靴がどこかへ飛んで行ったと無理やりな言い訳でその場を乗り切ることにした。それを聞くと彼は


 「そっか、それは悪いことをしたね。君はここで待ってて、靴探してくるよ」


 と言って早々に荷物を降ろすとそのまま探しに行ってしまった。

 僕の意思などお構いなしに彼は僕のためにと行動を起こす。それは両親が僕を外に無理やり連れだすのと似ている気がしたが、彼の行為にはあまり嫌悪感を抱かない。どうしてだろうか。

 僕はなんだか申し訳ないのと恥ずかしさとで靴を探してくれている彼のほうを見ることができなくて、なんとなく彼が置いていったリュックに目を向けた。

 彼のリュックは見た目こそどこにでもあるような普通のものだが、やはり目を引くのは背面に括りつけられた木製の何かだった。遠くから見た時に何本かの棒と木の板がくっついていたのが見て取れたが、目の前にしても未だ何に使う道具なのか見当もつかない。この棒は足になるのか、それともどこかに刺して吊るすのかもしれない。


 「イーゼルを見るのははじめて?」

 「え?」


 視線をずらすと僕が放った靴を持った彼が子どもを見守るような温かい笑顔を向けていた。僕はそのときようやく自分のしでかした失態に気づき顔を隠したくなった。彼を熊と見間違えただけでなく靴まで探させ、あげく勝手に私物をじろじろと眺めていたのだ。僕は思わず謝ろうと勢いよく立とうとしたが捻った足に激痛が走り途中で腰を折るような体勢になってしまった。あまりの痛みに頭が追い付かず謝罪もままならないうちに再びしゃがみ込んでしまった。


 「気にしなくていいよ。それより足を痛めたようだね。今の感じ、歩けそうには・・・・ないね。しばらく休んだ方がいい。そうだ、ちょっと待ってて。何か使えるものが

 「あ、あの」

 「?」


 僕は突然言葉が出たことに自分のことながら驚いてしまう。言いたいことはもちろんある、それもたくさんだ。感謝や謝罪、その他もろもろ。

 でも僕の中で今一番言いたいことはそのどれでもなかった。

 彼は言葉が出かかっている僕のことを根気強く待ってくれている。彼とは初対面だが、この人にならこんな状況でも聞ける気がしたのだ。

 僕は意を決してその言葉を口にする

 

 「あの、イーゼルって何ですか?」


 彼は一瞬拍子抜けしたような顔をし、それから満面の笑みを浮かべて


 「電波塔だよ。僕だけのね」


 そう答えた。

 

 


 

 

 

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