第46話 “OPEN BOOKS” “OPEN MIND”
# 46
“OPEN BOOKS”
“OPEN MIND”
壁にそう書かれたブックストアー。入口を抜け、右手の奥にある赤い木の手すりを伝って階段を登り、二階の小部屋の揺り椅子に腰掛ける。日本に帰る前日だった。テレグラフの窓辺、ケルアックもブローティガンもいたこの場所で、僕はいつからか胸の内から消えていったたくさんの声と会話した。
テレグラフに来た時、何もわからない自分がいた。パンとコーヒーを買う事さえもひとつの物語になりそうだった。ひとつひとつ、小さなことに気が付きながら、それを咀嚼し、当たり前の何かに変えていく。過去の記憶に縛られている時間はなかった。目が覚めると、いつも新しい何かが待っていたから。それは僕が何かを忘れていく速度に比例するように大きく枝を広げていった。
そして今、何かを思い出す速度に比例して少しづつ失っているように感じる。テレグラフの丘には塔があって、ベンチに寝転がるといつもそれが見えた。綺麗な色の風が高い木の枝を揺らしていた。塔も海もすぐ近くにあった。いつだってそこに行ける気がしていた。いつだって。
誰もいない十三番室の机の上でノートを開く。紙とインクと言葉の亡霊がそこに横たわっている。僕は線香をあげ、その最後の呼吸を見届けると、ノートをそっと窓の外に放り投げた。ノートはひらひらと風に舞い、冷たい秋の夜の路上で静かに息を引き取った。
あの晩、四十四口径のマグナム銃から放たれた銃弾は酔った男の肩を掠め、絵を貫いた。パーティー会場はパニックに陥り、混乱に乗じて何者かが火を放った。火はあの巨大な銀幕に引火し、フォートランはあっという間に飲み込まれた。奴の絵ともども渦の中に。
「いつでもここに来ていい。君はヴイ・アイ・ピーなんだ」サン・ローランは焼け落ちた建物を前にそう言うと、バーボン・ウイスキーで喉を濡らした。
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかないさ。私が思うに君には才能があるよ。私と同じ道化師になる才能がね」僕は彼の襟を掴み、拳を握りしめた。だがその拳は振るわれることなく解かれた。彼には生の感触がまるでなかったから。
ノートは巨大な街頭広告の看板を積んだトラックに轢かれてボロボロになっていた。僕は路上に膝をつき、それを抱きしめた。空は仄かに赤く、小さな鰯のような雲の群れが、その赤を口にしていくつも過ぎていった。そして、紺碧が今宵も街に降り注がれる。華やかな光に包まれていく坂道。ここにいると何もかもが幻影に思えてくる。奴を飲み込んだ渦もジーンを奪っていった闇も。奴のことを、彼女のことを、語れる者は誰もいない。僕を除いては……誰も。奴にも彼女にも名前はない。ひょっとしたら僕にだって。
頼む。
名前をつけてくれないか。
頼むよ。
背負えないんだ。
名前がないと。
ドミトリーのベッドで眠る最後の夜、僕は、短くてとても長い夢を見た。夢の中で僕は奴の部屋にいる。その日はなぜかクリスマスで、サンタクロースの格好をした奴が僕の前に座っている。
「メリー・クリスマス」
「なんだいそれは?」
「プレゼントさ」そう言って、奴は僕にチョコレートを一つ渡した。奴が大好きなギラデリのチョコレートだった。僕はビニールを剥がし、それを口に放り込む。甘くて苦い塊が身体中に溶けていく。
「まだここにいたんだな」
「君の方こそ」
「いろんなことが変わっていく」
「そうみたいだ。だけど君は画家になった。ちゃんと。君の望み通りに」
「どうかな? ゴッホだってこう思ったはずだよ。美味い肉が食いたかったって」
「君は死んだのかい?」
「さあな。でも、お前とこうして話している」
「ひとつ聞いてもいいか?」
「構わないさ」
「どうすればあんたに会える?」
「会いたいと思うことさ」
「それだけ?」
「それだけだよ。俺からもひとつ聞かせてもらおう」
「何だい?」
「リヴォルブしたのはお前か?」
「……知らない」
夢の中でも時間はしっかりと流れていた。閉め忘れた蛇口から排水溝に向かって、ちびちびと無造作に。
「僕はこれからどうすればいい?」
「簡単だよ。胸の奥底の欲求を探すんだ。一つでもそれに答えられたら、人生は退屈じゃないさ」
「そこに意味はあるのか?」
「人間ってやつは、抽象画にだって意味を与えるんだ。人生に意味を与えられないはずがないだろう?」だんだんと視界が明るくなっていく。奴の姿が霞んでいく。
「待ってくれ。終わり方がわからないんだ」
「ダメだ。もうお別れだよ」
「待ってくれ……」引き止める僕の声は、ゼリーのように固められた厚い空気の層に吸い込まれる。そして、奴はテレグラフの丘に消えた。目が覚めると、身体中が厚い氷を張ったように冷え切っていた。テレグラフはまだ真夜中で、向かいのベッドではドイツ人とポーランド人が寝息を立てていた。アールもジーンもいない夜。僕はひどく孤独だった。はっきり言って、震えていた。それはどうしようもない震えだった。いくら歳を重ね、心を擦り減らそうとも、どうすることもできない震えだった。
「どうせこれも小説にするんだろう?」胸の奥の暗闇で誰かがそう言って僕を殴った。黒い影の男だった。僕はまだ小学生くらいの子どもで、影の男に滅多打ちにされる。だが、すぐに場面は変わり、今度は大人の僕が男を羽交い締めにしている。僕はそいつを押し倒し、滅茶苦茶に殴った。頬の色が変わるまで平手打ちにした。何の因果も理由もなく誰かを傷つけたいと思った。暴力を振るって、酷く汚い言葉を吐いて、卑小な態度で裏切って。
それから、僕は夜が明けるまでの間ずっと毛布に包まって、ただただ嵐が過ぎるのを待った。自分が何者なのかを知りたかった。誰かに教えてほしかった。
「俺は真実に近付き過ぎた。バイバイ」
明け方、熱を失くしていくベッドの片隅にはそう書かれた便箋と飲みかけのブルームーン、そして玩具のピストルが置かれている。
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