第34話 ガラスの割れる音、酩酊した連中の騒ぎ声

# 34

 ガラスの割れる音、酩酊した連中の騒ぎ声……そんな街の断面は、この二十一世紀になっても僕が生きていること、僕と同じように生きている人間がそこにいることを報せる。今となっては信じられないことだが、僕は確かにそこにいた。僕はテレグラフにいた。

 夕方になってようやく目を覚ました奴と僕はケーブルカーに乗って海へと向かった。風を切りハイドストリートの坂道を北へと駆け下りていく煉瓦色の車両。前方にアルカトラズが見える。

 「俺は画家になるのかもしれない」唐突に奴はそう言った。「もっとたくさんのビールを飲んで、もっとたくさんの絵を描いて。俺はいつか画家になるのかもしれない」

 僕たちはギラデリ・スクエアの近くにあるカフェでアイリッシュコーヒーを飲むと、夕暮れの埠頭に腰掛け、ロブスターサンドを頬張った。


 「君は何になる?」

 奴は僕にそう尋ねた。

 「小説を完成させる。他のことはそれから考えるさ」僕はそう答えた。無数の夕暮れカモメが上空を舞う。海の先には相変わらずアルカトラズが見えた。

 「小説か、悪くないな。なあ、俺の絵のことも書いてくれるかい? 君の言葉で」

 「ああ……」

 強い風が吹いてどこか懐かしい潮の匂いが鼻を衝いた。

 「何を迷ってる?」

 「迷わないことなんてないさ……正直に言ってね。わからないことばかりなんだよ。わからないまま書いている。だから、わからないことの言い訳みたいなものばかり生まれる。左手が右手に問い詰めるんだ。『こんなことに意味はあるのか?』って」

 「構わないさ。それでも書けよ。左手でも右手でもそんなのどっちだっていい。考えてたって仕方がない。世界を暴くたった一つの方法。それは手を動かすことだ。だから生きるんだ手を動かして。それが奴隷に成り下がらずに済む唯一の手段さ」

 「なあ、ひとつ質問してもいいかい?」

 「二つまで答えてやるよ」

 「君が絵を描かなくなることはあるのかな?」

 ないね、という言葉がすぐに奴の口を衝いて出た。「描くことは呼吸をすることなんだ。俺にとってはね。描かなければ生きていけないし、生きている限り描き続ける。雲が動き、世界が変わり続けるうちはそれはずっと変わらないだろう」

 「それなら死は? 死はどれくらい影響すると思う? 残された人間に」僕は尋ねた。そよ風の音に耳を寄せ、その響きを確かめるように。

 「それが二つ目の質問かい?」僕は黙ったまま頷いた。「死か……はっきり言って俺にもわからないよ。どんな物事も形が与えられるのはいつもずっと後になってからだ。それも不明瞭なまま部分的に剥がされていく。だから俺たちは想像でしか語ることができない。想像で語ることしか許されない」奴はそう言って僕を見た。「だが、それでも俺は描く。いや、だからこそ俺は描く。君もそうだろう?」奴の着るボロの隙間から光が飛び散る。

 「もっと目を向けるんだ自分の内側に。耳を澄ませろ自分の声に。答えなんか必要ない。そんなものは手先の器用なロボットにでも任せておけばいい。考えるんだ。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を憎み、何を愛するのか。そうすれば、自ずとやるべきことは分かるはずさ」夏の最後の日差しを浴びながら、僕たちは語り合った。そして、その日が僕と奴の最後の日になった。

 「……無理だ。言葉にできない。どんな魔法も撥ね付けられてしまった。君にはわからないんだ。君にはわからないんだよ。人を愛するということが、人に愛されるということが、どんなことか」僕は自分でも驚くほど取り乱していた。酷い言葉を喚き散らしていた。奴はそれをあの大きな身体で丸ごと受け止めると、寂しそうに笑った。

 「自分の無意味さ、自分の生み出すものの無意味さについて理解している点でお前は十分優れているよ。だが、それでも書かないといけない。書かないといけないんだ。お前がそれを望む限りは」


 夏の終わりに絵は出来上がった。

 日中の溶けそうになる程の暑さを、気紛れな夕方の風が攫っていった。その日を境に気温は下がり続け、テレグラフにも秋がやって来た。僕は今でも季節の変わり目になるとあの絵のことを思い出す。ちっぽけで巨大で、普遍的で個人的で、単純で複雑で、空想的で真実味がある、あの絵のことを思い出す。絵は確かに存在した。僕の目の前に。僕はそれが生まれる様を余すところなく瞳に焼き付けていた。けれども季節が変わり、絵のことを思い出すたびに、あの熱気は冷め、輪郭はぼやけていった。あれほど力強かった色も筆致も……何もかもが薄れていった。そんな忘却を感じるたびに僕はノートを開き、あの感触を冷凍保存しておけるような言葉を探した。一日中椅子に掛け、真っ白なページを塗り潰したこともあった。あてもなく街中を歩き回り、その影を追いかけたこともあった。でも、どれもうまくいかなかった。

 「あの絵は発煙筒さ。俺たちの」奴は去り際にそう言った。無言の海だけが僕の前に残った。


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