むかし恐竜は美しい声で哭いた

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

序章

 いつしか爬虫類はちゅうるいは声をあげてなかなくなった。かわりに、神の恩恵おんけいともいえるこの素敵すてきな習性を独占したのは、自分が地球上で最も進化していると信じて疑わない図々ずうずうしい生き物である。 


 先生の指示通り、僕は部屋の東側壁にその絵を飾った。

 絵は十号のアクリル画だ。画面右下に先生のサインがある。

 細い丸太を組みけものの皮か厚手あつでの布で屋根をかけただけの粗末そまつ物見ものみがある。銭湯せんとうの脱衣所に並べてあるような縁台えんだいが置いてあり、そこに一組の男女が腰を下ろしている。

 男は黒っぽいレザージャケットを着て頭に中折なかおれ帽をせている。女は男の左腕に手をまわし彼に撓垂しなだれている。紅いチャイナドレスが身体の線をきわだたせ、とてもイロっぽく、かなりあやしい。二人ともこちらに背を向けている。ヤクザな考古学者と彼の情婦…そんな感じの二人だ。

 このカップルが眺めているのは、高さ十メートルたらずの小さな築山つきやまである。山をおおう枯れ草の間に、将棋の駒のような石片せっぺん無造作むぞうさに立ち並んでいる。この程度の築山なら重機じゅうきがあれば一日で築けるだろうが、この山がてた人工のモニュメントなのかあるいは自然の造作ぞうさなのか、僕には推理できない。

 オレンジ色の光線が画面上手かみてからしているから、二人はたぶん南に向いて座っている。

 一羽の鳥が、こちらをめがけて飛んでいる。空も雲もオレンジ一色だが、その鳥のまわりだけが発光しすぎた後光ごこうのように異様に白く光っている。

 かなしい雰囲気がある。オレンジ色の色調のせいだと思う。

 タイトルは多分、「追悼ついとう」とか「惜別せきべつ」とか、あるいはもっと露骨に「情交じょうこう」かもしれない。

 ある銀行の預金者向け粗品そしな包装用紙に絵は包まれていた。この包装紙には先生がデザインした恐竜のキャラクターが印刷されている。剽軽ひょうきんな顔をしたアパトサウルスが「ここを見て!」と長い首で指し示した銀行名の横に、「謹呈きんてい」の二文字、そして三行のメッセージがサインペンで書かれていた。

・この絵を貴兄宅きけいたくリビングの東側壁ひがしがわかべに飾って下さい。

・八月、スケジュールを空けておいて下さい。

・見物人に気をつけること。

 三行目のメッセージは、意味不明だ。

 絵が届いたのは、先生とメイさんが行方不明になった当日だった。


 不思議な離陸であったと、目撃者たちは語っていた。

 ほんの数メートル滑走しただけで、先生の操縦する双発機は地面を離れたらしい。そのうえ、急上昇し空の彼方に去ってゆく飛行機の爆音を誰も聴いた覚えがない。ある者は、風にのるようにふんわりと舞い上がったと言い、ある者は、大きな鳥が飛び立つ印象だったと証言している。

 現場に居合いあわせなかった人達のほとんどは、当然、その話を妥当だとうとしなかった。長い滑走路とデカい爆音ばくおんなしでプロペラ機は離陸しないという世論に忖度そんたくしたメディアは、その怪しげな離陸の様子について紙面や画面をくことをしなかった。

 フライトプランに書かれた目的地は青森県西南端にある小さな飛行場だった。

 着陸の様子も離陸時のそれと同様なものだったらしい。飛行場に居合いあわせた関係者は、先生の飛行機がほぼ垂直に「舞い降りた」と証言してる。常識を無視する勇気のなかったメディアは、もちろんその様子も、これっぽっちも報道していない。

 先生とメイさんは、その飛行場で飛行機に給油をし自分たちに給水と給食をした。

 先生が寄航きこうした翌日の朝、飛行場の係官は、格納庫から先生の飛行機が消えていることを確認した。先生達の宿泊先に連絡した係官は、先生とメイさんが、何かを見に何処かへ行く、と言い残し夜半やはんホテルを出たまま帰寓きぐうしていないことを知らされた。

「恐竜画家、美人中国人秘書と行方不明!」

 といったヘッディングで週刊誌やテレビのワイドショーが話題の大量販売を目論もくろむかと懸念けねんし、多少期待もしたが、それも一切いっさい無かった。

 先生の失踪しっそうをとりあげたマスコミは地方新聞一紙だけで、しかも、なるべく小さな活字を出来るだけ節約して使用したと思われる見出しは『自家用機行方不明』と極端にシンプルなものだった。

 その日、方々で春一番が吹いた。


 先生の本職は学者である。鑑定工学と復元工学を専攻する工学博士だ。古代の遺物、古美術品絵画等々の真贋鑑定しんがんかんていや修復技術を研究している。

 先生の採算さいさんを考えない研究態度には定評がある。昨今さっこんのお宝ブームのおかげで実入みいりは良いはずだと、先生との付き合いがこれっぽっちもない人々は考える。だが、先生は金や名声とはこれっぽっちの付き合いもない。先生は、『お宅のお宝、本物? 偽物?』みたいな本も書かないし、テレビ出演もしない。百万が相場の古甕こようの修復でも、先生の研究室に持ち込めばその五分の一以下のコストで済む。古甕の亀裂きれつは完璧に修復されるが、先生と「富」との亀裂は修復不可能なほどにひろがる。

「よって、この点を微分すると、えーと、だから、えーと」

 工学博士のくせに、先生の計算能力は極めて低い。先生が学位を取得したのは関数電卓が一般化した後である。

「早い話が、かなり急な角度だということだ」

 計算が面倒臭くなった先生は、答の出ていない数式を黒板消しで消しながらお茶をにごす。

「そうか、かなり急な角度か」

 学生たちは、とりあえず納得する。

 受講生たちのノートには、「あっという間」とか「結構な重さ」とか「ベラボウに長い」といった言葉が並ぶ。先生の教え子には、ファジー理論の権威けんいが山ほどいる。

 先生の名を口にすると、一般人は首を傾げるだけだが、

「ああ、あの有名な画家」

 恐竜オタクなら、そう応えてくれる。

 趣味で絵を描く。画題がだいは「恐竜」だ。この恐竜画は、金銭に全く執着しゅうちゃくしない先生でさえ仰天ぎょうてんするほどの高値たかねで売れる。ブロントザウルスやステゴザウルスのイラストを前にして、

「こいつら、学者の俺より稼ぎやがる」

 と、くだけた調子で先生は笑う。

「あたりまえです」

 パソコンのキーをたたきながら小さく言うのは、メイさんだ。

「大学をリストラされた教授にくらべたら、猿だって稼ぎますよ」

 と、流暢りゅうちょうな日本語で続ける。

「ああ、あの超美人」

 一度メイさんを見たことのある人は、皆口をそろえる。

 二十代半にじゅうだいなかば。先生の半分以下の年齢だ。先生が勤めていた大学の大学院生で、昨年、先生が大学をリストラされた後も先生の研究所に毎日のように出入りしているので、関係者は秘書だとおもっているし、もしかしたら愛人ではないかともおもっている。

 秘書だろうという推測すいそくはビンゴだ。メイさんは先生の有能な秘書だ。と言うより、メイさんがいなければ先生の経済生活はたちまち破綻はたんする。昨今さっこんのお宝ブームで需要が増した古美術品鑑定の仕事や、ブームは去ったけれども需要は減らない恐竜画の仕事をマネージメントしているのはメイさんだ。美人のメイさん目当めあてで先生の研究所に仕事を持ってくる業者も多い。メイさんは看板娘かんばんむすめでもある。

 彼女が先生の愛人ではないかという憶測おくそくは、半分ビンゴだ。

「メイさん、そろそろ先生と一緒になったら?」

 その言葉はメイさんへの挨拶代わりだ。

「無理ですよ。先生モてるもの」

 と、メイさんは笑顔で応ずる。

 先生と心的距離の近い女性はメイさんを含めて二人いる。もう一人も若く美しい女性だ。でも、もう一人の美人は先生への恋情れんじょう慕情ぼじょうか尊敬を公表していないから、メイさんも世間も、先生がメイさん以外の女性にモてる男とは認識していない。皆、メイさんのプライドをおもんばかり、返す言葉にきゅうして苦笑するしかない。

「あの笑顔を毎日見せられたら、俺なら三日とたないぜ」

 ほとんどの男達は、手の甲でヨダレを拭きながら言う。

「彼女が相手なら、私、サフィストになってもいいわ」

 ほとんどの女達が、目をうつろにして言う。

 先生はメイさんの美しい笑顔を毎日見せられているのに三年も保っている。手も握っていない。先生は一応いちおう独身だから、道ならぬ恋ではない。大学教授の地位はすでに失っていて、教え子と恋仲こいなかになっても誰にはばかることもない。しかも、メイさんは先生をしたっている。

 地味じみな衣装に包まれているとはいえ、エステティックサロンの店頭で立ち停まるだけで店の会員数が二倍にはなるだろうメイさんの美的身体を三年もの間毎日見せられ、聴くバイアグラと云われる美声を毎日耳にして、先生はぜんに箸もつけず発狂もしないでいる。世界七不思議の二番目に登録してもいい。一番目はもちろん、メイさんが先生を慕っていることだ。

 先生とメイさんが行方不明になってから五ヶ月が過ぎようとしている。

 先生は十中八九、健在けんざいである。メイさんがとうとう先生を捕獲ほかくして二人で婚前旅行にでも出かけたのだ、そのうち帰ってくるだろうと、皆思っている。僕以外は誰も心配していない。僕も大して心配していない。八月のスケジュールをけておけ、ということは、八月まで捜すな、ということだ。

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