litter-mate MZT

吉野さくら

第1話

東和永真は13歳で死んだ。


「おい、弟。」


中等部1年の頃、当時の永真は、一部の生徒にそう呼ばれていた。

休み時間に教室の自席で本を読んでいると、丸まった背に呼び名がぶつかる。

振り返れば数人の同級生と、二人の上級生が立っており、にやにやと笑って告げる。


「遊ぼうぜ。」


永真には嫌だという言葉も、首を横に振る力もない。

かといって承諾することも、首を縦に振ることもなく、本を閉じ、唯々諾々と席を立つ。

彼らに囲まれて教室を出る様子は、傍目には仲の良い生徒同士がつるんでいるように見えるだろうか。

中心にいるのは永真でも、楽しそうに笑っているのは彼らだけなのに。



向かう先は決まってプールの裏だった。

グラウンドのはずれにあるそこは、昼休みに人が訪れることはほとんどない。

故にいつも、彼らのたまり場となっていた。


着くや否や、上級生の一人が永真の両肩を突き飛ばし、永真はプールを囲むフェンスに背をぶつける。

黒い瞳を彼らに向けると、永真とは別の意味で、心をなくした子供たちが笑っている。


「脱げよ。」


今日はそこからか、と永真は思った。

いきなり殴られるよりは覚悟をする準備時間が増えて良いが、好奇の視線に晒されるのは何度経験しても慣れない。

しかし拒否すれば暴力が飛んでくるので、少しでも身体的ダメージを減らすため、精神衛生を犠牲にし、永真はシャツのボタンに手をかける。


「遅ぇよ、のろま。」


2秒でシャツのボタンをすべて外し、脱げる技術があるなら教えてほしいものだ。


服の上から脇腹を思い切り抓られる。

身が縮まるほどの痛みが走ったが、表情筋は動かさない。

苦しむ顔を見せようものなら、彼らを喜ばせることになる。



同級生のひとりが永真のシャツを乱暴に引っ張り、ボタンが数個弾け飛ぶ。


(ボタンを付け直さないと。)


どこかにある心で思う。麻痺した脳で考える。


「下もだよ。」


機械の手が動く。ベルトを外し、ズボンを下ろす。


「これも。」


同級生が笑いながら下着を引っ張る。

躊躇を発する脳との神経を分断された手が、下着を下ろす。

子どもたちが笑った。とても楽しそうに、嘲り、見下す笑い声だが、永真の耳には何の意味ももたない。



5月の陽射しが永真の肌を照りつけ、表皮はじわじわと熱を帯びてゆく。


「今日暑ィからさぁ、水浴びさせてやるよ。」


容赦なく頭から、バケツに入った水がかけられる。

去年の夏から掃除をされていないプールの、臭くて生ぬるい水が、永真の体を侵食した。

藻のような何かが頬に張り付く。


「うーわ、くっせぇ!!」


臭くて汚い人間を見て何が面白いのか、彼らは喜んだ。

身体中をモップの先で突き、長い柄で打ち据えては、雑巾を投げつける。


雲が翳り、風が吹けば寒さを感じ、永真は肩を抱えて背を丸め、顔を伏せる。

垂れた長い前髪から苔色の雫が滴り、唇をこじ開けて口内に入ってくるのを、少しだけ咳き込んで耐えた。


誰かの手が髪をつかみ、無理やり顔を上げさせられた。

安っぽいシャッター音が聞こえ、直後に横腹を蹴られ、地面に倒れ伏す。

土と、青い草と、生臭い生物のにおいがした。


腹を踏みつぶすように蹴られ、吐瀉物をぶちまける。

反射的に腹を抱え、背を丸めて防御しても、その背や脛を蹴飛ばされた。

髪を引っ張られ、引きずられ、突き飛ばされ、顔以外の身体を汚い靴で踏みしめられた。



彼らは頭が悪く、運動能力もさほど高くない。

しかしこと虐めに関してだけ、非常に巧妙な技術を持っていた。


教師やほかの生徒に見咎められそうな箇所、顔や首には一切傷をつけない。

腹や脚など、人目に晒すことの少ない箇所だけを、執拗に痛めつけた。


永真の身体は痣と切り傷だらけだった。

しかし彼らのほかには誰も、それに気づかない。


共に暮らす兄でさえも。

それは永真が細心の注意を払って、悟られないように努めているから、であったが。



「お前みてぇな奴が弟で、一刻がかわいそう。」


毎回彼らはそう吐き捨てた。

その通りだと永真は思った。


「本当は兄弟じゃないんじゃね?何も似てねーよ、お前。」


そうであればよかったと永真は思った。

つぶれた心に思考能力などないはずなのに、痛みや苦しさ、屈辱は掻き消えても、兄に対しての詫言だけはいつまでも消えずに残っていた。



これは罰だ。

大切なものを奪った自分に、与えられて然るべきの罰だ。


いくら心を殺してやり過ごしても、延々と身に染みて消えない、罪の証が此処にある。


消えない血の繋がりを、間接的に絶つための、唯一の方法。

それは、忍び耐えることだ。


だから永真は、逃れる術を持たない。

逃れようとは思わない。思えない。


人間の形をした肉塊になっても、死んだように生きること。

それが兄と両親への贖罪だと、一入に信じて享受した。


そうでもしないと内面から闇に食い破られ、いつか兄を殺してしまうと、永真は本気で思っていた。

思おうと、していた。



脇腹のいちばん皮膚が薄い箇所に、煙草の火を押し付けられる。

思わず唸ってしまったから、彼らはさらに喜んだ。


与えられる罰には耐えられても、彼らの笑い声だけは時折癪に障る。

体の内に眠る闇がぞわぞわと沸き立つのを、必死で抑える。


(これは罰だ。)


両親を殺し、兄から奪った、罪の重さだ。

たくさんの傷、たくさんの痛み、たくさんの苦しみ。

闇の中に葬り去られ、消化されては蓄積するのを、永真はただ感じている。



虐めに耐えられる理由は、他にもあった。

彼らが兄の一刻に嫉妬していることを知っているからだ。


彼らは普段、一刻とは友好的に接している。

それは一刻が誰とでも分け隔てなく関わる人間だからであり、彼らは一刻とさほど親しいわけではない。

ただ、成績優秀でスポーツも万能で、誰のことも否定しない一刻のそばで、同類になった気でいるだけだ。


その光が羨ましいのだろう。

柔らかな人柄と優秀な能力、太陽のような生き様を羨んで。

妬んで、嫉みを拗らせて。


気に食わないと感じる鬱屈を、一刻自身に向ける勇気がないから、血の繋がっている自分を虐げて満足するのだ。


あるいは、永真自身を羨んでいるのかもしれない、とも思った。

一刻との血の繋がりを持つ自分にも、嫉妬しているのかもしれない。



それほどまでに、一刻は、 人間なのだ。

自分と同じ形をもった、自分とは全く異なる確かな生命であると、永真は分かっていた。


あいつが 一瞬を重ねるように生きるから。

あいつから 奪った自分は 生き永らえながら、死ぬべきだ。



「………ごめんなさい。」


痛みに震える唇から零れる謝罪は、兄へのものだ。


「ごめんなさい、 ごめんなさい。 」


断続的に繰り返す謝罪は、父と母へのものだ。


目の前で、至極楽しそうに馬鹿笑いしている彼らへのものではない。



それでも永真は繰り返していた。

力の入らない体をフェンスに預け、彼らの向こう側で光る太陽に兄の笑顔を重ねては、爛れた五臓六腑から、決して許されぬ罪を吐き出していた。


飽きた彼らが永真に唾を吐き、律儀に一度ずつ蹴りつけてからその場を後にしても、永真は太陽光を見つめていた。

兄の笑顔の次に、父のたくましい背と、母の柔らかな頬が見えた。



「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」



頬を伝うものが何であるかを知らない人型は心臓を動かしている。

龍が巣食っているから穢れた生命が続いている。

死ぬための命が鼓動を刻んでいる。



いつ終わらせようか。

自分が死ねば「この力」も死ぬのか。


底抜けの晴天と、初夏の風に凪ぐ梢に包まれながら、永真は、またひとつ心を殺した。


必要なのは、自身の行く末を考える、脳髄一欠けらだけだ。

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