旺華国後宮の薬師 甲斐田紫乃「英鈴、一騎打ちを挑むこと」

英鈴えいりん、一騎打ちを挑むこと


  ※※食事中閲覧注意※※


「最近、よく秘薬苑ひやくえんこもっているそうだな。何をしている?」

「え……!?」

 秋の日のとある昼時、旺華国おうかこくの禁城の一室にて。

 皇帝・丁朱心ていしゅしんからの突然の問いかけに、礼の姿勢をとったまま、董英鈴とうえいりんは言葉を失った。

「ど、どうしてそれをご存じに……」

「この国で起こる事柄を、皇帝たる私が知らぬほうが問題だろう。後宮内の出来事ならばなおさらだ」

 語りながら、朱心は先ほど英鈴が薬童代理として提供したばかりの『薬』――葡萄ぶどうの実のうちの一粒を、食卓に置いた皿の上から摘まみ上げた。

 葡萄の実の種を抜き、そこにい薬を蜜で固めたものを入れてあるのだ。

 薬は軽く噛むだけで溶けてしまうように細工してあるので、瑞々みずみずしい葡萄を味わう間に、酸っぱい薬を無理せずに飲むことができる。根っからの甘党で、苦みや酸い味が苦手な朱心のために英鈴が作った『美味おいしい』特別製の薬、つまり『不苦の良薬』である。

 そしてそれを口に入れて食んでいる朱心はといえば、今日も神話の女仙のごとき黒髪の美貌びぼうに、酷薄こくはくな笑みをたたえている。

(笑っておられるということは、どうやら今回もお気に召したみたい……)

 ――先ほどの問いかけよりも、つい目の前の光景を気にしてしまう。

 表向きにはどんな時も温厚で優しい皇帝陛下が、実は冷酷で怜悧れいりな人物でもあるというのを知っているのは、英鈴自身を含めても、ごくわずかな人々だけだ。

 いつの間にか貴妃きひの座を与えられ、これまでに何度か無理難題の解決を押しつけられてきた身としては、たとえ以前好評を博した服用法といっても、今回も喜んでもらえているかを確認するまで落ち着けない。

 ともあれ、今のところは安心してもいいようだ。

(よかった)

 英鈴が内心でほっと息を吐いていると、やがて、薬を食べ終えた朱心がおもむろに口を開く。

「それで。こちらの問いに答えぬとはどういう了見だ、董貴妃」

「えっ、あ、申し訳ありません!」

 朱心はわずかに眉をひそめ、首をかしげつつさらに述べる。

「そもそも、皇帝たる私の質問に質問で返すとは……旺華国の薬童代理は、ずいぶんな度胸の持ち主のようだな」

「いえ、そんなつもりは」

 英鈴は、言葉を選びつつ答える。

「その……最近は、秘薬苑での研究がはかどっておりまして。つい時間を忘れて励んでしまっているというだけです」

「そうか。燕志えんしに聞いた話では、ここ数日は何やら荷を複数抱えて足を運んでいるそうだが……よほど大がかりな実験でもしているということか?」

「!」

(え、燕志さん、そんなこと陛下に教えなくていいのに!)

 朱心の側近である宦官かんがん・燕志の、いだ湖面のように穏やかな笑顔を頭に思い浮かべつつ、英鈴はついぎくりとしてしまう。瞬間、朱心の口の端がにっと上向きにゆがんだ。

(絶対、わかりやすくて面白いとか思われている!)

 気持ちを隠せるほど器用じゃないというのは、自分でもよくわかっている。

 とはいえ――言葉を濁しているのは、別にやましいことがあるからではない。

(なんていうか、すごく説明しづらいっていうか……正直に話したら、いくら陛下でも引かれてしまうかもしれないし……!)

 いや、絶対に引かれる。

 そう結論づけた英鈴は、とりあえず「いいえ、ただ書を読んでいるだけです」などと言ってお茶を濁した後、さっさと退散したのだった。


  ***


「ふう……」

「英鈴、お疲れ様!」

 自室に戻ってきた英鈴を明るく迎えたのは、友人であり今は便宜上「お付きの宮女」になっている雪花せつかである。

「あれ、大丈夫? なんだか疲れてない?」

「う、ううん平気。ちょっと緊張しただけだから……」

 うっすらとひたいに浮いたままだった汗を手巾しゅきんで拭ってから、雪花に問う。

「それより、えっと、また例のものを用意してもらえたかしら」

「うん、ばっちり! お昼ご飯の後は、いつでも持っていけるようにしてあるからね」

 でも――と、雪花は言った。

「本当に、今日も英鈴がやるの? あたしたちに頼んでくれたっていいんだよ」

「ありがとう。でも、あなたたちには他にも仕事があるのに、頼ってばかりいられないもの」

 英鈴は微笑ほほえみながら続ける。

「それに、秘薬苑の管理は陛下からたまわった私の役目の一つだし。普段は、みんなにもいろいろお願いしているけど……こういう時くらいは、私がやらなくちゃ」

 きっぱりと、宣言するように雪花にそう告げてから――

「あっ、でもやっぱりバレちゃうのは困るから、他の人たちには内緒にしてね。とっ、特に陛下には! あと燕志さんにも」

「もちろん! 他の妃嬪ひひんがたや宮女たちにも、バレないようにしておくからね。また変なうわさ立てられちゃったら困るもん」

 頼もしい友人の言葉に、心がほっと温かくなるのを感じる。

 そう、用事のうち「一つ」はバレなければ問題ないとしても――重要なのは、「もう一つ」のほうだ。早急に対策しなくては、被害が広がるばかりなのだから。

(見てなさいよ、今日こそは……!)

 さんの袖の内で拳を握り、英鈴は、ぐっと気合を入れるのだった。


  ***


「……!」

 足音を立てず、できるだけひっそりと。たとえここが上位の妃嬪しか入れない庭だとしても、誰の目があるかわかったものではない。

 昼餉ひるげを食べた後、英鈴は雪花から貰った荷――二つの木箱を抱えて、足早に秘薬苑へと向かった。

 かつての皇后が戦争で傷ついた将兵をいやすために築いたという、薬に使える草木ばかりが植わったこの庭は、今日も静謐せいひつな美しさで主たる英鈴を迎えてくれる。

 そして無言のまま庭に踏み入った英鈴の目は、庭の真ん中付近にある、それなりの大きさの池に向いた。

 しばらく黙って、その水面をにらえ――

 けれど今はそちらに向かわずに、秘薬苑の隅へと歩を進める。

 そこはちょうど日陰になっていて、この季節だと日向と違い、うっすらと寒さを感じるような場所だ。

 そして一度木箱をゆっくりと地面に下ろした後、英鈴はそっと壁際のかめ――かなり大きな素焼きの甕である――に歩み寄っていく。

「ふふふふ……さて、どんな様子かしら」

 甕の口をふさいでいる木の板をそっとずらし、中を覗き込んだ英鈴は、にやりと口を歪ませた。

「おおっ、いいじゃない。元気いっぱいで……うふふふふ」

 甕の中からは何も返事はないけれど、構わずに言葉を続ける。

「今日はあなたたちにとっておきのゴハンを持ってきたのよ。ふふふふ……気に入ってもらえるといいんだけど」

「この箱か?」

 背後から差し出された木箱を、振り返りざまに英鈴は何の気なしに受け取り――

「ええ、この茶色い木箱の中に……って、きゃああ!?」

 いつの間にか立っていた朱心の姿に、思わず悲鳴をあげてしまう。取り落とした箱の中身が、足元に散らばった。

「へ、陛下!? いつの間に……!」

 ――相変わらず、全然足音が聞こえない御方だ。

「私がどこにいるかを、お前にいちいち知らせる必要があると思うか」

 そう応える朱心は、眉間みけんしわを寄せ、どこか不機嫌ふきげんな様子だ。

(あっ……礼を欠いてはいけないわよね)

 慌ててこちらが最も深い敬意を示す礼をすると、朱心はフンと鼻を鳴らし、次いで地面に転がった木箱を拾う。

「まったく、私を見るなり悲鳴をあげるとは。お前が妙にこそこそしているゆえ、昼餉を早めに切り上げて、様子を見に来たのだが」

 地面に散らばる木箱の中身を見た彼は、眉を顰めた。

「なんだこれは。……?」

「ええ、そうです」

(本当は内緒にしていたかったけど……)

 見られてしまったからには、もはや隠しようがない。

 朱心からうやうやしく箱を受け取った英鈴は、引かれるのを覚悟のうえで、正直に答えることにした。

「その麩はえさなんです。土甕虫どべつちゅうたちを育てるための」

「土甕、虫? 虫か。聞いたことのない名だな」

 片眉を跳ね上げる朱心に、英鈴は引きった笑みを返す。

「いいえ、たぶん……絶対にご存じだと思います。この甕の中で飼っているのですが」

「ふむ」

 英鈴が甕の内側を指し示すと、朱心は数歩歩み寄り、甕の中を覗き込んだ。

 中からは、カサカサカサ、という葉擦れのような音が聞こえてくる――

 瞬間、彼の眉間に、これまでにないほどの深い皺が刻み込まれる。

「おい……! これは」

「ご、誤解しないでください!」

 つい必死になって、英鈴は朱心に述べ立てた。

「そのゴキ、いえ、虫たちは特別なんです! 土甕虫たちはただの害虫ではなくてですね、立派な薬の材料なんです!」

「……お前が以前茶にしていた、せみがらのようにか?」

「ええ!」

 我知らず、きりっとした面持ちで英鈴は応える。

「土甕虫、あるいはシャ虫とも呼ばれるのですが、その子たちのように羽根のない種のものからは、血の巡りを改善したり、口内炎こうないえんを治したりする薬が作れるのです。要するに一般に言う駆瘀血剤くおけつざいとしての作用を持つわけですね。同種の薬は水蛭すいてつあぶなどからも」

「……」

「あっ、すみません」

 ――またいつものくせで、夢中になって喋ってしまった。

「とにかく、薬のために養殖しているんです。秘薬苑には薬の材料となる草木や虫がたくさん生息していますが、土甕虫たちは特別に、そうした涼しくて湿気たところで育ててあげるのが一番なので……」

「事情はわかった」

 そっと目を閉じた朱心は、微かに首を横に振ると、甕から数歩離れる。

「……お前がこやつらに、親しく話しかけていたのは忘れておいてやろう」

「あ、ありがとうございます……でも、こうして世話をしていると、だんだん可愛かわいく見えてくるものですよ」

「理解しえぬものは身近にもあるらしいな」

 短く嘆息たんそくした朱心は、目を開けると、地面に置かれたままのもう一つの箱に視線を向けた。

「それで、そちらの中身も麩というわけか?」

「あ、いいえ。こちらは違います」

 英鈴はひとまず箱の中の麩を甕に放り込み、板でふたをすると――地面に散らばった麩は後で回収することとして――もう一つの箱に歩み寄って拾い上げ、朱心に中身を見せた。

「こちらは、この通り。鶏肉です」

 ニワトリ一羽ぶんの肉が、ぶつ切りの状態で入っている。

「これも餌か」

「はい!」

 こくりと頷き、英鈴は庭の中央、つまり先ほどの池を見やる。

「正確にいえば、釣り餌ですね。これから、あそこのヌシと対決するんです」

 語る脳裏のうりには、これまでの激闘の記憶がよみがえった。


 ――主の存在を知ったのは、蓮州れんしゅうから後宮に戻ってきて数日経った頃。

 ここの管理を任せていた宮女たちから、妙な出来事が起こっていると聞いたのがきっかけだった。

 いわく、池のこいがお腹に大怪我おおけがをして死んでいた、とのことで――最初は誰かの嫌がらせかとも思ったが、それにしては池の周りに足跡もなく、しかも鯉の傷口は噛み千切ちぎられたような形跡で、様子がおかしい。

 そこで調べてみたところ、池の底に「それ」が生息しているとわかったのだ。

 ちらりと見えたその姿――通常よりも二倍ほどの大きさと思しきそれを、英鈴はこの池の主だと断定した。

 主は池の底で、溜まったどろをかき混ぜるように悠然と泳いでいた。巨大な影が水面を揺らし、魚の被害は増え、しかし捕らえようとしても歯が立たず――

 これまでにいったい、何本の釣り竿が折られてしまったことか。


(でも、それも今日までよ)

 英鈴は、先ほどの甕の裏側に手を伸ばす。そこには昨夜のうちに運び込んでおいた、長い釣り竿が隠されていた。そして、大きな魚籠も。

「竹製のものはことごとく折られてしまいましたが……この特別なクヌギ製ならば!」

「どこで手に入れた」

「隣の庭に落ちていた木の枝を拾って、私が作りました」

 右手で握って、ぶん、と振ってみる。――いい音だ。

「実は私、実家にいた頃はたまに釣りをしていたんです。そんなに得意というわけでもありませんが……」

「お前がそこまで熱心になるということは」

 腕組みしながら、朱心は言う。

「その主とやらも、どうやら薬の材料らしいな」

「ええ、もちろんです。なにせ、相手はスッポンですから!」

 魚籠を下げ、釣り竿を肩に担ぎ、片手で先ほどの鶏肉入りの箱を抱えつつ、英鈴は応えた。

 そう――池の主はスッポンだ。

 あの特徴的な甲羅こうらと泳ぎ方、間違いない。

「スッポンといえば、捨てるところがないほどの滋養じよう強壮きょうそうかたまりですからね。身を粉末にして飲むだけでも効果がありますし、生血を飲めば美容によいですし! それになんといっても、甲羅を乾燥させれば土別甲どべっこうになるんです。高熱や痙攣けいれんなどに効果があるとされていて……」

「粉末……?」

「焼き魚のような味で、けっこう美味しいですよ」

 語り終えるよりも早く、池のほとりに着いた。

 英鈴が釣り針に鶏肉を取り付けている間に、朱心は亭子あずまやの下にある椅子いすを自分で持ってくると、英鈴の後方、少し離れたところに座っている。

 そしていつものように肘置ひじおきを使って頬杖ほおづえをつくと、どこか皮肉ひにくっぽく語った。

「なるほどな。長らく秘薬苑に君臨くんりんしてきた主は、あわれにもこれより董貴妃の手で極刑にしょされるというわけか」

「あ、いいえ。主は捕まえても、まだ薬にしませんよ」

 振り返り、真面目まじめに英鈴は答えた。

「別の場所に新しい池を用意してあるので、そちらに移ってもらうだけです。このままだと、この池の魚がいなくなってしまいますから……」

 魚がいなくなれば池の中の生き物たちの均衡きんこうが崩れ、いざという時に必要な草木が得られなくなってしまうかもしれない。

 そうなる前に対応するのも、薬童代理であり、貴妃である自分の使命だ。

「いざ!」

 気合一発、英鈴は勢いよく釣り竿を振り、池に釣り糸を垂らした。

(さあ、かかってきなさい!)

 心の中で、主に呼びかける。

(この池に今生き残っている魚は、肉は食べない種類ばかりだから……これに食いつくとしたら主だけなはず!)

 我知らずなんだか興奮してドキドキしながら、英鈴は水面の浮きが動く時を待った。


 そして――


「…………」

 それから一刻が過ぎても、釣り糸は一向に動く気配がなかった。

「ククク」

 どういうわけかずっと椅子に座ってこちらを見つめている朱心が、低く、冷たい笑い声を漏らす。

「どうした董貴妃。最初の威勢いせいはどこへやらだな」

「い、いえ」

 疲れたと言うとなんだか負けてしまったような気分になるので、英鈴は虚勢を張った。

(ちょっとうでが疲れてきたし、足も痛くなってきたけど)

 でも、陛下がいる前で地べたに座ってしまうのは、いくらなんでも不敬すぎる。

(かといって、椅子を持ってきて座るというのも、いざという時に足を踏ん張れなかったら困るし……)

 ぐるぐると考えを巡らせながら、小さく歯噛みする。

(今回の鶏肉は美味しいのよ……ちょっと奮発して買った烏骨鶏うこっけいだもの。絶対食いついてくると思ったんだけど)

 そう思う間にも、背中に、ひしひしと朱心の視線を感じる。

 もしかしたら普段であれば、陛下にじっと見つめられて、胸が高鳴っていたかもしれない。けれど――

(絶対あの人、私のことを見世物みせものだと思っているわよね……!)

 普段は「私は忙しい」みたいなことをしょっちゅう言っているような気がするのだが、今日に限っては暇なのだろうか。

「私とて、たまには散策の時間くらい持つ。そして何を見るかは私が決めることだ」

「そ、そうですね」

(また考えを読まれてるし……)

 ままならぬ現状にムスっとしながら、英鈴はなおも釣り竿を構えつづけた。

 その時、ひゅうと風が吹く。

 秋の風は雲を運び、それまで空から大地を照らしつけていた太陽が、すっと雲の陰に隠れてしまった。

 陽光を反射してきらめいていた水面も、その色を失い――だが、その瞬間。

「あ!」

 浮きが大きく動いた、と思うが早いか、すさまじい勢いで釣り糸が引っ張られはじめる。

「来たっ! き、来ました陛下!」

 両足で地面を踏ん張りながら、英鈴は思わず朱心に呼びかけた。

 朱心もまた、椅子から少し立ち上がってこちらを見つめているようだ。

(くっ! 相変わらずすごい力)

 釣り竿が大きくたわんでいる。今までは、この力のせいで竿が折られ、逃げられてしまっていたのだ。

(でも今回は、そうはいかないんだから!)

 時にななめに、時に力をわざと弱めて即座に引っ張り、スッポンとこちらとの駆け引きが続く。釣りは体力勝負だ。こちらの体力および道具の耐久力がもつか、それとも、相手の体力がもつか――

 要は、先に疲れてしまったほうが負けなのだ!

「ぬぬぬぬぬ……!」

 全身の力を籠めて、英鈴はスッポンと一騎打いっきうちする。

 すると――

 ふいに、竿が軽くなった。

「え……」

 いな、違う。朱心だ。後ろに立った朱心が、一緒に釣り竿を引っ張ってくれているのだ。

「へ、陛下……」

「よそ見をするな。せっかくの好機なのだろう」

 けっこう腕に力を籠めているはずなのに涼しい表情で、朱心は言う。

「私も、いい加減お前の観察に飽きていたところだ。主にはここでご退場いただこう」

「か、観察ってやっぱり……」

「よそ見をするな、と言っただろう」

 冷淡に皇帝は言い、そして小さく吐いた息と共に、ぐいっと釣り竿を引き上げる!

「わ……!」

 そのあまりの力強さに、つい足がすべってしまった。こちらが尻餅しりもちをついた間に、空中に釣りだされた池の主が姿を現す。

「ほう」

 朱心の感嘆の声が聞こえるのも無理はない。

 池の主――やはりスッポンだったそれは、相当な大きさだった。たぶん、英鈴の身長の半分より少し小さい程度、だろうか。

 白い腹をこちらに見せて宙に投げ出されたそれは、しかし、釣り糸をくわえたまま地面に落下する。――英鈴が釣り竿を離してしまっていたせいだ!

「おい」

「あっ……」

 そして朱心の非難がましい声を背景に、池の主は体勢を立て直すと、怒りを表明するようにこちらに向かって口を開いた。落下の衝撃で、釣り針が外れてしまったらしい。

「ククク。ご立腹りっぷくのようだぞ、董貴妃。どうずる?」

「どうするって……!」

 釣り竿を握ったまま、かたわらでニヤニヤと笑っている朱心は、今度は手伝ってはくれない様子だ。

(こ、このまま捕まえようとしても、噛みつかれるよね……絶対)

 スッポンのきばは鋭く、一度噛みつけばなかなか離れないと聞く。

 あの巨体ではなおさらである。

 そして主の怒りは相当なものらしく、相手は池に戻ろうともせずに、こちらを威嚇いかくしつづけている。

(なんとか、無力化する方法があれば……!)

 英鈴は、必死に思考を巡らせた。そして――

「そうだ! こんなこともあろうかと!」

 ふところから取り出した小さな麻袋の中身――非常に苦い獐牙菜しょうがさいの丸薬を、スッポンに向かって投げつける!

「……!」

 丸薬は、見事に相手の口にすぽっと収まり――スッポンは、そのままがくりと首を垂れた。

 その隙に、英鈴は背後に回って甲羅を摑み、持ち上げる。

「やった……! 陛下、捕まえました!」

 達成感のあまり軽く跳びはねながら、英鈴は朱心に呼びかけ――

「あれ?」

 しかし彼が立っていた場所には、釣り竿が置いてあるばかり。

(えっ、どこ……?)

 慌てて周囲を見渡して、もはや秘薬苑の出入り口付近にまで遠ざかってしまっている、皇帝陛下の背を見つける。

 ややあってから、彼は立ち止まり、くるりと振り返った。

「飽きた、と言っただろう。しかし……」

 その口元に、ほんのわずかに、温かいものをにじませた笑みが浮かんだ。

「思ったよりも、楽しく暮らしているようだな。董貴妃」

「はい、陛下」

 英鈴は――拱手しようとしても今は無理なので、お辞儀じぎをして続けた。

「ありがとうございました!」

「フン」

 冷淡に鼻を鳴らし、朱心は颯爽さっそうと去っていった。

(……陛下が来てくださったから、捕まえられたのよね)

 彼の背をいつまでも見送りながら、ぼんやりそう思っていた英鈴が――

 スッポンにすそかじられているのに気づくまで、あと少し。


(おわり)

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