滄溟を仰ぐもの

第壱章

壱之零 反魂常世

『果たして人は眠りに落ちると、時を飛び越えること能うや否や？』

　人生最大の難問が御世語（みよがたり）狐霊（こだま）に肉薄した。

　人は眠りに落ちた瞬間から、次に意識を覚醒させるまでの間を記憶にとどめておくことはできない。人によってはまるで時間が跳んだように感じることもあるだろう。

　狐霊は科学のともがらではない。ましてや哲学の論者でもない。たかだか齢（よわい）壱拾弐（じゅうに）にしかならない遊び盛りの幼子である。だと言うのに、そのような容赦のない問を強いられているのには、やはりのっぴきならない理由があるためだ。

　なんとも意味深長な夢を見たような……。から目を覚ますと、狐霊はむくりと体を起こす。ゆっくりとあたりを見回してみると、そこは自分の家であった。

　当然といえば当然なのだが、これが少々様子が違う。居間の湿った畳の匂いは、紛れもなく十二年間で慣れ親しんだ我が家のものだし、天井の木目を見上げると、こちらをぎろりと睨み返してくるのは相も変わらない。

　であれば何がおかしいかと言うと、さほど広くもない吹き抜けの我が家に見ず知らずの、しかして血を分けた姉によく似た顔の女が、竹箒片手に我が物顔で土間のあたりを闊歩しているのである。しかもそれと目が合うと、女はまるでお化けでも見たかのように驚天動地を顕にして目玉をひん剥くのである。

　はて、まだ夢でも見ているのだろうかと、狐霊はぱちくりと瞳孔を右往左往させた。自分でも驚くほどの目覚めの良さであった。意識は判然と冴え渡っており、睡魔は欠片も残っていない。まるで壱日中眠りこけて、たっぷり休養をとったときのように体に力がみなぎっている。

　はてさてその女がもし泥棒であるなら追い返さねばならないし、例えば実は生き別れの上姉であるなら家族会議の場を設けねばならない。どんな事情があるにせよ、狐霊にはまずその女に正体を問いかける必要があったので口を開く。ちなみに狐霊が女と目を合わせてからここまでたっぷり三十秒。ようやくその舌がひんやりとした外気に触れた。

「やあ、そこの僕の姉が老けたような顔のひと。そう、あなたです。よければ名前と、我が家に一体何用かを教えてもらえないかな」

　すると、目の前の女がとうとう壊れたように奇声を上げた。

「こ、こ、こ、こだま、狐霊が。う、うそ、起きた。起きとる！」

　弾かれたように女は駆け寄り、顔面を蒼白にして矢継ぎ早に言った。

「ほんとに起きとるんだよね？ねぇ、私のことわかる！？あ、そんなことより、気分は大丈夫？！」

「そんな大袈裟な」

「当たり前でしょ！あんた、三年間も眠っとったんだから！」

「はいー？」

　後にこの狂乱咲き散らかす女の妄言を、狐霊は口を挟む間もなく聞かされるわけだが、話をまとめるとどうも自分は三年前のある出来事を境に今の今まで意識を失っていたらしい。ゆうに三年。実に三年。そりゃあ、もう、眠気なんかとはしばらく縁がなくなるというもので。

　つまるところ、この年端も行かない少年がたった今体験したのは、いわゆる事実上の『時間跳躍』なるものだったのだ。