第64話 シェリルの焦り

 シェリルが拠点の自室で仕事を続けている。かなり機嫌の悪そうな表情で机に向かい、自分の仕事を何かから目を背けているような熱心さで続けている。


 最近のシェリルは不機嫌な様子を続けていた。そのためシェリルの部下達は、彼女の機嫌を損ねないように注意しながら仕事をしていた。


 シェリルの徒党の者達なら誰でも彼女が機嫌が悪い理由を知っている。最近アキラが拠点に顔を出していないからだ。それは単純だが、深刻な理由だ。


 アキラはスラム街でシェリル達の後ろ盾として扱われている。シェリル達も多少は武装しているが、装備は対人用の拳銃程度だ。戦闘に秀でた者がいるわけでもない。シジマの徒党のように自衛できるような戦力を保持しているわけではない。


 そのシェリル達がスラム街で比較的安全に活動することができるのは、他の徒党がアキラを警戒しているためだ。アキラとシジマのり取りはスラム街の他の徒党にも伝わっている。


 アキラが後ろにいる限り、シェリル達と下らない理由でめるのは割に合わない。その判断がシェリル達に一定の安全を保証しているのだ。


 そのアキラが最近シェリル達の拠点に顔を見せていないのだ。シェリルが機嫌を悪くするのも当然だ。シェリルの徒党に所属している子供達がそう考えることは自然なことだった。


 シェリルと彼女の部下である子供達の認識にはかなりの差があった。シェリルの自室にいる人間は彼女だけだ。そのためシェリルは部下達をだますために表情を取り繕う必要はない。


 しかしシェリルは自分の表情を取り繕っていた。機嫌の悪そうな表情を意図的に浮かべていた。他の誰でもなく自分自身を誤魔化ごまかすために。


 シェリルは湧き出てくる感情を必死に抑えていた。焦りと不安と恐怖だ。シェリルは際限なく湧き続けているそれを、自分は機嫌が悪くていらついているという表情で必死に蓋をしていた。


 今のところは部下達をだましきっている。現状は彼女の機嫌をかなり悪くする程度のことであると誤認させている。しかしシェリル本人に対しての効果はそろそろ限界だった。


 シェリルがそこまで焦り、不安に思い、恐怖に震えている理由は単純だ。アキラと連絡が取れないからだ。


 しばらくアキラが顔を見せないので、シェリルはもらった情報端末で連絡を取ろうとした。しかしつながらなかった。単純につながらなかっただけではない。通信対象の情報端末が存在していない。それを示す表示が出ていたのだ。


 この情報端末で自分と連絡が取れない場合、既に死亡している可能性がある。以前シェリルはアキラにそのようなことを言われたことがある。そして今、正にその状況になっているのだ。


 シェリルはアキラにかなり深い所まで依存している。シェリルの一見強固な精神は、アキラに助けてもらえることを軸にしている。シェリルはアキラが自分を助けると言った言葉を根拠にして、精神的にアキラに寄り掛かることで、徒党のボスとしての態度と能力を維持していた。


 シェリルは自身の精神の軸が嫌な音を立てて折れ始めていることに気付いていた。それが折れた途端、シェリルは悲痛な声で泣き叫ぶだろう。


 シェリルの中の冷静な部分が、他人ひと事のように彼女の芯が折れるまでの残り日数を数えていた。保って数週間、早ければ数日、下手をすると数時間。彼女の頭の中に響く残り時間をつぶやく声が、シェリルの精神を削り続けていた。


 シェリルは現在の状況から全力で目をらし続けている。シェリルの目つきが非常に厳しいものになっている理由だ。それを直視する余力など彼女にはもう残っていなかった。


 エリオがシェリルの私室にノックをせずに入ってくる。


 シェリルが表情に不機嫌と苛立いらだちを過剰に込めてエリオをにらみ付ける。


「入る前に、ノックをしろと、言っているでしょう?」


 エリオがシェリルの静かな迫力に気圧けおされながら答える。


「わ、悪かったよ。気を付ける」


「それで、何の用?」


「アキラさんが来たぞ。ここに通した方が良いか?」


 エリオのその言葉で、シェリルから放たれていたすごみはあっさり四散した。




 シェリルの部屋に通されたアキラが微妙な表情でソファーに座っている。シェリルがアキラの膝の上にまたがって座っているからだ。


 シェリルはアキラの首に両手を回して上機嫌で抱きついている。アキラもある程度予想はしていた。そろそろシェリルの態度に慣れ始めてきたこともあり、アキラはシェリルの好きなようにさせていた。


 シェリルが緩んだ表情でうれしそうに話す。


「会えてうれしいです。アキラも忙しいとは思いますが、できればもっと頻繁に会いに来てほしいです。忙しかったのですか? 何があったのか聞いても良いですか?」


「ああ。ちょっと死にかけてたんだ」


 アキラは些細ささいなことを話すような口調で答えた。そのためシェリルには下らない冗談か質の悪い比喩を言っているようにしか聞こえなかった。


 シェリルにとってアキラの生死に関わる事項は、それがたとえ冗談であっても聞き流せるようなことではない。シェリルの徒党の繁栄のために、それ以上にシェリルの精神の安寧のために、アキラには生きてもらわなければ困るのだ。


 シェリルが悲痛な表情でアキラを少々非難するように話す。


「……その冗談、前にも聞きましたけど、面白くないです。冗談でもそんなことを言うのは止めてください」


 シェリルが浮かべる表情は半ば意図的なものだ。声色も表情に合わせて調整している。


 シェリルは日々の生活の中で相手に与える印象を操作する術を少しずつ磨いていた。シェリルが同じことを部下の子供達にすれば、シェリルの美貌がその術の威力を増幅させ、下らない冗談で相手を悲しませた罪悪感と、シェリルのような美少女に強く心配されているという強い喜びを与えるだろう。


 発言自体はシェリルの偽りなき本心だ。シェリルの表情も声色も、彼女の意見を通しやすくするための強めの装飾にすぎない。


 しかしアキラは平然と答える。


うそでも冗談でもない。前のも今のも本当に死にかけてたんだ」


 アキラの言葉が事実であることはシェリルにも分かった。アキラの表情からも声色からも事を大げさに話しているような虚飾の雰囲気は全く感じられない。


 アキラが本当に2度も死にかけていたことを知ったシェリルがひどく慌て出す。そのシェリルの表情に装飾は一切なかった。


 シェリルがアキラの後ろに回していた手をアキラの肩に移動させて、そのまま両手を伸ばしてアキラの顔を見る。


「だ、大丈夫なんですか!?」


「見ての通りピンピンしてるよ。傷が痛むなら抱きつかせたりしない」


 シェリルが安堵あんどの息を吐く。強がりなどではないことはシェリルにも分かった。


 シェリルが再びアキラにしっかり抱きつく。


「……心配させないでください」


 大半の人間ならシェリルを抱き締めて安心させる言葉を投げ掛けるのだろう。しかしいろいろとひねくれているアキラは、当たり前のことのように平然と答える。


「それは無理だ。ハンター稼業に危険は付きものだからな」


 アキラの返事を聞いたシェリルがかなり不服そうに、とても心配そうに話す。


「それは、そうですけど……。でも……」


 悲痛な様子すら感じられるシェリルの表情を見て、アキラがその理由を考える。ひねくれた思想が出した答えは、やはりひねくれたものだった。


 アキラはシェリルが自分にびるような態度を見せる理由を、彼女の徒党の維持と発展のためだと考えている。アキラにも納得できる理由であり、事実だ。アキラもスラム街の生活の大変さは知っている。シェリルが必死になる理由も十分理解できる。


 アキラが押しつけた立場とはいえ、シェリルが徒党のボスであり続けるにはアキラという後ろ盾が必要だ。だからシェリルがアキラとのつながりを保持し続けるのに必死になることに、アキラは疑問を持たないのだ。


 逆に言えば、シェリルの徒党がアキラの後ろ盾を不要とする程に十分に勢力を増やした後は、自然に疎遠になるだろう。もうアキラの力は必要ないからだ。アキラはそう考えていた。


 それを踏まえて、アキラがシェリルに話す。


「助けるって言ったから、俺が生きている内はある程度助けるつもりだ。でも俺がハンター稼業で食っている以上、死ぬ気はないが死ぬ時は死ぬ。シェリルも俺がいつ死んでも何とかなるように、徒党の強化とかしておいた方が良いと思うぞ?」


 シェリルが表情を更に悲痛なものに変えて、声を震わせて答える。


「……徒党の強化はするつもりです。アキラに助けてもらって、いろいろ頼っている自覚もあります。でもアキラが死んだ時のことなんかを話すのは止めてください」


「……ん? 分かった」


 シェリルの態度、悲しげな声と少し強まった腕の力から、アキラは発言を間違えたことに何となく気付いた。しかし何をどう間違えたかまでは分からなかった。


 正しい回答が分からないアキラはそれで黙り、シェリルもアキラに抱きついたまま黙った。


 シェリルがアキラに泣いて助けを求めて、アキラがそれに応えた時から、シェリルがすがる相手を求めてアキラがそれに応じた時から、過酷な現実に打ち砕かれたシェリルの心をアキラが与えた安心で再構成した後から、シェリルの行動は表面上は以前と同じであっても、その行動原理は大きく変わっていた。


 シェリルが徒党の強化を進めているのは、成長した徒党が生み出す恩恵をアキラに差し出すためだ。


 既にシェリルはアキラに体を差し出している。正確にはそれをアキラに突っ返されている。


 シェリルは十分に美少女と呼べる美貌の持ち主だ。スラム街の住人としては身体の発育も良く服装も小奇麗で、シェリルの総合的な容姿は都市の下位区画の平均を大きく超えている。シェリルがシベアの庇護ひご下にいた時の比較的恵まれた生活が、シェリルの生まれついての美貌をスラム街の生活でも余り損なわせなかったためだ。


 そのシェリルの体を好きに使って良いとシェリルがアキラに提案しても、アキラはモンスターに襲われた際に戦力にもおとりにもならないから使えないと突っ返している。シェリルにはアキラを体でつなぎ止めることも、積もった借りを体で支払うこともできないのだ。


 シェリルにはアキラが自分を助ける理由など分からない。善行めいたことをすれば自身の不運が多少改善されるのではないか、などという何の根拠もないげん担ぎだとは想像もつかない。シェリルにはアキラが些細ささい気紛きまぐれと惰性で自分を助けているようにしか思えない。


 今のシェリルにはアキラから受ける恩恵の見返りとして差し出せるものが何もない。そしてアキラがシェリルに与えている恩恵、つまり借りは、今も積もり続けている。


 徒党の規模を拡大させ、その力でアキラに利益を返さなければ、自分を助けておいて良かったと思わせなければ、いずれアキラは自分をあっさり見捨てるだろう。シェリルはそう考えていた。


 シェリルが思うほどアキラにはシェリルを見捨てる気はなく、アキラが思うほどシェリルにはアキラを切り捨てる気はない。お互いに相手があっさり自分との縁を切るだろうと考えている。そのすれ違いが、シェリルのアキラに対する執着を強めさせていた。


 先ほどの会話の後の妙な沈黙を何とかしようと、シェリルが別の話題をアキラに振る。


「えっと、アキラと連絡を取ろうとしたのですけど、つながりませんでした」


「ああ、前に使ってた情報端末は壊れたんだ。今日は新しい情報端末の連絡先を伝えに来ただけだ」


 アキラがシェリルを退かしてポケットから小型の情報端末を取り出す。シェリルも机に置いたままの情報端末を取って戻ってくる。


 シェリルはアキラの隣に座り、アキラと一緒に情報端末を操作して連絡先の交換を済ませた。そして情報端末を近くのテーブルに置くと、再びアキラの上にまたがって向かい合って座ろうとする。


 シェリルに抱きつかれるのは終わったと思っていたアキラがシェリルを押しとどめる。


「ちょっと待て。まだ続ける気か?」


「はい。連絡先の交換は済みましたから、また抱きついても大丈夫ですよね?」


「一度離れたんだからもう良いじゃないか」


「嫌です。アキラが死にかけたと聞いてすごい心配しましたので、その精神的な疲労が回復するまでは離しません。ただでさえ徒党の指揮で疲れていますので、いつもより長く抱きつきます」


「シェリルも何かやることがあるんじゃないか?」


「優先順位の最上位を実行中です。アキラに抱きついてまった疲労を回復しつつ、私がアキラと仲が良いことを私の徒党の人間に知らしめています。私が徒党のボスであり続けるためにも、スラム街の他の徒党との付き合いのためにも、これは非常に重要なことです」


「誰も見てないなら、余り意味はないんじゃないか?」


「誰か呼びましょうか?」


「止めてくれ」


 シェリルがアキラと仲が良いことを知らしめるのは、徒党での地位を維持するために重要なことだ。アキラにもそれは理解できるが、誰かに抱きつかれている光景を進んで見せたいとは思わない。アキラもそこまで吹っ切れてはいないのだ。


 アキラがシェリルと2人きりで部屋にいれば、徒党の他の人間が適当に推測するだろう。その辺りがアキラの妥協点だ。


 再びシェリルがアキラに抱き付く。誰かに見られたらいろいろと誤解される光景であることに間違いはない。


 エリオが今度はノックをしてから部屋に入ってきた。


 シェリルがアキラに抱きついたまま、エリオに冷たい視線を送る。


「……エリオ。確かに部屋に入る前にノックをしろと言ったけど、それは部屋の中の人間の許可を得てから入れってことなのよ?」


 エリオがたじろぎながら答える。


「わ、悪かった」


「それで、用件は?」


 下らない用ならばただでは置かない。シェリルはその意思をしっかり視線に込めていた。


 エリオがシェリルの気迫に気圧けおされながら答える。


「カツラギさんが来た。シェリルに用があるってさ。一応応接間に通した。……今は忙しいって伝えた方が良いか?」


 アキラほどではないがカツラギもシェリル達の活動に重要な人物だ。徒党の主な収入はカツラギの伝にるものだから。無下に扱うことはできない。


「……すぐに行くと伝えなさい」


 シェリルはこのままアキラに抱きついていたい欲望を抑えながらそう答えた。




 拠点の応接間のソファーにカツラギが座っている。テーブルを挟んで向かいにシェリルとアキラが座っている。その後ろにエリオとアリシアが立っている。


 エリオとアリシアは徒党の他の人間のまとめ役として幹部のような扱いを受けている。シェリルがシジマやカツラギなど徒党の外部の重要な人間と拠点で会う時は、エリオとアリシアも同席することになっている。いずれはシェリルの代わりに徒党の内外のめ事を調整することになる2人だが、今はシェリルの後ろに立っているのが精一杯だった。


 一応この部屋には、シェリルの徒党のボスと幹部、そして徒党に関わる外部の重要人物が全てそろっていることになる。もっともアキラはシェリルの付き合いでここにいるだけだ。そしてエリオとアリシアにはこの場の発言権などないに等しい。


 シェリルの部下が3人分の飲物をテーブルに置いて部屋から出て行った。このような場に慣れていないエリオとアリシアが、部屋から出て行ったシェリルの部下を少し羨ましそうに見ている。


 シェリルは和やかに微笑みながらカツラギに話す。


「できればカツラギさんを待たせないためにも、事前に連絡を頂きたいです。私が常に拠点にいるとは限りませんので。ああ、もしカツラギさんが私の部下の誰かに伝えていたはずでしたら、こちらの不手際ですのでおびします」


 カツラギが軽く笑って答える。


「いや、ちょっと近くに来たから寄っただけだ。悪かったな」


「お気になさらずに。それで、本日の御用件は?」


 カツラギがアキラをチラッと見てから答える。


「最近アキラの姿を見かけなかったから、シェリルが居場所でも知らないかと思ってな。本人がここにいたんで、もう用は済んだようなもんだ」


 カツラギはシェリルの部下の態度から、シェリルとアキラの縁が切れた可能性があると判断していた。カツラギが事前の連絡無しにシェリルに会いに来たのは、シェリル達の反応からそれを推し量るためだ。


 カツラギにとってシェリル達はまだアキラとの関係無しに付き合う相手ではない。アキラが既に死亡していた場合、あるいはアキラがシェリルを切り捨てた場合は、カツラギにはシェリル達と関わる気はない。


 カツラギが事前にシェリルに連絡すれば、シェリルはアキラと連絡が取れていない状況を隠そうとするだろう。シェリルの部下に対してもシェリルは何らかの手を打つだろう。それを防止、又は軽減させるために、カツラギは意図的に連絡無しにシェリルの拠点に訪れたのだ。


 そのカツラギの内心をシェリルは正しく理解している。カツラギはそれを口には出さないものの、特に注意深く隠しているわけではない。カツラギの態度を少し推察すれば、シェリルがそれを知ることは容易たやすい。


 シェリルもカツラギもお互いそれを理解している。そしてそれが杞憂きゆうに終わったのならば、態度に出すようなこともしない。カツラギの言葉を鵜呑うのみにしているのはアキラぐらいだ。


 シェリルとの用件は済ませたので、カツラギはアキラとの用件を話し始める。


「それでアキラ。旧世界の遺跡の探索の方はどうなってるんだ? 俺に売却する遺物を集める予定はちゃんと立てているのか? それともまだ仮設基地関連の依頼を続けてるのか?」


「仮設基地関連の依頼はもう済んだよ。同じ依頼を続けて受ける予定もない」


「それは良かった。今後は遺跡探索に戻るんだな?」


「その予定だ。と言っても新調した装備が届くまでハンター稼業は休業中なんだ。装備が届くのに2週間ほど。その後に遺跡探索で1週間程度。売りに行くのはその後だな。もう少し待ってくれ」


 カツラギが不満げに話す。


「装備を新調? おいおい、それなら俺から買えよ。俺の商売を知ってるだろうが」


 アキラがそれをあっさり断る。


「装備品の類いを買うことに決めている店はもう別にあるんだ。悪いな」


 カツラギがより不満げに話す。シェリルがアキラの隣にいるので、いろいろと臭わせるように少しすごんで話す。


「……あのな、アキラ。遺物も売りに来ない。俺の店の商品も買わない。そんな態度なら俺も付き合いを考えるぞ? 一緒に死線を潜った仲だとしても、限度ってのはあるんだ」


 もっともだ、と思いながらも、アキラはシズカの店以外で装備品を買う気はなかった。しかし何か買わないと、少なくとも購入を検討しないと、カツラギの不満は収まらないだろう。アキラはそう判断して、カツラギから買えそうなものを、試しに口に出してみる。


「分かった。それなら回復薬を売ってくれ」


「そんな安い物をちまちま買われてもな……」


 カツラギはその程度では大いに不満だと言いたげの態度をあからさまに取っていた。だがアキラがその態度を吹き飛ばすことを話す。


「1000万オーラム出す」


「……は?」


 アキラから提示された金額を聞いて、カツラギは思わずきょを突かれた声と表情を出した。


 アキラが真面目な表情で話を続ける。


「俺も効果があるんだかないんだかよく分からない安値の回復薬が欲しい訳じゃない。骨折程度すぐにその場で完治するような、旧世界の遺物並みに高性能な回復薬が欲しいんだ。最前線で商品を仕入れてきたんだろう? そういう回復薬は仕入れていないのか?」


 カツラギが商売人の表情を浮かべて聞き返す。


「支払は?」


「口座払いで良いならこの場で払う。品は?」


「1箱200万オーラムの回復薬がある。店の在庫にあるから取り寄せ期間とかはない。取ってくるだけだ」


「5箱くれ」


 アキラが口座払いが可能なハンター証を出す。カツラギはそれを受け取って、自身のハンター証対応端末にかざして支払い処理を済ませた。


 カツラギは支払処理が正しく完了するまで本当にアキラに支払えるのか疑問だった。だが支払が正常に完了したことを確認すると笑みを浮かべた。


 稼ぎの良いハンターとのつながりは、ハンターを相手に商売する者達にとって売上金以上の価値がある。カツラギはシェリルをチラッと見て思う。


(1000万オーラムをあっさり払うか。良い稼ぎだ。それがシェリルに良いところを見せようとしただけであってもな。今のところ、俺の投資は役に立っている。これからもこの調子で頼むぜ?)


 カツラギが立ち上がってアキラが買った回復薬を取りに戻ろうとする。


「良し。取りに戻るからここで待っていてくれ。ここにいるよな?」


「ああ」


 カツラギが部屋から出る前に、一度振り返ってアキラに尋ねる。


「……やけにあっさり支払ったが、俺がこのまま金を持って逃げたり、質の悪いものを持ってきたりしたらどうする気なんだ?」


 アキラがカツラギの疑問に平然と正直に答える。


「逃げたら追って殺すし、変なものを持ってきたら付き合いを考える」


「なるほど。今後も良い付き合いができそうだな」


 カツラギはアキラの返事に満足げに笑って部屋から出て行った。


 エリオとアリシアは、目の前で行われた1000万オーラムの取引を唖然あぜんとしながら見ていた。エリオ達が一日中屑鉄くずてつを集めてカツラギに売っても、買取り金額が1000オーラムに届くことはまれだ。更にそこから徒党の取り分が引かれ、残りを作業人数で割ると一人分の取り分は微々たるものになる。そんなエリオ達の稼ぎとは桁違いの額の取引をあっさり済ませたアキラ達を、2人は複雑な気持ちで見ていた。


 エリオ達はアキラがスラム街の住人であったことを知っている。年齢も境遇も自分達とさほど違いのないはずの人間が、どうしようもないと思えるほどの差を付けて自分達の前にいる。それは運が良ければ自分達もアキラのようになれるかもしれないという希望を2人に与える以上に、アキラと然程さほど違いがなかったはずの自分達がなぜそう成れなかったのかという理不尽への嘆きを与えていた。


 シェリルは傍目はためからは平静を装いつつも、内心はかなりの焦りを覚えていた。シェリルの予想以上にアキラが稼いでいるからだ。


 1000万オーラムを平然と支払うほどに稼ぐハンターの実力が、そこらの凡庸なハンターの実力とかけ離れていることは明白だ。シェリル達はその凄腕すごうでのハンターを、ろくな対価も支払わずに利用していることになる。


 シェリル達が十分な見返りをアキラに返さなければ、いずれアキラはシェリル達を切り捨てる。シェリルはそう考えている。その十分な見返りは、ハンターの実力に比例して大きくなるだろう。


 最低でも1000万オーラム稼ぐハンターに対する十分な見返りは一体どれほどか。シェリルには想像できなかった。


 しばらくしてカツラギがアキラが買った回復薬を持って戻ってくる。


「待たせたな。これが1箱200万オーラムの回復薬だ」


 カツラギはそう言って回復薬の箱をテーブルに置く。箱はどれも片手で持てる大きさで、内容量はそう多く見えない。


 アキラがテーブルの回復薬を見て顔をしかめる。


「……5箱買ったはずだぞ?」


 テーブルの上の回復薬の数は4箱だ。アキラの購入数には1箱足りない。


「在庫を確認したら4箱しかなかったんだ。それでだ」


 カツラギはそう言って更に別の回復薬の箱を3箱テーブルの上に置く。


「おびに1箱100万オーラムの回復薬を3箱付けようじゃないか。合計1100万オーラムの回復薬を1000万オーラムで提供しよう。これで手を打たないか?」


「……まあ良いか。分かった」


「悪いな」


 アキラとしては支払額以上の回復薬を手に入れることができたので何の問題ない。カツラギも200万オーラムの回復薬4箱分の取引よりは利益が上なので妥協できる範囲だ。


 何よりカツラギにとっては既に代金を受け取ったのにもかかわらず、注文通りの品を提供できなかったという失態を取り消せた方が重要だ。商売人にとってそれは金を返せば済む問題ではないのだ。


 懸念事項を片付けたカツラギが次の営業を早速開始する。


「ところで、今後も同価格帯の回復薬を買う予定があるなら仕入れておくが、どうする?」


「それを買える金がある時に、カツラギの所に在庫があれば多分買う。金があって在庫がなければ、別の店を探すんじゃないか? その金があるかどうかは、ハンター稼業なんだ、予想はできないな。在庫の調整はそっちでやってくれ。本職だろ?」


「ごもっとも。期待して待ってるから、金ができたら連絡してくれ」


 アキラがカツラギに仕入れを頼めば、カツラギはそれを盾に売れ残りの購入をアキラに迫るだろう。アキラもそれぐらいは理解できる。アキラは適当に濁して確約を避けた。カツラギは内心で軽く舌打ちして、営業用の笑顔を返した。


 カツラギが気持ちを切り替えてアキラに話す。


「ああ、そうだ。ハンター稼業を再開したらまた旧世界の遺跡に行くんだろ? 旧世界の遺物以外にも、俺が買い取れるものはいろいろある。一般に出回っていない旧世界の遺跡の場所とか、その遺跡の内部マップとかだな。アキラにそれ系の買取り先がまだないなら俺に売ってくれ。俺が他のハンターへの販売を代行しても良い。価格交渉等の面倒事を引き受ける分、仲介手数料とか分け前とかはしっかりもらうが、アキラが自分で売るよりは楽に稼げると思うぞ?」


「遺跡の内部情報を売るとしても、地形データの形式とかはどうするんだ?」


「情報収集機器の収集データを解析したりする専門家への伝があるんだよ。よほど特殊な機器で収集したデータでない限り大丈夫だろう。旧世界の遺跡の内部を頑張って捜索したけどろくな遺物がなかった。そんな時でも収穫ゼロで帰る羽目にならずに済む。まあ既に広く知れ渡っている遺跡の情報でも、より詳細な情報なら小遣い稼ぎ程度の額にはなるさ」


「分かった。気が向いたらな。しかしいろいろやってるんだな」


「統治企業に成り上がるには、金以外にもいろいろ必要なんだよ。金も要るがな。融資も随時受け付けているぜ?」


「悪いが、そんな金はない」


「だろうな」


 その後、カツラギはアキラと新しい連絡先を交換してから帰っていった。


 アキラが購入した回復薬をリュックサックに詰めていく。最後に残った1箱100万オーラムの回復薬の箱を手に取り、それをリュックサックに入れようとして手を止めた。


 アキラは少し考えた後、その回復薬をシェリルに向かって放り投げた。シェリルは放物線を描いて飛んできた回復薬の箱を両手で受け止めた。


 アキラがシェリルに話す。


「やる。適当に使ってくれ」


「あ、ありがとう御座います」


 シェリルは頑張ってアキラに笑顔を返した。つまり、シェリルは笑顔を浮かべるのにかなり努力した。シェリルの笑顔は僅かに固く、比較的シェリルと親しい者なら少々無理をしていることが分かる表情だった。少なくともシェリルが普段アキラに向けている笑顔ではない。


 アキラもシェリルの微妙な表情に気づき、自分がまた何かを間違えたことに気付く。しかしアキラには何をどう間違えたかまでは分からない。


『アルファ。俺はまた何かやらかしたか? シェリル達がスラム街で怪我けがをすることもあるだろうと思って、おまけの分の回復薬を渡したんだけど……』


 アルファがいろいろ考えていそうな表情で答える。


『私には問題がある行動には思えないけれど。そうね。アキラとシェリルは対外的に恋人とか愛人とか、そんな扱いを装っているでしょう? そういう相手へのプレゼントが何の色気もない回復薬ってのは、情緒に欠けるかもしれないわね。又は、半額セールの品を相手にプレゼントして感謝や愛情も半額になるなら、実質10割引きのおまけの品は感謝や愛情も10割引き? いや、これは考えすぎね』


『いや、そんなことまで考えて渡したわけじゃないって。まあ確かに、おまけの品ではなかったら渡さなかったと思うけどさ』


『対外的に、恋人や愛人の証拠の品として見せる物として、指輪やネックレス等のアクセサリー類と、回復薬の箱のどちらが良いかと言われたら、回復薬の箱を証拠品にするのは見栄え的にちょっと無理があるかもね』


『……ああ、確かそんなことになってたんだっけ。助けるって言ったし、何か適当にそれっぽい物を後で贈るか』


 アキラとアルファは微妙にずれたことを話し合っていた。当然だが、シェリルが表情を僅かにゆがめた理由にかすりもしていない。


 シェリルが両手で持つ回復薬を見ながら思う。これで更に返しきれない恩が増えた。アキラに支払うべき十分な見返りの難易度が更に上昇した。


 シェリルは、焦っていた。

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