第2話 爽やかな喧騒


(なんだぁ? 妙に眩しくないか)


 昨日あれだけ体力を酷使したと言うのに、幸彦の目覚めはずいぶん早いものだった。

 彼は、まぶたを擦り窓の方に目を向ける。布団をめくって周りの様子を確認すると、それは直ぐに見つかった。


(原因はこれか…… ちゃんと昨日閉めてれば良かった)


 どうやら太陽の光がカーテンの隙間から少し漏れ出しているようだ。薄暗い部屋の中で一筋の光線が幸彦の顔を直撃する。

 彼は眩しさから逃げるように寝返りを打ち、吸血鬼のように爽やかな陽光をシャットアウトした。そうして覚醒しつつある意識を底に沈め、もう一眠りしようとしたその時。


「ワン!!」


 彼の耳に小さく小動物の鳴き声が反響する。それは朝の始まりを告げる絶望的な鳴き声だった。


「アゥー! アゥー!」


 何かをねだるような、少し高い鳴き声がアパートの一室に響き渡る。

 幸彦はそれを聞こえていないふりをした。だが鳴き声の主は諦めていなかったのかどんどんとボリュームを上げ何度も吠えだす。


「おい、朝だからそんな鳴くな! ご近所迷惑だ! ここの壁薄いんだから!」


 叱られたそいつは、くぅーんとかすかに鳴く。それでようやく部屋の中は静かになった。    

 そうして、二度目を満喫しようとする幸彦であったが、どうやらそいつは諦めきれなかったらしい。


『ご主人、朝ご飯早く頂戴』


(こいつ、直接脳内に……⁉︎)


 首だけで後ろを振り向くと、そこには黒と茶色の毛並みに覆われた、一匹のウェルシュ・コーギー・ペンブロークがいた。

 奴はケージの上から円な瞳と愛くるしい表情で、こちらを見下ろしてくる。そして、サブマシンガンのように言霊をぶっ放した。


『ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯ご飯んんんんんぅ!!』


 彼は茶色の長い尻尾をぶんぶん振り回しながら、血走った目で朝食を要求し続ける。


(ご飯が……ゲッ、ゲシュタルト崩壊する)


 幸彦は情報多寡により、激しい目眩と頭痛に襲われた。最悪な起こされ方だ。彼は苦悶の表情で痛みに耐えながら何とか同居犬の暴走を止める。


「ぐおぉぉぉぉ……まっ、待て。落ち着け! 一回ご飯は止めろ。頭がパンクする」


『ごは……ん?』


 ヘッヘッヘと口を開き、だらだらとよだれを垂らすおデブ犬。可愛い顔して精神攻撃を主人に仕向ける愛犬だった。

 何がいけなかったのか、気付いていないのだろう。目を丸くしている愛犬の顔はさぞかし腹が立った。


「そんな時間か……? ほら見ろ⁉︎ やっぱ違うじゃねえか。まだ五時だぞ、五時! もうちょっと、もうちょっと寝かせろてくれよぉぉ!頼むからぁーー!!」


 幸彦は枕元に置いてあった目覚まし時計で時間を確認する。時刻は午前五時を指しており彼がいつも起きている時間よりも早かった。


『吠えようか?』


「主人を脅すな。また田村さんに怒られる。ちょっと、ほんのちょっとご飯を我慢するだけだろう?」


『さーん、にー、いーち』


「はぁ〜、何でこんな面倒なのかっちまったのか……』


 目を擦りながら渋々、幸彦は立ち上がる。そして照明の紐を一回引っ張った。

 すると、ぱっと部屋の中が明るくなり、彼の意識は微睡から一気に覚醒する。


「ほれ、そんならちょっとそこで動いとけ。軽くなら飯も食わせてやる」


 彼はケージを開き、レタスを外に出す。

 レタスは、小動物らしく短い歩幅でちょこちょことこちらに歩いてくると寝転がった。


『ねぇ〜。ケージの中って寝返り出来ないから不便じゃない。って事で前みたいにご主人の横で寝ちゃ駄目?』


 愛犬は、前足を上げ幸彦の足にしがみ付いてくる。幸彦はそれを辞めさせつつ、考えにふける。

 確かに狭いケージの中には幸彦もあまり入れて上げたくなかった。だがこいつは脱走するのだ。

 

「いや、ケージに入れとかないとレタス脱走するよな。それもしょっちゅう。何なの? お前って捕まりたいの? マゾなの?」


『あー……そんなことも有りましたねぇ。はい、今思い出しました。そうでしたね。はははは』


 そう、この駄犬は窓を器用に開けて、アパートからトテトテと短い足で走って脱出するのであった。脱走するたびに幸彦は冷や冷やするのであった。

 是非ともやめて欲しい。保健所に捕まったら一体どうするつもりなのか。そこの所を幸彦は強く追求した。

 

『いやいやいや、違うし。捕まりに行ってるわけじゃないから。それに脱走は犬の本能っていうか……僕も家出て行こうと思ってるんじゃなくて』


 愛犬も一応罪悪感はあったのか、目をふいっと逸らし思念を高速で送ってくる。


「言いたいことはそれだけか?」


 幸彦の目線が鋭くなる。レタスはその表情を見て、表情を強張らせる。自分で地雷を振ったことに今更気付いたのだろうか? 彼は更に弁解をする。


『いやいやいや、まだ理由あるから何かガーッときてなんがなんでも外に出て遊びたい気持ちになるっていうか……って言うわけなんですよ。

だからご主人の手を煩わそうとしてる訳じゃないんですよ。えーとつまりその、ごめんなさい。藪蛇でした』


「ようやく謝ったな? その手のひら返しの早い所だけは褒めてやる。まぁそう言う訳で諦めろ。お前の自業自得だ」


『うぇーぃ。了解しました〜。僕が悪いですよぉ〜っと』


 まぁ、レタスに制御出来ないなら幸彦は、飼い主としてケージで寝かせる事を選択せざる得なかった。


『もうちょい構って』


「しっし、こっちは忙しいんだ、飯食ったら一人で遊んどけ」


 彼はレタスを退けて立ち上がる。そうして少し歩いた後、戸棚の下に置いてあるドッグフードの袋を開いて、銀色の餌皿に適切な量を入れていく。

 少し足りないぐらいに入れた後、彼はちぎったレタスを一枚入れるのであった。


「ほーれ、お望みの朝飯だ。味わって食えよ」


『わーい、レタスだぁ』


 レタスは食器皿を地面に置いた瞬間、むさぼるようにガツガツと朝食をしょ


 その様子を見た幸彦は安心して、台所の方に向かって行き、エプロンを付けるのだった。

 




 結論。やっぱり家の犬はおデブになる要素ありありだった。それはもう見事なまでに。

 レタスは空の食器を口に加えて幸彦の足元にすり寄ってくる。


『おかわり』


 どうやら朝食はもう食い終わったらしい。食い終わったのは別にいい。が、これ以上レタスの体重を増やさないため、彼はそのお願いを却下した。


「駄目だ。お前はもうちょっと食うのを抑えろ。ほれ、体の至る所に肉がつきまくってるじゃねぇか」


 幸彦はレタスの首や、顎、耳の後ろなどの皮を引っ張る。


『あっそこ気持ちいい、もっともっと』


 別にマッサージをしているわけではないのだが。止めようとするとレタスは手を甘噛みしてしてきた。


「痛え! お前、それやめろって何回も言ってんだろうが!」


『なんか本気で怒ってない気がするから』


「チッ! この駄犬がぁ」


『あー犬種差別だ! ご主人ひっどーい』


 しつけを間違えただろうか。なまじ意思の疎通がしやすい故に少々甘く育ててしまった。


(止めようとすると血が出るぐらい本気で噛むしなコイツ……)


 幸彦は、コンロの火を止めて、お湯を温めるのを中断する。そして、居間の方にレタスを引っ張っていくのであった。五分程立っただろうか。そこには腹をでろんと広げたレタスがいた。


 満足したのだろう。愛犬の緩み切った顔を見れば一目瞭然だ。レタスを軽くあしらった幸彦は、台所に戻ろうとする。

 しかし、手を見ると茶色のふんわりした毛が見える。それは手にとどまらずそこかしこについていた。


(あーこれは……流石に手洗わんと。食中毒とか怖いしな〜〜)


 幸彦はすぐさま洗面所に向かう。彼は掌から指の間まで入念に、丹念に、洗った。

 ひとしきり洗って納得いったのだろう。彼は顔を上げて鏡を見ると固まった。それはもう見事なまでに。


 何秒そうしていただろうか。ふと思い付いたかのように服を脱ぎ、洗濯機に放り投げる。そうして何もかもを脱ぎ捨てた彼は、風呂場に入る。何かを忘れたまま……




『ご主人もう脱走しないので、いい加減にご飯下さい』


 しばらくした後、風呂場を出ると洗面所には、レタスが耳をペタンとさせ申し訳なさそうにしていた。


「すまん、忘れてたわ……」


 うっかりレタスの朝食を忘れていた。そのことを告げると、レタスは目を大きく見開き、低い声で唸り始める。


「ぐるるるるるる!」


 レタスは口をむき出しにして鋭く尖った犬歯を見せつける。


(あっ歯が虫歯になってやがる。くそ、歯磨きちゃんとさせねえから、また出来てるじゃねぇか)


 彼の犬歯にはうっすらとシミのように黒く変色している部分があった。後でふんじばって歯磨いてやると決意する幸彦であった。

 だが、愛犬はそんなことは気にせずに幸彦に威嚇し続ける。レタスは失った野生を取り戻したのか。やたらに獰猛だった。




「ヴウゥーーー! グルァァァァ!!」


 今にも襲いかかってきそうな、導火線に火がつきそうな場面である。風呂場に響く水滴の音がやけに大きく感じた。

 緊張しているのだろうか。口の中が渇き、手がジンジンと痛くなる。


「待て、話せば分かる。まぁそういきり立つなよ。服でも着てからゆっくり話そうじゃないか。俺湯冷めしちゃうから」


 何はともあれ、この状態は非常に不味かった。防御力に乏しすぎる。なんとか時間を稼ごうとする幸彦であったが時すでに遅し。


『――問答無用!』


 レタスは幸彦の手の甲に牙を突き立てる。それはそれは痛かった。ガチで泣くぐらいに。


「あーーーー! 噛みます? 普通マジで噛みますか⁈ あだだだだだだだぁ!!」


 幸彦は絶叫を上げる。それは隣人から苦情を言われる理由としては充分過ぎるものだった。

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