第272話 川中島の戦い その2

 抜けるような青い空が西に沈む夕日によって赤く染まっていく。風はほぼ無い。

 今は10月も下旬である。地面付近の熱がどんどん放出されて地面付近の気温が下がっていくだろう。所謂、放射冷却という奴だ。


「明日は霧が出るか・・・地元の者に確認をしてください」


 気象条件から考えられる自然現象を地元民に訪ねるように指示する。


「御意!」


 そばに控えていた小姓の一人が走って出ていく。


「先生。見張りの者が、敵陣の異常を察知しました」


 見張りからの報告を受けたらしい毛利義元くんが声をかけてくる。


「武田軍の炊煙が何時もより多いとか?」


「えぇ!良く分かりましたね?」


 毛利義元くんが驚いた顔をする。

 なお、炊煙というのは食事をする準備のときに立ち上がる焚き火の煙のことである。


「腹が減っては戦は出来ぬと言います。つまりこちらが攻めて来ないなら先手を打ってこちらを攻めるという欲と覚悟が出来たと言うことでしょう」


「あぁ、行動を起こす前の腹ごしらえですか」


 毛利義元くんは、納得したように頷く。


「相手が奇襲という手段をとるなら、考えられるのは夜討ちか朝駆け・・・本隊との挟撃を狙うとするなら、恐らく朝駆けでしょうね。さて、どうします?」


 一応、お伺いを立てる。


「明日は晴れますかね?」


 毛利義元くんが尋ねてくる。


「先ほど地元の人間に尋ねてくるように指示を出しましたが、恐らく明日は晴れ。そして朝には霧が出るでしょう」


「それはそれは・・・まさに教本にある奇襲案件ですね」


 毛利義元くんは苦笑いをする。


「教本に状況が似ていても教本通りには行かないものです。恐らく武田軍は、我らを挟撃ではなく三方からの包囲殲滅を狙ってくるでしょう」


 俺の見立てに毛利義元くんは、大きく頷く。実際の所毛利本陣を攻めるより三方から攻めた方が楽な位置取りなんだよね。


「では、最悪三方から攻撃されると想定して我々が取るべき作戦は・・・数を頼りにした各個撃破ですね」


 暫し考えて、毛利義元くんはそう結論を出す。うん。悪く無い判断だ。


「早朝の霧に紛れて敵を各個に急襲し撃破というのが良いかと・・・」


「殲滅することより敵の援軍がくる前に撤退して仕切り直すことを優先する・・・ということですか?」


 毛利義元くんの問いに頷いてみせる。兵の数は同じ。不意の遭遇戦だと、ちょっとした事で勝敗の天秤が傾くからね。それは出来れば避けたい。


「取りあえず清野氏の館から出てきた二千を叩く。その後、妻女山から降りてきた奇襲部隊を叩き武田の本陣を叩く・・・が一番都合が良いのですが・・・」


「まあ、武田の本陣と奇襲部隊が合流してそこから総力戦が始まると想定したほうが現実的ですね」


 毛利義元くんは苦笑いする。まあ、奇襲部隊の指揮官が猪武者でも無い限りそうなるだろう。


「そうならなかった時の事も想定して策を練りなさい」


「はい。了解しました」


 そう言って頭を下げる毛利義元くんだった。



 リィリィリィ・・・


 夜も明け切らない早朝。蟋蟀コオロギの鳴く声が不意に止まった。


「全軍、下山を完了しました」


「うむ。想定通りだな」


 俺は陣幕などの一切合切を放置してきた妻女山を見上げる。これ以上の持久戦は全く想定していない実戦なら背水の陣ともとれる作戦た。


「予想通り霧が出てきたな・・・」


 地面や川面付近の温度が放射冷却によって露天温度にまで冷やされたことにより、空気中に含まれていた水が急速に気体から個体に、つまり霧となって空中を漂い始める。


「身内と知らしめるための腕の腕章と腰の鈴を忘れないように伝達を・・・あとは若殿の下知に従え」


「御意」


 俺の指示に小姓は小さく頭を下げて去っていく。


 やがて周囲が明るくなる頃、事前に打ち合わせた清野氏の館のある北北東に進む事を告げる法螺貝の音が響いてくるのであった。

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