第23話
ヤスは康夫の自宅を訪れながら、最近めっきり彼の家の敷居が低くなっていることに、戸惑いを覚えている。
自分が康夫を訪れる目的が、仕事の一貫であればまだ割り切れる。しかしヤスは、康夫と話していると、妙に居心地のよいことが気になっていた。康夫や貞子と一緒に食事をしたり世間話に興じていると、不思議と癒やされている自分に気付くのである。それで公私の境界が曖昧になっているのではないかと、不安に似た落ち着かない気持ちになるのだ。
刑事が暴力団関係者に情で通じれば、ろくなことはない。しかも捜査を進展させるため、暴力団幹部に捜査状況を説明し、相談しながら事態を進展させようとしているのだから、自分でしていることながら肌身で感じる違和感は小さくないのだ。
その日の訪問目的は、取り調べ中、除から相談された件だった。
ヤスは部屋に招き入れられてから、すぐに経緯を康夫に説明した。
康夫は、一通りヤスの話を聞き終えると言った。
「つまり、その女性や家族の安全が確保できれば、色々教えてくれると」
「そうだ。まあ、言いにくいことだが、警察はそれを保証できない。彼らの安全を守るよう、努力するとさえ言えない」
康夫は頷きながらも、素朴な疑問を口にする。
「それは分かりますが、それでも自白を取るために、警察は約束すると言わないんですか?」
「それを言ったら、嘘になっちまうじゃねえか」
「組の人は、警察は嘘つきだと言ってますけど」
ヤスは思わず、大きな声で笑った。ヤスはこうした康夫の純朴な態度が、憎めないのだ。
「嘘をつくつかないは、人による。警察官全員が嘘をつくわけじゃねえ」
「なるほど。警察も、世間の人たちと同じということですか。まあ、人命に関わることですから、嘘をつかないのは賢明だと思います」
「つまりあんたも、この件で嘘はつかないと?」
「ええ、基本的に、嘘と暴力は嫌いですから」
ヤスはまたしても声を出して笑う。暴力団から嘘と暴力を取ったら、あとには何が残るのかと不意に思ったからだ。
「まあ、俺の経験上、暴力的世界からは、そうやって距離を置いたほうが無難だ」
康夫は頷いて続ける。
「実を言うと、僕は一度、関西の組織に拉致されたことがあるんです。そのとき、一円連合の人たちに助けられました。もちろん暴力を使ってです。暴力が嫌いなことは本当ですが、自分はあまり偉そうなことを言えないんです」
既に康夫が、そんな修羅場に巻き込まれていることをヤスは驚いた。康夫が思っていた以上にヤクザの世界へ引き込まれていることを、ヤスは心の隅で危惧してしまうのだ。
本心を語れば、ヤスは康夫や貞子たちを、暴力団の世界から遠ざけたいのである。
「警察だって、必要に応じて暴力を使う。法律では正当防衛の暴力も認められている。まあ、暴力にもいろんな種類があるってことだが、深入りし過ぎると危険なことは確かだ」
「しかし、暴力は暴力だという理屈もあります。それに僕は、自分が情けないほど非力で、どうしても暴力には馴染めないんです」
ヤスはそういう康夫の性質をまんざらでもないように頷いて言った。
「もう一度言うがな、暴力的な世界からはできるだけ距離を取った方が身のためだ。まあ、あんたの境遇は理解するがなあ」
康夫もそうしたいのはやまやまでも、気付けばかなり深いところにはまり込んでいる。しかもそこで起こっている出来事は、普通のサラリーマン人生より起伏に富み、尚かつ自由でやり甲斐を感じることが多々あった。
康夫はヤスの言わんとすることを理解しながら、曖昧な相槌を打った。
「それで、除の大切な人たちを安全に匿うとしたら、一体どうしたらいいと思いますか?」
「そうだな、完璧な方法はあり得ないが、遠くへ逃がすのがてっとり早くて安全だ」
「例えば、アメリカに移住させてしまうとか?」
ヤスはその顔に、困惑の表情を浮かべる。
「まあ、そうなんだが、その後の生活のことを考えると、話は簡単じゃなくなる。一番いいのは、危害を加えようとする側に、その気をなくさせることなんだがなあ」
ヤスの歯切れが悪くなるが、
「確かにそうですが、警察が
ヤスがその通りだと言って、腕を組む二人の眉間に皺が寄った。そこで二人の間に、どうしようもないという沈黙が訪れる。
しかしそれもつかの間、康夫は意を決したというように言った。
「ヤスさん、除には約束すると言って下さい。当面、僕が彼の大切な人たちの面倒をみます。それであればお金で解決できる。恒久的な解決方法は、別に考えます。きっと何か、方法があるはずです」
「何か心当たりでもあるのか?」
「全くないわけではありません」
信念の宿る康夫の強い眼光を見て、ヤスは言った。
「ほう、そうならあんたを信じて、除に話してみるか」
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