第16話
新宿署に設置された娼婦殺害事件捜査本部は、疲弊と閉塞した状態から、息を吹き返していた。事件発生から半月、これといった手掛かりを得られず捜査が行き詰まりを見せていた中、一つの匿名有力情報が寄せられたからだ。
捜査本部宛に、一通の封書が届いた。茶封筒に入っていたのは、被害者である女と一緒に写る複数カメラによる男の写真、そしてそれらと同じ場所で撮影されたと見られる、違う男の写真であった。
女と一緒の男はいずれも巧みにカメラから顔を逸らしているが、もう一方の男は単独で写っており、いずれもカメラに視線を向けている。
もちろん捜査本部は、被害者と一緒に写る男の写真は何度も見ていた。よって警察は写真の内容に驚きはしなかったが、その映像写真が外部から送付されたことについては首を傾げた。
確かにそれらの写真は本物である。何度も警察内で検討された物と同一であるからだ。そのことが、もう一方の男が写る写真の信憑性を高めていた。それも本物であろうことが、容易に想像できたのだ。
写真以外の情報は、一切同封されていなかった。差出人の記載はなく、消印は静岡の浜松になっている。宛名や住所は、達筆な毛筆の手書きだった。
細かな情報が添えられていなくても、捜査員が別の男の写真が意味することに気付くまで、さほど時間は掛からなかった。
すぐに被害者の写る記録ビデオが調べられた。手元に取っていた記録画像の中に、送付された新たな男の映像がいくつか見つかった。やはり写真は本物だ。元々捜査員も、猪俣に背格好が似ている男が、街中に設置されているいずれのカメラから顔を隠していることに、不自然さを感じていたのだ。しかし、複数のかつ日付けも違う記録データにまたがった、被害者と容疑者以外の共通人物には気付かなかった。
カメラに写っている犯人らしい人間が猪俣に背格好が似ていて、現場では一円連合の幹部バッチが見つかった。妙な作為を感じさせるこれら一連の情報に、現場の捜査員たちは真相を追いかけ、地道な聞き込みを続けていた。
一方で警察上層部は、痺れを切らして猪俣を引っ張るべきだという方針に傾きつつあった。元々上層部は、猪俣犯人説に積極的だったのだ。忽然と消えた猪俣を緊急手配すべきとの意見も上がっていたが、検察がそれを抑え込んでいた。康夫の若頭代行就任が、検察にブレーキをかけていたのだ。
それまでの調べで、殺された中国人娼婦は、名を
この事件で、香港組織に限らず、脛に傷持つ全ての連中が慌てた。新宿やその界隈から、中国、香港、台湾から来て働く娼婦たちが一斉に姿を消したのだ。そのほとんどが、違法滞在者であったからだ。それに端を発して元締めである組織に摘発が及んではかなわないと、各組織は配下の女たちを一斉に隠した結果だった。
捜査本部は猪俣と
もはやすっきりとした結末を迎えられないかもしれない、そんな諦めを持ち始めた捜査員たちは、送付された新たな男の写真コピーを持ち、新宿を中心に精力的な聞き込みを展開した。
捜査線上に台湾マフィアの除が浮かび上がるまで、時間は掛からなかった。
※※※
「警察は、ようやく台湾組織に辿り着いたようです」
影山が、若頭室で康夫に報告した。康夫はゆっくりと影山に視線を移す。
「結構、手間取りましたね。しかしこれからが、彼らの腕の見せ所でしょう」
最近影山は、この短期間に康夫の言動が随分板についてきたことを感じていた。
「ええ、除がしらばっくれたらそれまでです。除は犯罪を犯したわけではありません。それに、組織に命じられて何かをしたとしても、彼らは死んでも組織を売りません。組織を裏切ったら、痛い目に遭うのは自分だけじゃないですから。国に残した親兄弟がひどい目に遭わされることを、彼らは心底恐れています」
「その気持ちはよく分かりますよ。さて、警察はこの先、どう出ますかね?」
「おそらく犯人は、既にどこかへ雲隠れしているでしょう。殺しで使った道具も全て処分されているはずです。除が口を割らなければ、捜査は再び行き詰まると思われます」
康夫は頷いた。これは、警察に資料を送付したときから予想できたことだった。送付した資料によって、猪俣や一円連合に対する警察の疑惑が解消することはあっても、事件を解決するためにはもっと決定的な証拠が必要である。
「除を逮捕したとしても、捜査が苦しいことに変わりないでしょうね。これはもう、
影山は、康夫の言わんとすることをよく理解できなかった。
「あの老板に? 彼に何を決断させるというのですか?」
「彼自身に、どうにか犯人を差し出させたいんですよ。何かいいアイディアはありませんか?」
流石の影山も、そう言われて言葉を詰まらせる。
「一円連合に対する疑惑が解消するなら、この件はもうよいのではないでしょうか。これから先は警察に任せ、それでも警察が一円連合追求をごり押しするようであれば、我々の調査結果をもって反撃するということで」
影山はそこまで一気にまくし立て、康夫の反応を伺った。影山には、弱気な康夫ならそこで折れて妥協するだろうという予感もあったのだ。
しかし康夫は黙り込んだ。暫く何かを考えている。
一分もそうした頃、康夫が静まる湖面に一石を投じるように、ぽつりと言った。
「
影山は、康夫がまだ悪あがきするのかと、意外に思った。
「いや、所詮はアウトローの世界で生きている奴らです。叩けばいくらでも埃が出ると思います。しかしまさか、それであの老板を脅すつもりじゃないですよね。あいつらは、よほどのことがない限り脅しには屈しません。しかも下手をすれば、返り討ちを食らいますよ。戦いになっても負けるとは思いませんが、リスクはあると思います」
それにも康夫は、既に承知しているというふうに黙って頷く。影山の言うことは、いちいちもっともなのだ。
影山にしても、最近康夫の腹の底が読めず、困惑することが多くなっている。
結論の出ない協議を、康夫はそこで打ち切った。
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