第10話
その夜猪俣は、康夫の家に出かけた。どうにもきな臭い状況を、康夫に相談するためだった。
康夫の部屋に入るなり、猪俣は愛想笑い一つせず、深刻な顔を見せた。そして挨拶もそこそこに、お嬢も同席の上で話したいことがあると言った。
リビングでは子供たちがテレビを観ていた。三人はダイニングテーブルで、顔を付き合わす。
猪俣は訪問後から、ずっと眉間に深いしわを寄せている。康夫は猪俣の般若のような険しい顔を見て、少し怖くなった。
緊張する康夫へ、猪俣が切り出した。
「若旦那、今起きている事件を知ってやすか? 例の歌舞伎町中国人娼婦殺人です」
「知ってます。極道システムに詳しいことが載ってましたから。何でも一円会のバッチが現場に落ちていたとか」
「それなんです。それで警察が、わしのフダを取ろうとしてるらしんですわ」
「フダ?」
康夫には極道用語が分からない。貞子が補足してくれる。
「令状のことよ」
その解説に、康夫はぎょっとしてのけぞった。
「ええー! 猪俣さん、殺っちゃったんですか?」
今度は猪俣が、康夫の反応に驚いた。
「若旦那、滅相もねえことを言わねえでおくんなせい。わしは潔白です」
それでも康夫の心臓の鼓動は、すぐに平常に戻らなかった。貞子が肝の座った三白眼で、猪俣を射抜く。猪俣はたまらず言った。
「お嬢まで、そんな白い目でわしを見るのは止めておくんなせい。わしは全くの潔白ですぜ。オヤジに誓って嘘は言ってねえ」
「神と言わないところが怪しいわよ、猪俣」
「わしにとってオヤジは、神より上ですわ」
「むきになるところがますます怪しい。誰にも言わないから、さっさと白状して楽になりなさい」
「お嬢……」
猪俣は泣きそうな顔になる。康夫が助け舟を出した。
「猪俣さん、それで? 続きは何なんです?」
気を取り直した猪俣は、再び語り始めた。
「このままだと、わしは逮捕されるかもしれやせん」
貞子はそこで、ぱんと手を叩いた。
「猪俣、あんたは今まで忙し過ぎたでしょ! ここらでしばらくのんびりするのもいいじゃない」
猪俣は、また悲しい顔になる。
「お嬢……、わしもそれは考えましたわ。しかし問題は、わしのいない間に一円会をみることのできる奴がいないことなんです。どいつもこいつも煩悩の塊で、一万を超える組員のために人肌脱ごうなんて器量の奴は一人もいない。そこで……」
康夫と貞子は身を乗り出して、同時に言った。
「そこで?」
猪俣は一呼吸置いた。康夫と貞子が息を飲む。
「若旦那に、若頭代行をお願いしたいんでやす」
そこで目にも止まらない貞子のパンチが、テーブル越しに炸裂した、と思われたが、猪俣は寸でのところで彼女のパンチを受け止める。
貞子はにやりと笑った。
「もうろくしたわけじゃなさそうね」
「まだまだですぜ」
「でも、やっちゃんを巻き込むのは駄目よ」
貞子はきっぱり言い切った。
「猪俣さん、僕もそれは無理だと思います」
「やっちゃんが嫌だと言ったら、わたしは反対よ。それにお父様だって何て言うか」
「いや、無理じゃない。お嬢はもう気付いているはずです。若旦那には才能がある。だから既に、後光が指すほどのカリスマ性が生まれやした」
そんなことを言われても、康夫は困惑するだけだった。
「猪俣さん、僕には腕力がないし、性格はこの通りで押しが弱い。極道から最も遠い存在ですよ。カリスマなんてみんなの誤解です。いつメッキが剥がれるかわかったもんじゃないですよ。それでどうやって猪俣さんの代わりが務まるというんですか」
「問題なくできます。わしが陰から指示出しますから」
貞子が怪訝な顔をした。
「陰からって? あんた、ブタ箱にバカンスに行くんじゃないの?」
「お嬢、どうしてわしが、中へ行かなきゃならんのですかい。わしは潔白なんですぜ。ちょっと地下に潜るだけですわ」
事態が映画の中の世界みたいで、康夫にはどうにも現実味がわかない。逮捕状だの地下に潜伏だのと、まさにヤクザ映画の世界である。
しかしこれは、確かに現実なのだ。それに、実際にヤクザの世界だった。一旦身内側に入ってしまうと、これまで自分が想像するヤクザの世界と実際は随分かけ離れていたが、それでもやはり異次元である。
「それで猪俣さん、一体どこへ潜るつもりなんです?」
猪俣はにやりと笑い、子供部屋の方を指差した。
「え? まさか、隣の部屋?」
康夫が驚いて、貞子はやれやれという顔をする。
猪俣は、どうだ、いい考えだろうと言わんばかりの、得意気な顔で頷いた。
「ここは二十階ですよ」康夫が言った。
「若旦那、素っ頓狂なことは言わんでくだせい。地下に潜るというのは、例えですぜ。比喩ってやつですわ」
「猪俣も、随分インテリになったものね」
「へい。若旦那にいつも触発されてやすから」
「まさかそれ、三食全ての面倒を、わたしがみるという計画?」
「へい。そのまさかです」
貞子は肩を上下させ、大きなため息をついた。
「三時のおやつは出ないわよ」
「ダイエット中ですんで、それはお構いなく。警察も、まさかこの隣に隠れているなんて思わないでしょう。食事で外へ出る必要もありやせんし、必要物資の配給は、クローゼットを通してやってもらえばいい。それに若旦那とはいつでも打ち合わせができやすから、少しお手を煩わせしやすが、最高の隠れ家やと思うんです。どないですか?」
猪俣が大きな顔を、ぐっと突出す。遠近法をこれほど身近に感じることはないくらい、彼の大きな顔が二人に迫った。
康夫は思わず身を引いて、貞子は研ぎ澄まされた三白眼で猪俣を見返す。
「少しどころじゃないわね。食事代は貰うわよ」
猪俣の顔に、光明が見えたという安堵の色が宿った。
「若旦那の給料に、色を付けさせていただきやす」
五所川原一鉄はこの件に驚くこともなく、まるで無関心であるかのように、「そうかそうか、良きに計らえ」という具合だった。どうやら猪俣が、事前に何かを吹き込んでいたようだった。
こうしていつの間にか康夫の意思は横に置かれ、彼の幹部昇進が決まった。元々組員ではないのだから、これを昇進と呼べるかどうかは微妙だが、とにかく大抜擢である。
盃を交していないため、康夫は顧問という身分で若頭代行を務めることになった。通常顧問とは、その世界で誰もが一目置く実績大の人がつく役職だが、まあ康夫の場合、一円会の中では陰のドンとして認知され、しかも極西連合に目を付けられ拉致されるほど名前も売れてきているのだから、それで体裁はつくだろうということだった。
康夫へ与えられた最大のミッションは、猪股、あるいは一円会を脅かす中国人娼婦殺人事件の真犯人をあぶり出すことであった。
一方で、一円会のカリスマリーダーとして組織内の勢力バランスを保ち、警察の揺さぶりをかわし、組織力を安泰に維持する役目もあるのだが、それについては猪俣が陰から支える。
もちろん竹男を自負する康夫にとっては、大迷惑である。普通の冴えないサラリーマンが、突如一大暴力団のトップを狙える圏内に踊り出たのだから。
一番慌てたのは警視庁であった。まるでノーマークだった康夫の登場に、あいつは何者だという話になったのだ。最初は縁故人事だと楽観したが、聞き込みを続けるうちに康夫が以前から陰のドンであったという情報を得て、警視庁は本気で康夫を調べ始めた。噂とは、尾ひれはひれが付くものである。いつの間にか、康夫の武勇伝さえ独り歩きしていた。
警視庁が必死に調べても、康夫の正体は分からなかった。交通違反を含めてさえ前科がないし、どう調べてもうだつの上がらないサラリーマンなのである。それを警視庁は、こうとった。
これほど完璧な隠れ蓑を纏える奴は、只者ではない。侮れない奴だ。徹底的にマークしろ。
周囲の評判や噂が、康夫の本意とどんどんかけ離れていく。周囲が騒ぎ立てるほど、それは康夫にとって、迷惑以外の何物でもない。
康夫が若頭代行に収まると、警視庁は猪俣逮捕に慎重になった。猪俣を逮捕しても、一円にはまだ康夫がいる。いや、この際、そう思い込んでいると言った方が正しいかもしれない。そう捉えた警視庁は、このニ大巨塔を同時に崩さなければ、一円会撲滅という目的は達成できないと考えた。そればかりか、猪股逮捕の件は、濡れ衣で無理やり事を運んで失敗すれば、康夫から思わぬ反撃をくらう可能性すらある。面子を重んじる検察は、猪股への令状請求に慎重にならざるを得なかった。
猪俣が、最初からそこまでを計算しウルトラC人事を断行したかは定かでないが、康夫効果は様々なところへ波及した。
猪俣を引っ張り、一円会にダメージを負わせるつもりだった捜査陣は、完全に出鼻をくじかれた格好となった。
そうこうしているうちに、肝心の猪俣が消えた。子供の放つシャボン玉が浮遊し、それが前触れもなくパチンと弾けて消滅するように、猪俣は忽然と表舞台から消えたのである。
猪俣が飛んだ。警視庁内で少し騒ぎになった。捜査一課も四課も彼の足取りを追ったが、全く手掛かりを得ることができなかった。生存する人間が、これほど見事に生きている痕跡を消すことは不可能である。警視庁内部では、猪俣は既に、何かの事情で消されているのではないか、というささやきも聞こえるようになった。
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