1

 


 朝、目覚めると雨が降っていた。


 窓の外からかすかに雨の音が聞こえている。

 今日も雨か。

 布団からはみ出た鼻先が冷たくて、自分の体温であたたかく湿った布団に顔をうずめる。もう少し眠っていたい。どうせならこのまま今日を過ごしていたい。

「……」

 けれどすでに目は覚めきっていて、目を閉じてももう一度眠れそうにはなかった。枕元に置いておいた携帯が振動を始める。しばらくそのまま放っておいてから、のぞみは目を閉じたまま手を伸ばして慣れた手つきでアラームを止めた。

 7時32分。7時半か、と思う。

 もう起きないと。

 臨は自分の匂いのする布団の中で思い切り息を吸って、吐き出した。ベッドから起き上がる。ギシッとベッドがきしんだ。少し開いたままのカーテンの隙間から雨空が覗く。十月の雨、しかも今日だ。

(よりにもよって)

 雨は嫌いだった。

 手にしたままだった携帯が再び鳴り、今日の予定を通知してきた。忘れることなんてないのに、どうして通知の設定なんてしてしまったんだか、自分でも分からない。手早くそれを切った。

 待ち合わせは9時だ。なるべく時間を引き延ばして遅刻してしまいたい。

 だが、相手はそれを許さないだろう。

 ため息をつき重苦しい動作で立ち上がった臨は、のろのろと歩いて洗面所に行き顔を洗った。そしてまたのろのろと朝食の準備をしながら、昨夜準備しておいた葬祭用の黒のスーツに着替える。久しぶりすぎてネクタイの結び方をすっかり忘れてしまっていたけれど、なんとか結べた。

 ネクタイなんて結ぶのは高校卒業以来だ、と思う。同級生の中にはすでに就職した者もいて、彼らは毎日スーツを着てネクタイを締めているのだろうけれど。そういうのはなぜか自分には無縁のような気がして、臨はそのような生活に実感を持つことが出来ない。鏡に映る青白い自分の顔は、まるでどこか現実味がないと思う。

 生きている気がしないのだ。

 今も昔もそうだ。

 男か女か見分けのつかない細い身体。女にしては背が高く、男にしては物足りない身長。やや切れ長の目、じっと相手の顔を真正面から見つめる癖のせいで、良くも悪くも色んな意味で誤解された。自分をよく知ってくれている友人には、見掛けと中身は一致しないものだと、ことあるたびに笑われて慰められる。

 コンロにかけたケトルがけたたましく鳴った。ぐらりと揺れた蓋にあわてて火を止めて、マグカップに放り込んでおいたインスタントコーヒーに湯を注ぐ。立ちのぼる湯気に包まれて息が詰まりそうになり、臨はきつく締めたネクタイを無造作に緩めた。

 食欲がわかないまま無理やりコーヒーでトーストを流し込み、重く喉の奥につかえたものをトーストごと胃に押しやった。そして皿とコップを流しに放り込んで、臨はもう一度携帯の画面を確認してから小さくため息をついた。

 憂鬱さが消えない。

 今日は母親の命日だ。

 13年前のあの日も、同じように雨が降っていた。



 最寄り駅から待ち合わせの駅までは同じ沿線上にあるので、乗り換えなしで20分ほどというところだった。途中で花を買わないといけないことを思い出し、電車に乗り込む前に駅のそばの小さな花屋で仏花を買った。

 電車の中は通勤に向かう方向とは間逆とあってか、平日の朝にもかかわらず座れるほどに空いていた。その中で、黒いスーツに花を手にした自分は否が応でも目立っているな、と臨はぼんやりと思う。ちらちらと窺うような視線があちこちから気配で伝わるけれども、それにももうずいぶんと慣れてしまった。

 つくづく自分はこの世界に生きている現実感が薄いと思う。本人はいたって真面目に生きているつもりでも、見ている相手はそうは受け取らないらしい。

 ──おまえ、ちゃんと生きてんの?

 いつか、誰かに言われたことを思い出す。

 臨は到着まで誰とも目を合わせないように、流れる窓の外を見ていることにした。



 9時少し前に駅に着いた。雨は相変わらず降っていた。指定されていた南口に出て、何もない駅のロータリーで半透明のビニール傘を手に、臨は待ち合わせた相手が来るのを待った。

 きっといつものようにどこからともなくやってくる。

 そういう人だ。

「リン」

 はっとして振り向くと、見慣れた、けれどひどく久しぶりに会う人が立っていた。喪服を身に纏っているからか、いつもよりもずっと近寄りがたい雰囲気になっている。普段でも気軽に声をかけるのもはばかられるような佇まいなのに。

「伯母さん」

 とたんにバシッと頭を本気で殴られた。

「痛っ」臨は呻くように名前を呼んだ。「ちょっと、透子とうこさんっ」

「おはよう」

 透子と呼ばれた彼女はにっこりと笑った。

 伯母、つまり彼女は臨の母親の姉にあたる人だ。母親の死後、臨の父親はあっさりとひとり息子を手放したので、臨は透子に引き取られた。それから大学進学を機に家を離れるまで、ずっと一緒に暮らしていた。

「久しぶりね、ちゃんと食べてる?」

 臨の顔を見ずに問いかける声は、答えをもう知っているように聞こえる。

 もごもごと臨は答えた。

「まあ…大丈夫、今朝も食べたし」

「流し込んだだけなんじゃない?」

 返答に詰まった臨に、呆れたようなため息で透子は返した。「行くよ」と、臨の脇をすり抜けて、ロータリー横の駐車場の方へと歩いていく。

 彼女の持つ深い紺色の傘が歩くたびに雨を弾いた。

「車?」

「あんなところまで歩く気?」振り向いて透子は言った。

 リン、と呼ばれて臨は透子の後を追いかけた。久しぶりに呼ばれるその呼び方が、ひどく懐かしい気がした。



 透子とは去年の母親の十三回忌の後、正月とその後二度ほど会ったきりだった。会ったといっても、それはすれ違いに等しいものだった。早くに逝去した祖父から引き継いだ会社経営に携わり、とにかく多忙を極める彼女は日々あちらこちらと飛び回り、またこちらもあまり連絡などをしない性分のせいか、彼女が業を煮やして強制的に約束をさせられでもしないかぎり、普段会うこともない。

 一緒に住んでいたときでさえ透子とは週に二、三度しか顔を合わせなかったのだ。

 寂しさを覚えたこともあったが、彼女はそれでも、忙しい仕事の合間をくぐるようにして会話の時間をつくり、生活を支えてくれた。離れていても厳しく躾けられた記憶はあり、自分もそれに応えようとした。幼かった自分のすべてを引き受けて面倒を見て育ててくれた人だ。いつの間にか、母親よりも長い時間を一緒に過ごしていた。彼女が自分の為に使えるはずだった13年という年月は長く、どんなに感謝してもしきれなかった。

 臨は、記憶の中にある母と重なる横顔を眺めた。

 相変わらず隙がなく近寄りがたいと思う。

 チラッと透子がこちらを見た。

「リン、気が散るから見ないでよ。あなた、本当に元気なの?」

 彼女は臨のことをリンと呼ぶ。そう呼ぶのは、母と透子、それとごく近しい友人だけだ。しかし、そう呼ばれるともはや自分が男なのか女なのか、はたまた日本人なのかどうかさえ境界が曖昧になる気がして落ち着かない。嫌ではなかったが、心境は複雑だった。

「元気だよ。そっちは?」

「ま、見ての通り」

「忙しそうだね」

 そうね、と透子は前方から目を離さずにすこしだけ唇の端で笑ってみせた。

 車内には雨の匂いが立ち込めていた。傘から滴り落ちる水滴が立てかけた後部シートを濡らしている。

 音楽もなにもない密室。走っている車のエンジンの振動さえない。聞こえるのは車体に当たる雨の音だけだ。

 なにもない。

 沈黙がゆっくりと降りてくる。

「髪」

「え?」

 一瞬、なんのことか分からずに、臨は聞き返した。

 透子は前を見たまま言った。

「髪、伸びたね。女の子に間違われるんじゃない?」

 悪戯っぽく笑う。臨は肩を竦めた。

「さすがにもうないよ」

「そう?」

 意外、とでも言いたそうに透子は返した。

「そうだよ」

「大学は?どう?」

「うん、まあ、普通」

 普通って何だよ、と自分でもよくわからない答えだと思ったが、しかし透子は仕方がないとでも言うような苦笑をうっすらと口元に浮かべたまま、何も言わずに車を走らせていた。その表情を眺めて、臨はどこかほっとしていた。思えばこの人は、いつも今日がその日だからと──命日だからといって、母親との思い出話とか、それにちなむ会話とか、そんな風なことを一切話題にしたことがなかった。いつもと同じようにして、そっけないほどに何も変わらず接してくれることがなによりもありがたいのだ。

 憂鬱になっていることを知っているのだろうな、と思う。

 勘のいい人だ。いつだって隠し事は、ふとした瞬間に見破られていた。

 忘れてたな。

 例えばきっと、名前を呼ばなかった瞬間に。

 フロントワイパーがキュッと音を立てて、きりのない雨を振り落とした。


 ***


 相変わらず静かな場所だった。

 自分と透子の他には誰もいない。

 祖父の生家にもほど近いなだらかな山の中腹にある小和瀬おわせ家の菩提寺は、いつ来てもしんとした空気に満ちていた。一般道から離れたこの場所は丘の裾野を通る県道から分岐した寺の私道を通ってしか来られず、その私道も寺の入り口より先は放置され、長年砂利だけを敷き詰めたいわゆる獣道に色をつけたような体裁のため、寺に用のないものはまずここまでは入ってこないのだった。なにより、こんな雨の日の朝から墓参りなどをする者は自分たちのほかに見当たらなくても不思議ではなかった。

 お互いに持ってきた花を挿すために透子は墓の前にしゃがみこみ、臨は濡れないようにその背中に傘を掲げた。傘で受け止め切れなかった雫が、透子の細い背中に落ちていく。以前ここを訪れたのは一年前の今日だ。すでにあの時供えた花はなく、訪れるもののいない寂しさだけが残っている。

 傘のふちからこぼれた雨が、涙のように透子の頬を伝って落ちた。



 墓地の中に敷き詰められた石畳は雨に濡れてすべりやすい。

 確かめるように踏みしめながら、ふたりは歩いた。

 どこかで食事でもしようということになっていた。

「もうすぐね」

「え?」

 何の事か分からずに臨は聞き返した。

「誕生日」透子の顔は傘に隠れて見えない。「もう二十歳よ」

 そう言われて臨はそうだったと思い出した。あと三ヶ月もすれば自分の誕生日だった。二十年。短くはない年月だ。

「実感ないけどね」

「お祝いしようか」

 臨は一瞬躊躇ってから、微笑んだ。

「いいよ、今さら」

 そう、と透子が言った。少しだけ寂しさを感じる微笑みを、臨は気づかないふりをした。

 寺の門を目指して歩く。

 広大な墓地をぐるりと囲うように植えられた銀杏や椛の木々の向こうには、住職が趣味として育てている牡丹園があり、牡丹の花が雨の中一面に咲き始めていた。白い花の群生の中にふと横切る影が見えた。

(あれ?)

 一瞬だった。なんだったのだろうと見とれていると、小さな電子音が鳴り出した。透子の携帯の着信だった。

「──はい、小和瀬です」

 いぶかしむように透子が受け答えをしている様子をみて、会社でなにかあったらしいと察した。

 小さな規模の会社とはいえ、取締役という肩書きの透子にまで連絡が来るというのは、よほどのことなのだろう。まして今日という日を知る秘書が──多分そうだ──急用でもないのに掛けてくるなどあり得ないことだった。

「そう、分かりました、はい…では私も、じゃあ、また後で」

 通話が終わったのを見計らって臨は言った。「伊原さん?」

 伊原というのは先代からの秘書の名前だった。年は五十を越えたぐらいの、ひょろりと背の高い白髪交じりの温和な人だ。

 透子は頷いた。

「そう、ちょっと、行かないと駄目かも」

 そう言って長いため息をついた。

「ごめん、リン」

「いいよ」

 申し訳なさそうな顔を向ける透子に臨は笑った。なるべくなんでもないように見えればいいと思った。

「またあるからさ」

 透子の腕をそっと掴んで、寺の門を出た。

「駅まで送るわ」

「いいよ、これから行くんだろ?どこ?」透子の車の側まで来て、臨は訊いた。

「青田の方、取引先に直接行くから」

 臨は頭の中でとっさに地図を広げた。「逆方向だろ、このまま行ったほうが早いよ」

「でも、あなたどうするの?」

「タクシーとか、歩いても帰れるから」

 たしか寺の裏手に住職の住居があるはずだ。そこから車を呼んでもらったほうがいいと算段する。

「でも」

「いいから」透子が心配していることはよく分かっていた。「大丈夫だから」

 じっと臨を見つめた後、透子は仕方がないというふうに肩を落とした。

「ごめんね、リ──」

(ノゾミ)

 臨は眉をひそめた。

 透子の声にかぶさるようにして、自分の名を呼ぶ声がする。

「…これ、タクシー代にして」

 差し出された透子の手を見て臨ははっとした。「え?」

 なに?

 空耳?

 それにしてはやけに生々しい…

「タクシー代」

「あ、いいよ俺バイト代出たばっかりだし」

 今のはなんだったのか、奇妙な違和感を覚えながらその手を押し返した。しかし透子はぐっとその手を臨の上着のポケットに突っ込んだ。

「未成年が遠慮しないの」

 そう返されると臨は何も言えず、ありがとうと言って受け取った。

「気をつけてね」

「俺は平気だよ。透子さんこそ気をつけて」臨は促した。「いいから、急がないと」

 透子はじっと臨を見上げてなにか言いたそうに言った。

「リン──」

 目が合った、その瞬間。

 視界がぐらりと歪んだ。

 ひどい耳鳴りがして、透子の顔が二重に見えた。訝しげな顔で彼女が眉をひそめる。何かを言おうとしていた。臨が見開いたままだった目を激しく瞬くと、元に戻った。

 一瞬だった。

 透子の声が遠い。

「?どうしたの」

「いや、あの、なんでもないごめん、大丈夫だから」

「やっぱり送るわ」

 いいよ、と臨はかぶりを振った。「いいから、早く行って。伊原さんが今日掛けてくるなんてよっぽどのことだろ?俺は平気だよ。寝不足だしそれで」

 咳き込むように、だから大丈夫と強めに繰り返すと、透子は渋々といった様子で引き下がった。

 乗り込んだ車の運転席の窓を下げながら、

「帰ったら連絡して」と言って車を出した。



 臨は車が見えなくなるまで見送った。

 ふいにぞわり、と寒気がした。

 後ろに誰かがいるわけでもないのに。

 なんだろう。

 ゆっくりと臨は振り返った。

 誰もいない。

 なんの気配もない。ただ傘に当たる雨の音だけだ。気のせいだったのか。背筋を駆け抜けた冷たいものがゆっくりと、また、背筋を伝い落ちていく。

 長く息を吐いた。

 体の力が抜け、緊張していたのだと知った。

 寺の門を再びくぐると、ふと甘く濃い匂いが鼻を掠めた。どこからだろうと考えて、先ほどの牡丹園だと思い当たる。風向きの関係でこの辺に香りが溜まっているようだった。そういえば母親はああいう花弁の多い花が好きだった。家の中にはいつもなにかしらの花があり、特に芍薬などはよく目にしていた。

 住職の自宅に電話を借りに行く前に、もう一度あの風景を見たいと思った。

 それに、見ておきたいものは他にもあったのだ。

 臨は先に墓地のほうに足を向けた。

 小和瀬家の墓の前に立つと、ついさっき挿したばかりの仏花が雨に打たれてうなだれていた。薄紫色の花はなんだかひどく場違いだった。

 もっと違う花にしておけばよかったかな。

 しばらくぼんやりと眺めてから墓石の横に回りこむ。見たかったものはそこにある。そっと手を伸ばして触れてみる。透子が側にいる時には出来ないことだと分かっていた。

 この場所にいる人たちの名前。

 墓石の横には四人の名前が刻まれていた。最後に母親の名前がある。小和瀬由里ゆり、享年26歳。もうあれから13年が経ち、真新しかった石の刻みにもそれなりの年月が過ぎたことを思わせる風化が見て取れた。

 一人目は祖母、そして祖父。写真でしか見たことのない人達。そして三人目は──

 母の前、墓誌の三人目には水子と記されていた。その下に当歳とあり没年月日はない。が、臨はその人が自分の片割れであったことを知っている。

 雨に濡れたその刻みをたどる。

 冷たい石の感触。

 生きていれば一番近くにいたはずだ、人生を文字通り分かち合えたはずだった。名前さえもそこにないその子は、生まれる前に死んだとだけ聞かされていた。



 本当に静かだった。まるで外界から遮られているかのように。

 時々どこかで鳥が鳴いている。

 よく見ればここは墓地というよりは霊園に近く、呆れるほどに広く迷路のように入り組んでいる。そこかしこに花や木が植えられていて、まるで自生しているように見えるが、全て計算されて植えられたものだ。綺麗に見えるように配置された花の角度、無駄のない分量、園芸に勤しむ住職が毎日手を入れているのだと聞いていた。

 去年の事だ。

 濡れた石畳の上を歩き、牡丹園の入り口に立つと、門の所で香ったのと同じ匂いがした。

 ああやっぱりこれだったのだ。腰高ほどに見事に咲く牡丹が切り開かれた樹林の中にずっと向こうまで続き、そこからはまた広葉樹の林がある。木々の間は暗く先が見えない。その対比は違う世界の入り口のようだ。

 そこに行ってみたいと思った。臨は知らず牡丹の中に足を踏み入れた。

 甲高く鳥が鳴いた。

 ざわり、とうなじの毛が逆立った。

 その瞬間、雨の音が消えた。

 世界から音が消えた。

 

 臨は振り返った。

 そこに少女が立っていた。

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