化けの紙一重(偽善者と矛盾)
これでも以前よりは、どちらかといえば良い人であろうと努めている。
争わないように。冷たい言い方をすれば、余計なことに時間を使わないように。自分にとって気持ちのいい言葉、「素晴らしい人ならこんなことを言うだろうな」という言葉を使うこともある。
最近気づいたのだが、偽善者でいようと努めていないと段々悪い心になっていく。ニュースを見ながら、気づくと冷めたことを考えていたりする。これはまずい。本質は悪なのだろうか。うっかり無意識に外へ漏らしたりしたら大変だ。
時々我に返って慌てるものの、絶対に偽善者であろうと決意しているわけでもないから化けの皮が剥がれやすい。軸がブレてくる。以前主張していたことと矛盾することばかり言う。勘の鋭い人には芯のない人間であることを見透かされている気がする。
本音を言わないことは卑怯なのだろうか? それとも隠そうともせず本音を言う方が卑怯なのだろうか? というか何が本音だったっけ?
「こういう人でありたい」と考えることも、演じることも、本音や自然体の一種だと捉えているのだけれど。
感じるままに綺麗な言葉を並べてみたこともある。そんなときは心地よく、これも自分なのだろうかとふと思った。言葉ではなんとでも言えるのだし、綺麗な言葉を使ったって嘘じゃないかとも思うが、きつい言葉ばかり無意識に使って喧嘩になっていた私が本物だったのかというとそれも定かではない。
私は優しいふりをしているのだろうか。本当は悲しくもないことで悲しんでいるふりをし、悩んでいるように見せかけているのだろうか。それとも本当は人はすべて美しい心を持っていて、その本質をチラリと覗かせることがあるのだろうか。人はあまりに純粋なままだとこの世の苦しみの多さに負けて心が壊れてしまうから、基本的に心にフィルターをかけているのかもしれない。
良い人だと思っていた人が唐突に虫を叩き潰そうとしたりするから焦る。しかし自分が普段から必要以上に良い人ぶっていれば、いつか無駄な死を止められるかもしれない。死ぬ前に「殺さないで」と言えるかもしれない。
ならば良い人ぶるのが本心かどうかなんて考えるのは後回しでもいい気がする。本心だろうと本心でなかろうと良い人ぶる練習をしておけばいいではないか。悪ぶってばかりいたら、とっさに良い人ぶることもできない。偽善者であるのも結構難しいことなのだ。
所詮本心ではないのかもしれない。私はのろまで対人恐怖症だし、人や動物のためにボランティアをしようというほど良い人にはなれない。注射が怖くて献血もできない。臓器提供するかと聞かれても、痛そうだから「はい」と言えない。良い人ぶろうにも根が悪い。だけど今まで通り、ほんの少しだけ良い人ぶってゆくつもりである。
きっと人は皆、きっかけ次第で悪魔にも天使にもなると思う。そして一度キャラやイメージが自分の中で構築されてしまえば、変えることは難しい。悪魔だと扱われれば悪魔、天使だと扱われれば天使だと振る舞う気がする。よほど自分を見失わない人でなければ、皆何者でもないのかもしれない。
人は本当は、すべての意見を自分の内に持っているのだろう。自分が心底嫌うものも、愛も残虐性も矛盾も同時に内にある。どれか一つを「これが自分にとっての真実」とよほど強く思い込まないと、「私」は二人にも三人にも四人にも分かれていくのだ。
いずれにせよ、どこにも決まりきった人間などおらず、今この瞬間を辻褄合わせしつつ演じているだけだろう。
演じるべき「私自身」も、演じられるべき「完璧な私」も存在しない。
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