3-4 告白

 後ろめたさが目に見えるものならば、ドメルディ空港からずっとここまで長いリボンとして繋がっているだろう。セリン・アンド・ハウアー社製自動車の革張り椅子に座らされたセシルはそんな気持ちのまま、ついぞセントラルエリアに連れてこられた。快適なドライブだったが、隣に座る貴公子メルヴィンが一向に手を放してくれなくて、戦慄で動けなかった。

 メルヴィンの言う「悪い人」も「狙われている」もいまいちしっくりきていなかった。

 だが、彼の真剣な眼差しだけは本物だと思ったので、その点を信じて同乗した。

 それでも今になって、少しずつ後悔が降り積もる。

 静かに自動車が停まると、メルヴィンがやっと手を離してくれた。

 セシルは心からほっとした。しかし、油断は禁物だ。

 曇り一つない窓硝子から見えるのは、緑と水の風景だ。

 麗しい自然に囲まれた馬車寄せには見覚えがある。

 隣に座るメルヴィンが動き出す前に、使用人たちが率先して降りて、扉を開けた。

 メルヴィンは特に感謝を見せるわけでもなく自然に足をつけると、セシルに手を差しのべた。

 断る理由がないので、その手を借りながら降りた。

 セシルがきょろきょろすると悠々と横たわる湖の向こうで陽が少し赤みを増して傾いていた。

 そして、水上と地上とを結ぶ細い橋の彼方にそびえ立つ城を見てここがどこかをすぐに理解した。


「フォベトラ城……?」


 魔少年はまたも困惑した。前回と違う道を通っていたから、わからなかった。

 それに加えて、モルフェシア大公の住まいは普段、関係者以外の立ち入り禁じられている。

 公開日が決められており、前もって城内を巡るツアーに申し込まねば、一般人は馬車寄せにもいてはいけない。議員でさえ、会議のときにしか招かれないと大公から直接聞いたのは記憶に新しい。だから、先日の社会科見学が特別だったと、セシルはよくわかっていた。

 もちろん、パーシィとジャスティンの親しげな間柄も。

 マントを風にはためかせながら、メルヴィンが神経質に首を回す。


「車は無いな……。ツィマーマン、城にあの人の関係者は?」


「奥方様のバカンスに合わせて、みな暇を取らせました。数人のメイドはおります」


 呼ばれた執事が、すぐさま説明する。一呼吸の間もなかった、とセシルは舌を巻いた。


「わかった」


 と、乾いた返事をする少年の態度は年齢に見合わぬほど洗練されていて、まるで知らない男のようだ。


「『最も暗い場所は蝋燭の下だ』っていうから、大丈夫だろうけれど」


 だがそれも束の間、セシルにはすぐいつもの柔和な微笑みを取り出して見せた。


「急いで」


 そう言うと彼は、再びセシルの手を握ってアヴレンカ橋の上を早足で進んだ。

 振り返ったが、使用人たちは誰一人としてついてこなかった。


***


 居住エリアへ入る扉を懐の鍵を使ってやすやすと開け、メルヴィンはどんどんと進む。

 友人が一言も口をきかないので、セシルも気軽に問えない。お陰で閉じたくちびるの中では、湧きおこる質問が言葉になって塞き止められている。問題はそれを解放するタイミングがいつ訪れるかだ。

 通り抜ける部屋はロマンチックな薄桃色やヨモギ色など、それぞれに端麗な壁紙や家具が据え付けられていて、壁には必ずと言っていいほど肖像画が飾られていた。恐らくここが大公家の者の居住空間なのだろう。暖炉には白いアネモネをかたどられた紋章が必ず彫られていた。

 大公の旗と同じだ、と思った次の瞬間にそれを訂正した。そりゃそうか大公の城なんだから。

 何枚もの扉と何本もの階段、そして廊下を抜けて、セシルの方向感覚がこんがらがってきたころ、メルヴィンはようやく足を止めてくれた。

 セシルの鼻先でゆったりと優雅に振り返る。マントが翻って、まるで一枚の絵のようだった。

 学友の一挙手一投足に、セシルは既視感を覚えた。

 いや。アカデミーの男子寮でも、同じだった。だが、魔少年はあのときの轍を踏まなかった。


「ここだよ」


 そう言うとメルヴィンは、扉を開けてくれた。

 恐る恐る足を踏み入れると、ふわりと花の香りがセシルの鼻をくすぐった。ユリだろうか。

 借りてきた猫のように慎重な彼を見て、メルヴィンは笑った。そして後ろ手に扉を閉めた。

 それから自由に部屋を横断して、分厚いカーテンを開いた。

 外のように肌寒かった部屋が、一瞬にして光に温められる。


「安心して。君のために用意した部屋だよ。掃除もちゃんとしてある」


 友人の紅い瞳が緩んでいる。少しの饒舌さに、セシルは許可を得た気がした。

 黙っていた時間の分、質問の用意は十分だった。


「メルヴィン。最初から説明して。どうしてフォベトラ城に入れるの?」


 声音も口調も大丈夫だ。セシルはこっそりと拳を握った。

 偶然にも、さっきパーシィにぶつけたセリフと似たが、今はさほど重要ではない。


「『怪しい人』とか『悪い人に狙われている』って何? メルヴィンだからと思ってついてきたけど、でも、わからない方が怖い」


 か弱い乙女がそうするように、不安げに胸の前で両手を揉むところまで、完璧にやった。

 それにセシルが不安なのは本当だから、迫真の演技になっただろう。

 さて、あとはあちらがどう出るか。


「うーん。どこから話したものかな……」


 セシルが碧の瞳をそらさずに見つめていると、メルヴィンは少し訝ってから話し出した。

 困ったふうな笑顔を浮かべて、メルヴィンはマントの紐を緩めはじめた。


「まず、ここはフォベトラ城で僕にあてがわれた部屋だ。……と言ったら、頭のいい君ならばわかるかな」


 そう言いながら、彼はマントを椅子にかけた。

 洗面台についている鏡を覗き込んで、撫でつけていた髪をくしゃりとほぐした。

 馴染みのある風貌に戻る。コシのある黒髪とガーネットの瞳が、誰かを彷彿とさせる。


「メルヴィンの? じゃあ、メルヴィンって、大公家の人ってこと?」


「そう。僕の名はメルヴィン=シュヴィラード・スパーク。隠居した前モルフェシア大公チャリオットの次男で、ジェブラン家の者。傍系ゆえに侯爵の位と称号を持っている。現モルフェシア大公ジャスティン・クール・ド・ジェブランは腹違いの兄だ。……黙っていてすまない」


 堂々と淀みなく語ってくれたその声は、少年らしい青々しい音をしていながら拭えぬ早熟さを醸し出されている。

 言葉や挙動の節々に感じていた気品は、そういうことか。セシルはすとんと納得した。


「……いいよ。アカデミーってそういうところでしょ。出身を隠して、等しく人間として学ぶ場所何だもんね。さっきも、エマがすごい企業の社長令嬢だって初めて知った」


 メルヴィンは表情を柔らかくほぐした。


「知ってる。見ていたから」


「えっ?」


 セシルは一瞬、彼の意味するところがわからなかった。


「ずっと、見ていた」


 そう重ねて言う、若き侯爵の穏やかさは変わらない。

 セシルはにわかに信じ難くて、友人につられて浮かべていた笑顔を強張らせた。


「……いつから?」


「ラ・プリマヴェラ号に乗ったときから」


「い、一緒にいたなら、話しかけてくれたらよかったのに……」


 本心が震えた声に乗る。セシルは彼のことを同性の友として、とても大切に感じていた。

 だから、彼の生まれも育ちも、貴族としての肩書きもさほど重たく捉えていなかったのだ。

 ただ、己が性を偽っている後ろめたさだけが、しこりになっているだけで。


「ありがとう。でも二つ気になることがあったから、姿を見せるわけにはいかなかった。一つ、君のパトロンがどんな男か。もう一つ、刺客が動かないか」


「刺客? は、はは……メルヴィンでも冗談言うんだ……」


 セシルはできるだけ無邪気そうに装いたかった。だが、絞り出した笑い声は乾いていた。

 そして、メルヴィンの瞳が、本当はずっと笑っていないことに気付いてしまった。

 冷たくはない。むしろ、感情が静かに燻っているような印象がある。

 静か? セシルはすぐに否定した。

 違う。今すぐにでも炎を見せて燃え上がりそうな、熾火のようだ。


「信じられないか。そうだろうね。でも、あの人は自分の意に染まぬ人間をひどく扱う。実際、君は気付かなかったろうが、ラ・プリマヴェラ号には数名の刺客がいた」


 窓辺の陽光が黄色く暖かいのに、セシルの背筋がすっと寒くなる。

 指先はとっくに冷え切っていた。


「……仮にいたとして、なぜ? 何のため?」


 メルヴィンは迷いなく言った。


「君を攫うために。グウェンドソン氏のところにいては、危ない。君たちの顔と情報はとっくに割られているから。だから、安全が確認されるまでこの部屋にいてほしいんだ」


 ドメルディ空港でもそうだったが、友人の芯のある言葉に嘘偽りは感じられない。しかし、説明されている内容があまりにも突飛に感じられるのも、確かだった。それに、口喧嘩をしたといっても、帰らなければパーシィが心配するだろう。そう思うと、どことなく気が急く。


「えっと……。心配してくれたのは、ありがとう。でも、それは困る――」


「わかってる。せっかくの夏休みなのに、ごめん。しかしこれは深刻な話なんだ」


 眉をしかめながら遮ったメルヴィンの顔が、最も深刻そうだ。

 これはなかなか骨が折れそうだぞ。百歩譲ってここにいたとして、まずは電話を借りなきゃ。


「君の安全が保障されるまで、ここで過ごしてほしいんだ。大丈夫、兄上には僕から話すよ。信用できるメイドもつけるし、あの人がいないときには少し散歩もしよう」


 魔少年が答えないので、あたりはしんと静まり返った。

 沈黙は保留に他ならなかった。

 けれども、メルヴィンがそう思っているかは別である。

 そうだよ! セシルはどちらにせよ重要なことに気付いた。

 男だってばれたらダメなんだから、絶対に帰らないといけない!

 どうにかして切り抜けないと。


「うーん……」


 曖昧模糊とした笑顔を取り出し、セシルは時間を稼ぐことにした。この部屋を値踏みしているかのように、ゆらゆらと見てまわる。衣装箪笥はなく、クローゼットがある。洗面台の据え付けられた壁から天蓋付きのベッドまでが遠い。部屋の規模として一番身近なのはアカデミーの小教室だ。一人の少年が暮らすには広すぎる。うっかり覗き込んだ窓辺からは空の青を映したファタル湖が見晴らせて、それは最高の景色だと思った。思わず見とれてしまう。

 そのときだった。


「ごめん……!」


 ふいに、後ろから抱きしめられた。

 驚きの声を上げる間もなかった。

 セシルの全身に緊張が駆け巡る。まさかの展開だった。

 メルヴィンの筋張った細長い腕が、セシルの体を優しく、けれどもしっかりと包み込む。

 そして張りつめた熱っぽい吐息に耳元を擽られた。


「……帰って、欲しくない……」


 声変わりを終えたばかりの若草のようなテノールが掠れて艶っぽい。

 恋愛経験のないセシルにも、すぐにわかった。

 これは先程、飛空艇でエマがしてきたような戯れとは違う。少年としては危機的状況だ。

 メルヴィンの声は、鼓膜から、そしてぴったりと背中に沿っている胸板から直接響いてきた。


「パーシィ・グウェンドソン。才色兼備な男だと僕も認めている。けれども、君を危ない目にあわせる男になんて、預けておけない。君は魔女なんて呼ばれながら探偵の助手をしていい女の子じゃないんだ!」


 ああ。本当に。セシルは当惑しながら同時に、心から友人に謝りたくなった。


「庶子という出自も侯爵の称号も、僕にとってなんの価値もないものだった。けれども今では感謝している。君を守るための手段になった。何の不自由もさせない、だからお願いだ。僕とここにいると、言って欲しい!」


 そんなに、リトルレディ・セシルを思ってくれているのか。


「好きなだけ、ずっと! いつまでも居てくれてもいいんだ!」


 それはもうほとんど愛の告白であった。

 彼がそこまで言うつもりがあったのかは知らない。

 そして、セシルの強張った手のひらにある真実は、メルヴィンの失恋という未来しかない。

 ここは、言うべきか。男であることを、そして本物の魔女であることを。

 魔少年はぐっと生唾を飲み込んだ。


「メルヴィン。優しくしてくれてありがとう。でもオレ、本当は――!」


「ごきげんよう、我が息子! よくやったわね!」


 女のかさついたご機嫌な声と共に、乱暴に扉が開け放たれた。

 振り返りざま、少年たちは慌ててお互いに体を引き離し、五歩分ぐらいの距離をとった。

 そこでは、女がふんぞり返っていた。

 人工的な赤に染め上げられた長い巻き髪を得意げに払いのける。

 セシルは、一瞬にしてこの女の自尊心の高さと突き刺さる香水の匂いを嗅ぎ取った。


「母上! どうしてここが……!」


「わかるわよ、母親だもの。あなたが好きな子を連れ込む場所ぐらい、ねえ?」


 メルヴィンの顔が、そして耳が真っ赤に染まる。


「初めまして、セシルちゃん。あたくしは議会の〈隠者〉ベラドンナ。よろしくね」


 セシルはそれぞれを二度見してしまった。目の前の娼婦のような女と、若くして紳士の風格がある少年が親子だとは、すぐには信じられない。

 女は人差し指で真っ赤なくちびるをいじり、指先についた口紅を指先で擦り合わせた。


「まあ、でも、あなたにしては考えたんじゃない? アンバー・ガーデンじゃなくて、フォベトラ城にしたっていうのは。いい舞台設定よ。新聞記者も馬車寄せで止めておけるし」


 褒めているつもりなのだろうが、知性の薄さから愚弄にしか聴こえない。


「まさか……!」


 女の、明らかに描いているとわかる細長くて茶色い眉が跳ね上がる。


「そうよぉ。あなたのセシルちゃんにはあたくしの生贄になってもらうの。ハイこれどうぞ」


「え、なに?」


 ベラドンナが強引にセシルの手をひっぱり、その手のひらの上に二つの宝石を落とした。

 楕円のカボションカットが美しい、青と赤の輝石だ。それぞれに六条の星を浮かべている。


「調べがつくまで結構かかったわ。コランダム……サファイアとルビーのことね。天に浮かぶ星の入った宝石はこの世に二つだけ。だからそれこそが〈地上の翼〉にほかならないのよ! アハハハ!」


「鳥の羽とかじゃ、ないんだ?」


 魔少年は高笑いを天上に響かせるベラドンナには興味がない。

 だが、降ってきたチャンスにセシルは思わず口元を綻ばせた。


「えっ。本当にもらっていいの?」


 得意満面だったいやらしい笑顔が、一瞬にして醜くゆがんだ。


「はぁ? ダメに決まってるじゃない。バカね」


 そして、筋張って薄汚い喉を思いっきり鳴らした。


「衛兵! 盗人があたくしの宝石を!」


 金切り声を聴きとめて、遠くから、ばたばた、がしゃがしゃと足音が集まってくる。

 二つの宝石をぎゅっと握りしめたセシルを、メルヴィンが後ろ手にかばってくれる。


「母上! セシルは僕の客人だ! 勝手な真似は許さない!」


「メルヴィン。わかってないのね。成人していないあなたに侯爵の権利なんてほとんど無いの。なんでって?」


 ベラドンナは、不遜にニヤリとした。


「あたくしが、代理人だからよ! さあセシルちゃん。あなたはこれから、盗みを働き、人々を欺し続けた魔女フォルトゥーネとして、皆の前で処刑されるのよ!」

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