薔薇吐きの病

 顔から血の気がさあっと引いていって、足元が覚束なくなりまして、トイレに駆け込んで便器に髪が垂れるほど顔を突っ込みました。わたくしの口からは、一枚、また一枚、ひらひらと甘い香りを漂わせて、真っ赤な花弁が落ちていったのです。水面を泳ぐ花びらは、私の下血のように便器の水を赤く赤く染め上げていきました。

 わたくしはそれを、薔薇吐きの病と名付けました。

 それが起きるのは、決まって嘘を吐いたあとでした――嘘というのも、わたくしが吐く嘘は人を傷つけるためのものではありませんでしたが。

 親指で偽りを滑らせ書き上げ、微笑みを浮かべたあと。私の喉は一瞬で薔薇の棘で埋め尽くされ、花弁を押し出そうと胃が持ち上がるのを感じました。今度は真っ黄色の花弁です。

 ぼとり、ぼとり、わたくしの口から異物が落ちていきます。そのたびに、わたくしは貧血にも似た症状を起こしまして、部屋の隅で蹲っていると、しばらくして快くなるのです。

――ごめんなさい、どうしても外せない仕事があって。

――えぇ、構いませんよ。あなたの仕事が大事だもの。

――あなたはいつも人の言うことを聞いてあげる優しい子なのね。天使みたい。

――そうかしら、お母さん。

 そのメッセージを指先でなぞりながら、わたくしはふつふつと笑い声を上げるのです。えぇ、あなたは知らないでしょうけど、わたくし今こうして花を吐いてるの。真っ赤な赤い薔薇を。食道を突き破って血が出るの。わたくしのことは誰も知らないのです。

 駅で友達を三十分待つ。せっかくの予定を当日に無しにされる。貸したものが返ってこない。陰口を言われる。仕事でミスをする。知らない人と出会う。その全てがわたくしにとって薔薇を吐くに値する行為なのです。

 色は様々でした。赤、青、黄、紫、中には虹色までありました。わたくしの食道をずたずたに引き裂いて美しい花を咲かせるものでした。そのたびに吐いた先の水が、入浴剤を入れたみたいにどぎつい甘い香りと鮮やかな色で染められていくものでした。

 わたくしはこの病を、神から貰った最も美しい病だと思っていました。吐けば吐くほど楽になる。そのぶん何かを食べるのには支障が出るけれど、人は食べなくたって生きていけますもの。体はどんどん痩せ細り、顔は痩けてしまっても、わたくしは嫌ではありませんでした。

 今日もアプリを開いてメッセージを眺めます。彼氏は今日も頭を下げています。友人は今日もご高説を垂れています。母親は今日もわたくしを褒めています。込み上げる吐き気に、わたくしは笑いすら浮かんできます。

 良いのですよ、わたくしは優しくてあなたたちを愛しているのですから。

 一つ一つに愛を込めて連絡を返す。愛を込めて、指を滑らせ嘘を紡ぐ。それら全てが薔薇になる。身を引き裂かれるような思いも全て、胃がひりつくような痛みも全て、薔薇になる。

 千鳥足でトイレに駆け込んで、中指を口に突っ込んで中身を出そうとしました。けれども、その日だけは違っていました。

 喉から舌を滑り、何か大きなものがポチャリと音を立てて落ちました。私は思わず目を疑って、顔を引き上げました。くらりと頭が揺れて、そのまま壁に打ちつけました。

 痛みに悶えながら薄らと目を開く。鼻腔には艶やかで芳醇な甘い蜜の香りがこびりついていました。そして水の上には、まるで湖を泳ぐ白鳥のようにして、真っ赤な大輪が浮かんでいました。わたくしはしばらく呼吸音と心音だけを聞きながら、その美しさに目を奪われていました。

 薔薇の、花だ――そう呟くより先に、胃がきゅっと締まって、吐き気は治ることを知らずに、便器の中に次々と大輪を落としていきます。青、黄、紫、虹色。止まらなくなっていって、いよいよわたくしは恐ろしくなってきました。

 イヤ、誰か、止めて! 叫び声はアヒルの醜い嗚咽に変わるだけです。溶けてぐちゃぐちゃになった水彩絵具の筆洗みたいに、水が濁っていきます。わたくしが望んだような美しい光景とはかけ離れていきました。

 持っていた手からスマートフォンが落ち、ドン、と鋭い音を立てる。わたくしは便器に顔を置き、放心状態で遠くを眺めていました。

 しばらくして、ぼんやりとくぐもった人の声が聞こえてきました。大丈夫ですか、聞こえますか――わたくしはそれに頷いたのかどうかも分かりません。

「これは……オーバードーズですね」

 わたくしははっとして顔を上げました。顔には血が通ってなくて、動かすのもやっとでした。

「いいえ、違います。わたくしは薔薇を吐いていたのです」

 青い服を着た人たちは、わたくしの譫言も聞かずにわたくしを強引に担架に乗せました。嗚呼、いけません、どうして分かってくれないのでしょう。わたくしは心と体がばらばらになるまで、ずっとずっと花を吐いていただけなのに。

 開け放たれたわたくしの部屋は、片付けもろくになされていなくて、床には何の種類かも分からない薬のゴミと、飲み終えたお酒の缶が散乱していました。

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