邂逅/Alternative

──ようこそ、図書館へ。

 本独特のあのインクの香りがする空間の中、静謐な世界に、彼女が一人浮かんでいた。後ろ髪には簪が差してある。着物の代わりに長いカーディガンの袖を振り、彼女は私に話しかけた。

 私は背筋が震え上がるような感覚がして、バインダーを強く握りしめた。本を借りに来たわけではない、勉強をしに来ただけだ。入り口で買えるコーヒーを飲みながら、締切が近づいてくる課題をこなすためだけにやってきた。だから、ぺこりと頭を下げて去ってしまえば良いだけなのに、私は彼女に目を奪われていた。

 特段美人というわけではないし、醜いというわけでもない。ただ感じたのは、彼女からは本の匂いがする、ということだ。インクの香り、紙の香り。指先から頭の先まで、本の世界に溶け込んでいる──そう感じたのだ。

 用事があったわけではないが、彼女に話しかけてみた。普段私が読んでいるような、かたっくるしくて重怠い小説が読みたい、と。そんなこと、司書に訊くべきではないと分かっていたのだけれど。そうすると彼女は、眼鏡越しに爛々と目を輝かせ、普段はどんな本を読まれるんですか、と答えた。

 私は恥ずかしながら、読書家と呼べるものではない。だから、有名な作品しか読んでいない。耳が熱くなるのを感じながら、『羅生門』だとか、『高瀬舟』だとか、『舞姫』だとか、高校の教科書に載っていそうな小説を挙げた。

 すると彼女は小さく唸り、見る目はあるんですね、と呟いた。見る目とは何だろう。最近のヒット作は読まないし、ドストエフスキーすら読んだことの無いような私に「見る目」だなんて。そういうのは評論家に言うべきだ。

 私の思考を読み取ったのか、彼女は破顔して、違うんですよ、と返した。

「文章を読める力があるんですね、って。だってああいうの、難しいでしょう?」

「難しいですね。未だに思考の自己中心性を取っ払って読むのは難しいです。『羅生門』の下人には感情移入しますし、『高瀬舟』の喜助には同情します」

「新美南吉の『ごんぎつね』って話は知っていますか?」

 もちろん知っている。多くの子供が小学校で出会う物語だろう。私も彼の母校出身だから、耳にタコができるほど聞いた話だ。悪戯っ子な狐・ごんを主人公とした悲劇である。

 私が頷くと、彼女は髪を耳に掛けながら話を続けた。

「あの話、兵十目線に立って読むのがまた面白いんですよね。誇大妄想の狐を殺めてしまった彼の悲しみといったら……」

「それが新美南吉の狙いだった、って話ですよね」

「私だったら、そういうどんでん返しが好きです。ですから、おすすめするなら……」

 そう言って、彼女は席を立つ。髪を靡かせて歩いていく彼女には、一切の装飾もなされていない。どぎついメイクも、派手なアクセサリーも無い。だからこそ、本に迎え入れられているのだろうな、と思う。私はそんな後ろ姿に見惚れてしまっていた。

 我に返ったのは、彼女が江戸川乱歩の小説を差し出してきたときだ。少し頬を赤くして、早口で彼女は話してくる。

「江戸川乱歩の『人間椅子』って話が最高ですよ! 何か話すと全部ネタバレになってしまうのが惜しいんですが……とにかく、読者を驚かしてくれます!」

「は、はぁ、読んだことの無い話です」

「硬い文章を読むのも得意そうですし、こういうのはいかがですか?」

 手渡されて、つい手にとってしまう。江戸川乱歩なんて読んだことも無い。ミステリーそのものをあまり読まないからだ。しかし、彼もまた有名な文豪の一人である。そして何より、こんなに嬉しそうに司書さんが勧めてくださるのだ。

 私はバインダーを脇に挟み、こくりと頷くと、読んでみます、と返した。本当は勉強をするつもりだったのだが、今は「閉館前に読み終えて感想を伝えたい」その一心であった。

 なんと行きあたりばったりなのだろう。それでも、足元を見てみたら、その本が置いてあったから。仕方無いじゃないか、と言い訳を一人内言する。

 にこやかに去っていく司書を見ながら、コーヒーをこぼさないように気をつけて、空席を探した。バインダーに何を挟んでいたかは、忘れてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る