二十三日目

「今日買う物は?」

「プロテインシェイカー、ネイルリムーバー、コットン……」

「それって本当に必要なわけ?」

 薊は肩を竦め、メモアプリを閉じた。それから、二階建ての百円ショップの前にずらりと車が並ぶのを眺め、大きく溜め息を吐いたのだった。

 主婦から子供連れまで、レジには長蛇の列が出来ていた。雨でも振りそうな曇天の空模様だと言うのに、人足は絶えない。マスクをした人陰がわらわらと並んで、携帯を耳に当ててがやがやと騒ぎ立てている。安価な陳列棚、雑多な商品、そんなジャングル。僕と薊はこんな戦場に乗り込むのだった。

 窓も開いていない狭い檻の中では、人々の呼吸さえ聞こえてくるようだ。入り口に並べられたポケット扇風機は回らないから、結局蒸し暑いのには変わり無い。僕は寒がりだから少しも辛くないのだけど、人混みが苦手な薊は顔を青くするのだった。

「ったくよォ、『三密』を避けるって話はどこいったんだァ? あぁ? 人だらけじゃねぇか」

「緊急事態宣言以前より人が増えてそうだよなァ。ゴールデンウィークだからってのもあるが……」

 薊の苛立つ声に、僕は半笑いで返すことしかできない。僕らも外出しているから、人のことは言えないのだが。ここに一人感染者がいたら何人感染するだろうか。ゾンビになった理由が百円ショップに行ったことだとしたら、なんて日本人らしい理由だろう。それはまさに水に黒の絵の具を一滴垂らしたようで、ばたばたと倒れていく人々が想像できる。僕らがしている布マスクも──ちなみに、秋桜が作ってくれた──もはや意味を為していない。

 くぐもった声で薊が、シェイカーはどこだ、と言う。人の肉を掻き分けて、ジャングル奥地へ向かっていく。このような物だらけの場所である一つの物を探すのは、宝探しのようだ。そう考えると、蜜柑の言う「資源を確保する」というのに近い。感染者の間をすり抜け、必要な物を短時間で確保する──まぁ、レジが混むからなのだけれど。

 薊が僕の手を強く握った。小さな手が、拙く温く、僕の手を包む。暗闇の灯火のようにほのかに温かい。

「ヒナゲシ、迷うよ」

「阿呆か、迷うのはそっちだろう」

「煩いなァ。シェイカーは見つかりそうなの?」

「食品売り場にあるだろう……ほら、あった」

 残り三つのシェイカーのうち、一番近い物を手に取る。レジの前の売り場は、じめっと蒸し暑い。息が詰まるような感覚に、僕らは足早にその場を離れた。布マスク越しの呼吸が辛い。人の少ない売り場に行くと、顔が少し涼しくなった。二人で大きく息を吐き出す。

 なんという達成感。たかが百均、されど百均。マスクを求めてドラッグストアに並んでいた人々も、同じような感覚にハマっていたのだろう。戦利品をぶら下げてレジに並ぶ主婦らが満足げな顔をしているのも納得できる。

「呆れた……本当、人が多いな」

「外に出てきたことを後悔するな」

「そうさな。まったく、どいつもこいつも困ったもんさね」

 必要な物を取り揃えると、薊と僕は会計の最後尾につく。前にずらりと並ぶ人々を眺め、薊は黒いマスクを少し浮かせて扇いだ。

「此奴らも不要不急の外出かね。百均だぞ百均。スーパーじゃねぇんだぞ」

「スーパーより安く雑貨が打ってるからな。宅配を使わない人間はこっちに来るんだろう」

 薊の言うとおりではある。ここはスーパーでも、銀行でもない。雑貨が不必要とは言わないが、外に出て買うほどの物かと言われると考えてしまう。僕ら自身も、こんな感染者の巣窟にやってきてまで必須な物かと言われると悩む物しか買いに来ていない。それでも買いに来てしまうのは、「今欲しいから」だろう。

 牡丹はよく課金のために魔法のカードを買いに出かけるし、秋桜はよく美容品を買ってこいとせがむ。竜胆はおやつを買ってこいとねだる。課金だってお菓子だって美容品だって、極論を言えば不必要で、時間をかければ家から一切出なくたって手に入る物だらけだ。それでもこうして僕らが外に出るのは、家で過ごしていて、物が無いと不便だからだ。

 そう思うと、少し考えさせられるところもある。「今欲しいから」駐車場を埋め尽くすほどの混雑でもこのお店にやってくる。「今やりたいから」危険を冒してまで外に出る。それは少々、贅沢ではないだろうか。足りないイコール不安の方程式が出来ているのではないだろうか。

 今ではワンクリックで物が買える時代だ。時間を問わずにコンビニエンスストアは開いている時代だ。欲しい物はいくらでも、いつでも手に入れることができる。懐古主義に浸るのは良くないが、昔だったらこうもいかなかっただろうな、とは思う。

「今、『欲しい物をいつでも買えるなんて贅沢だな』とか考えてただろ」

「はっ⁉ なんで分かるんだよ⁉」

「アンタの考えてることなんてお見通しなんだよなァ」

 少し大きな声を出して驚いてしまった。薊が蜂蜜色の丸い瞳でじっと見つめてくる。さすがに以心伝心にも程がある。それとも、僕の台詞に含蓄があったのだろうか。

 薊は一歩ずつ前に進み、徐々にレジに近づきながら、額に手を当てて首を振る。

「あのなァ。昔はシベリア出兵に際して主婦が米を買い漁ったんだぞ。今と同じだろうが。確かに江戸時代の経済にゃァ、『もったいないの精神』とやらが働いていたに違い無いが、だからといって今の混雑を責められんだろう、そいつはさすがに横暴だぜ、ヒナゲシ」

「は、はぁ……しかし、昔はそう簡単に欲しい物なんて手に入らなかっただろう。今じゃ百円ショップに何でも売っているが、かつてはそんな店無かったんだから」

「んなもん、当たり前だろうがよォ。此奴らが『無くなったら死活問題になる物』を売り始めたんだから」

「はぁ?」

 横暴なのはそちらも大概だぞ、と思ったときにはすでに口にしていた。だが、薊は自分の意見を撤回することは無い。むしろ人混みの中で得意げに演説をするかのように得意げだ。

「原始時代に生きる人間が皿を必要としたか? 縄文時代に生きる人間が電池を必要としたか? 弥生時代に生きる人間がネイルリムーバーを必要としたか?

どんなに肥えたとしても、彼奴らに必要なのは食料くらいだぞ。だが今はどうだ? 肥えて生きていく最低限に必要な物は非常に多くなってきている。無ければならない物は増えてきていると、ボクは思うよ」

「そういう物が増えたからこそ、それに見合った入手手段が必要になったと?」

「ご明察。だから、こうやって欲しい物をすぐにでも手に入れようとする精神は馬鹿にはできないよ。だからといって混雑した今の状況が良いとは思えんがな」

 薊はそう言ってこめかみを掻くと、ほら、進むぞ、と言って僕の手を引いた。まだ繋いだ手は離さないらしい、成人女性のくせに可愛い奴である。

 極論ではあるが、薊の言うことももっともだな、とは思った。結局、こうして不足を即時に満たす人々を冷ややかな目で見てしまうのは──言わずもがな、今の自分自身をもだ──変わらないのだけれど、今では生存に必要だと「感じるもの」は増えた、とは思う。

 情報社会において、インターネットの確保は必要不可欠だから、スマートフォンの電源ケーブルは必要。食事を摂る際、皿は必要不可欠だから、割ったら買いに来なければならない。感染を防ぐために、紙のマスクは必要不可欠。家でも授業を受けるために、コピー用紙は必要不可欠──そうやって挙げていくと、生活を維持するのにはかなりの物が必要だ。

 サバイバル生活を自称し、最低限の外出で済ませていると言っておきながら、こうして外に出ては、本当に必要なのか分からない物を買い漁っている。実際に世界が滅んだら、こんな人だらけの場所になんて来られないだろうに。手袋をした店員が死んだ顔で接客をしているのも、人々がそれを欲したまい、財布を開けるからだ。出された硬貨にも怯えなくてはならない極限状態を作り出したのは、この中途半端に自宅待機を迫った世界の方ではないか。

 レジ袋を持って、足早に店内からはける。家路に着きながら、僕はぼんやりと曇天を見上げた。雨の臭いがするから、そろそろ傘を差そう。しかし、傘というものが必要になったのは、いつからだろう。

 昔の人々は、どうやって生きていたのだろう。昔の僕は、どうやって生きていたのだろう。「ある」ことが当たり前に生きてきて、徐々にその「ある」ことは肥大化してきている。そうすると、元々「無い」ことに何も感じなかったのに、今では多感になってしまう。今持っている物ですら、本当に必要かどうか分からない。じゃあ捨てられるかというと、捨てられやしない──

 隣で深呼吸をしている薊を見下ろして、その頭を撫でた。彼女は買い出し担当だから外に出てきただけで、別に何か欲しい物があったわけではないだろう。欲しがりな現代人の被害者だ、彼女も。

「撫でんな、人前だぞ」

「まぁまぁ。欲しい物も無いのに、よく買い出し担当を引き受けてくれましたよ、みたいな」

「気にすんなよ、ボクだって欲しい物買ったんだから」

「はぁ?」

「ほら」

 そう言って彼女が取り出したのは、黒のネイルポリッシュだ。マニキュアである。それは果たして必要なのだろうか。散々考えて思考の迷路に迷ったあと、辿り着いたのは、あまりにもお粗末なオチであった。

「撫でて損した」

「なんだよテメェ」

 手を離すと、大きな傘を開く。薊が僕に身を寄せる。体温が伝わってくる。傘は生存に不必要だったかもしれないけれど、発明してくれた人には感謝したいな、と思ってしまった。

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