ぼんやりしている心にこそ恋の魔力が忍び込む。【後編】

 喧嘩のお誘いに対して、兄が鬱陶しげに「めんどくせぇ」と小さくつぶやいていた。兄は喧嘩が大好きだけど、こういう面倒事を抱えた上での喧嘩は好まないのだ。多分力でねじ伏せるってのが兄のポリシーに反するのかな? 知らんけど。

 口頭で解決できたら一番良かったんだけど、相手は喧嘩する気満々。しかし、今回は私が兄を巻き込んだ形なので、私が話し相手になるべきだと思うのだ。


「まて! 私が相手に…」


 私が声を上げようとすると、肩を掴まれて制止された。


「あげは、俺が相手するから」

「えっ」


 兄に止められた私は「ここにいろ」と指示されるがまま、大人しく待機した。今さっきめんどいって言ったじゃないの。

 車道から砂浜に降りた男と兄は言葉を掛け合うことなく、喧嘩を始めてしまったのである。


 おっと、あの女性は無事であろうか。

 私は男の車に乗ったままである女性の様子を確認すべく、後部座席を覗き込んだ。その中では身を縮めて震える女性がいた。

 ドアに手をかけると、鍵はかかっていないようだった。


「大丈夫ですか?」


 扉を開けて声をかけると、女性はビクリと肩を大きく揺らしていた。


「あ、あなた…どうして」

「兄が近くを通りかかったんで、バイクで追いかけてきたんですけど……」


 喧嘩させる気はなかったんだけどねぇ…

 女性は足をフラフラさせながら車から出てくると、目の前を広がる広大な海、そして砂浜で戦う男らを見て呆然としていた。

 この辺は遊泳禁止のため、海水浴客はいない。なので夏真っ盛りの砂浜を男たちが貸切状態で喧嘩している。


「と、止めなきゃ」

「あー大丈夫です多分」


 兄も手加減するだろう。本気ではボコらないだろ。

 私は喧嘩をする輩を横目に、カバンからスマホを取り出した。


「もしもしお母さん? ちょっと面倒な人間に捕まって兄貴が喧嘩始めちゃった。それで保護したい人がいるから車で迎えに来てほしいんだけど」


 私の要請に電話口のお母さんは『またかい。大学に入ってやっと落ち着いたと思ったら…』と小言を漏らしていた。

 だけどお迎えがこなければ帰れないのだ。そこをなんとかと頼み込んで、お迎え待ちとなった。

 流石にこの女性をあの男の車に乗せて帰すのは心配だからね…さっきビンタされてるの見ちゃったからね…



 ──数十分後。

 流石に喧嘩し続けるのにもスタミナが切れてきた男どもは砂浜に膝をついていた。

 しかし意外と相手の男は保っているな。すぐにギブアップするかと……この女性が好きだから諦めきれない気持ちからなのか、単なる意地なのかはわからないけど。


 ブロロロロ…とどこからか聞き覚えのある車の走行音が近づいてきた。

 自家用車ではない。……これは……

 4トントラックのコンテナ部分にデカデカと描かれた黒竜の絵を見上げた私は遠い目をした。


「おいおい…お前、仲間呼んだのかよ……」


 トラックの運転席にいるのはサングラスを装着した元ヤン臭のするおっさんである。

 バテていた男はそれを見て、表情をこわばらせていた。


「いや、あれうちの親父」


 兄の言葉に男はぎょっとしていた。

 やばい人間と誤解をしてるのかもしれない。

 弁解するけど元ヤンではあるけど、うちの一家は堅気だからね。小指ちゃんとあるし、怪しいお薬とかに手ぇ出してないから。


「やべぇやつだ…」


 トラックの運転席側のドアが開き、そこから下りてきた父は作業着のポケットに手を突っ込んでこちらに近寄ってきた。

 至って普通に歩いているだけなのだが、一般人にはそうは見えないらしい。

 恐怖に慄く男はわたわたと道路に繋がる階段を駆け上がると、すぐさま自分の車に飛び乗った。

 そのままエンジンをかけようとしたが、まるで西洋のホラーみたいにエンジンが掛からないというミラクルが起こり、エンジン部分からキュルキュルと音をさせていた。


「何なんだよっ動けよっ」


 それにはこれまた西洋人のリアクションみたいに反応していた。

 うちの父は立ち止まって静かにそれを眺めていたんだが、男にとってはジェイ○ンが背後に忍び寄っているように感じるみたいだ。まぁ…父は確かに少々強面だから怖いのかもしれんが……


 やっとエンジンがかかると、急発進で車は去っていった。拉致したはずの女性をこの場に放置して。

 女性はいいのか。復縁したいんじゃないのか。


「なんだありゃ」


 お父さんは逃げ去る車をかったるそうに見送っていた。一言も発してないのに、あの男が尻尾巻いて逃げたのが不思議だったのだろう。


「なんでお父さんが来てるの…?」


 私はてっきりお母さんが家の車で迎えに来るとばかり思っていたのに。

 大体そのトラック二人乗りじゃないか!


「こっちのほうが相手を威嚇できるだろうって母ちゃんが言うから」


 そうですね、効果はてきめんですけども!

 女性を家まで送ってもらうつもりでお母さんのお迎えを期待していたんだが……

 私はちらりと呆然としたままの女性を見た。知らんおっさんとトラックで2人きりは気を使うだろう。

 仕方ないので、私が父のトラックの助手席に乗り、女性は兄のバイクの後ろに乗せることに。


「手を出すなよ!!」


 バイクに乗った兄に念押しすると、「人聞きの悪い」と返事が帰ってきた。兄貴の下半身に関しては信用ならないんだよ。男性からの暴力に傷ついた女性なんだから丁重に紳士的に扱えよ!

 そしてようやく帰路についたのだが、先に家についたのはトラックより先に小回り効く二輪車である。私はてっきり、最寄り駅まで送ってあげてるんだろうと思ったのだけど、家のリビングに彼女はいた。

 兄は女性の腫れた頬の手当をしてあげていたのだ。彼女の頬には低刺激性湿布が貼られている。

 兄は女性の頬を見て「よし」とうなずいた。


「ひでーやつだな。お前も男はちゃんと選ばねーと駄目だぞ」

「……」


 ……女性に対して暴力は振らないけど、女性を弄ぶお前が言うなと言ってやりたい。

 女性は……兄に見惚れて頬を赤らめていた。…ちょろすぎない?

 兄はさっき喧嘩していたけど、あなたのためって言うわけじゃないんだよ? 夢を壊すようで悪いけど……本当、やめておいたほうがいい…そう口に出そうかとしたけど、彼女は見た目によらず積極的だった。

 救急箱に道具をしまっている兄の手をそっと掴むと、その手の甲を撫でていた。先程の喧嘩で兄も手に怪我をしていた模様だ。男からの攻撃は防御していたから目立った怪我はないと思っていたけど、無傷というわけじゃなかったみたい。


「私も手当してあげます…」

「かすり傷だから平気だって」

「浜辺の砂はバイキンでいっぱいなんですよ」


 破傷風になったら大変。と言って女性は有無を言わさずに消毒液を手にとった。兄は仕方なく大人しく手当を受けている。


「助けてくれたのは嬉しいですけど、あまり無茶しないでくださいね…」


 傷パットを貼り付けた兄の手をそっと包み込むと、彼女はその手を引いて胸元に持っていく。


「助けてくれてありがとう」


 清楚な見た目によらずあざといな。女性はウルウル輝く瞳で兄を見つめていた。

 無言で見つめ合う2人。

 恋は突然目の前に落ちてくるってか。


 ──私は本日二度目の嫌な予感がした。


「誰なのその人っ!?」

「琥虎! どういうことよ!」


 あー来た。タイミング悪く今日来ちゃった。兄の彼女になり隊メンバーが……。その筆頭であるカナさんとレナさんが嫉妬を隠さずに兄を問い詰めようとする。


「ど、どなたですか…?」


 女性は突然現れた兄の彼女になり隊メンバーに怯えた様子で兄にくっついていた。うーん、あざとい。


「ちょっと、ベタベタしないで!」

「もうっ琥虎ってば、なんですぐに他の女誑すの!! 浮気するなんてひどい!」


 カナさんの非難に、私は首を傾げた。

 浮気…浮気…?


「浮気じゃねーって。そもそもお前と付き合ってねーし」

「どうしてそんな事言うの!」


 私が疑問に思ってたことを兄が包み隠さずストレートに返してしまったので、カナさんは半泣き状態になっていた。

 間違ってないけどね。兄は未だに特別な人を作っていないから、浮気にはならない。


「琥虎、欲求不満ならあたしが相手するって言ってるのに…」


 レナさんが兄の首に後ろから抱きついて色仕掛けをしている。

 三森家では見慣れた光景である。私も両親も風景の一部として受け取っている現状である。出来れば他所でやってほしいんだけどさ。


 女好きとか…絶対に泣きを見るってわかっているのになぁ。彼女たちは魅力的だからその気になればすぐに彼氏ができるってのに……なぜこの兄がいいのか。

 ……なーんでこれがモテるんだろうなぁ。


 私は無意識に首を傾けて、胡乱に観察していた。

 兄がもしも血の繋がりのない他人だとしても、私は間違いなく関心を持たない。多分喧嘩して終わりだと思うんだな……嗣臣さんくらい一途な男のほうが幸せになれると思うんだ。

 そこで私が胡散臭そうに観察していることに気づいた兄と目が合った。


「あげは、その目やめて。兄ちゃんはなにもしてないだろ?」

「日頃の行いが悪いせいだよ」


 珍しくいいところ発見したけど、今までのクズエピソードが上回って……掛け捨てゼロというか……

 女性はこの勢いに押されて諦めるかなと思っていたが、逆に燃えているようにも見える。あの元カレにしてもだけど……この人、本当に男を見る目ないんだな……本当にやめたほうがいいって…私は前に忠告したからね? 泣きを見ても知らんよ?

 3人は兄を巡って睨み合いを始めた。ただれてる関係だなぁ。



「やかましいよあんたら。よそでやんなさい」


 あまりにも騒ぎすぎだとお母さんが台所から顔を出して注意した。


「すみませんお義母様!」

「お義母様、私お夕飯のお手伝いしますっ」

「ちょっなによあんた、突然しゃしゃり出て!!」


 彼女になり隊は我先にとお母さんに媚を売りに行った。彼女らがいたら、料理を手伝えと言われないのでその辺助かるけど……かしましいな…


「琥虎は俺に似ていい男だから大変だなぁ」

「それ、自分で言っちゃう?」


 お父さんにからかわれるも、兄は慣れたようにスルーしていた。

 兄がブサイクだったら良かったのかな。なまじイケメンだから恋に落ちちゃうのかも。 


「いい加減彼女作って落ち着きなよ」


 そしたらこんな風に修羅場になることはないのに。私がチクリと言うと、兄はこっちは見てニヤリと笑った。


「お前が嗣臣と付き合うなら考える」


 その言葉に私はぐっと口ごもり、何も言い返せなかったのである。

 事あるごとにからかいおって…こっちにも心構えする時間が欲しいんだよ…!

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