第34話 唯才是挙 名家の無駄遣いと過労死予防

 肥後東北部の領主である坂梨は不満だった。

 肥後平定の名目で、兵糧を一時的に借り上げるという、大友家をついだ若造の慇懃無礼さと、それを跳ね退けるだけの力がない自家のふがいなさに、である。

 命令を出しているのは大友だが、まとめ役はあの吉弘と阿蘇神社の宮司も勤める阿蘇氏だ。神を敵に回してまで戦うような罰当たりをする度胸はなかった。

 だからこそ、一回目の米の返済に来た使者へ嫌味の一つでも言ってやろうと待ち受けていた。しかし…


 大友家から来たのは、今まで見たことも無い30歳くらいの男だった。

 淡い水色の着物を優雅に着こなした男は誇らしげに、堂々とした面もちで自分と対等に、いや、上位の存在であるかのように座っている。

 男の所作には気品があり、どこかで高等教育を受けたかのような立ち居振る舞いに『いったいどこの馬の骨だ』と言おうとしていた坂梨も言葉に詰まる。

「まずは、のどを湿らしてからにするか」と白湯を飲んでいると使者は軽く頭を下げ、高らかに名乗った。


「我は周防大守大内政弘の孫 大内太郎左衛門尉(後の大内輝弘)と申す」


 坂梨は盛大に白湯を吹いた。


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 大内太郎左衛門尉輝弘(1520~1569)。父は大内高弘という。

 輝弘は山口の大内義隆のいとこにあたる人物である。

 彼は輝弘の『輝』という字をいつ頃から使われていたのか分からないほど記録がなく「1569年に宗麟の後押しで山口でお家再興を目指して死亡する悲劇の人」という事跡がなければ名前が残ることも無かった。それくらい無名で活躍の機会に恵まれなかった人物という。


 彼こそが借金の返済分を、持ち逃げせず、各地の領主も納得するだけの地位のある人間として さねえもん こと斉藤鎮実が名をあげた人物だ。


 輝弘は大内家の屋形にいたことは一度もない。

 父親の高弘は1501年ころに大内家で家督争いで、義隆の父に敗北。豊後に亡命したという。輝弘はその後で生まれた人物で、ある意味 豊後人だ。


 史実の輝弘はキリスト教にも興味を示したため、宣教師フロイスは好意的にかいているが、彼は領地も持てず、父の旧臣らと不遇を囲っていたと記録されている。

 名門の家に生まれながら、その力を50歳まで振るう事がなかったらしい。

 彼の唯一の事績は1569年に大友家が毛利と戦っている時、大内家の家督をエサに毛利の国へ送り込まれ面識のない大内家の部下を糾合し反乱を起こした。このため九州に出陣していた毛利家は撤退し、これ以降毛利が九州を侵略することはなくなった。

 だが、輝弘は討ち取られ自刃している。

 彼の人生の大半が飼い殺し状態であり、お家復活は彼にとって唯一の存在意義だったのだろう。

 氷河期世代でブラック企業に勤めざるを得なかった今の宗麟としては他人事とは思えない。

 なので、本人さえよければ是非働いて欲しいと思った次第である。

 菊池氏を中心に集まった肥後領主にも、大内という名家の名はそれなりの権威があるだろう。

 それに「過労死するほど仕事があるのに、自殺するほど職がない」と揶揄された不況の国 日本を生きた身としてはもっと仕事を分散しておきたかった。大友家の主要人物はだいたい過労死しているらしいし。

 なので使えそうな人はどんどん採用。失業率0%のビスマルクもびっくりな国にしておきたいものだと思ったゆえの抜擢である。

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「というわけで、大内太郎左衛門尉どのなら名前は申し分がないだろう」とさねえもんが提案した通りに、名をあげた。

 はっきり言って、今回教えてもらうまで輝弘さんって名前も知らなかったが、実際会ってみたらいろんな古典を読んで教養もあったし、使者として十分にやっていけるだろう。多分俺の何十倍も。

「しかし、大内大弐(義隆)様を刺激しないでしょうか?」と山下が問う。

 まあ、現在で言えば、中国に対して台湾を国として認めると言ってるような行為に見えるかもしれない。

 だが大内家は1年後には内乱が起こる家である。豊後に攻める力は残ってない。…と思う。

 ここで輝弘さんの名を上げれば、弟の八郎くんの代わりに山口当主になれるかもしれない。

 そんな未来知識をふまえた思惑は当然言えるわけがないので

「大友は頼ってきた客人を活用する国だと、度量を見せつける機会だと思う。それに、山口で変事があったときに太郎左衛門尉殿へ恩を売っておけば、色々と便利だろう」とだけ言った。

 大友は宮崎から逃げてきた伊東氏への待遇も良くなかったみたいだし、少し薄情な家である。

 なので少しくらい待遇を良くする代わりに働いてもらうのだ。


 その言葉に家老たちの反応は様々だった。だが「大内家は内紛が起きている」という情報を知っている人間は輝弘さんの活用に賛成だったので、反対派は他国の情勢に疎いだけのようである。

 まあ、輝弘さんがこれから19年間無職で不遇を囲うとは誰も知らないので仕方がないが、俺としてはなんとか職に就けたい。


 というわけで、お目付け役をつけながら肥後の借米の返済を任せることにした。


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 以上の経緯を知らない坂梨は、盛大にむせて一分ほどせき込んでから、目の前の人物を凝視した。

 大内家といえば太宰大弐、官位は従2位。今の日本で一番大きな勢力でもある。

 輝弘はその傍流だが、名門の一族なのは立ち居振る舞いから見ても間違いない。

「大企業から使いっぱしりの新人が来るかと思ったら、専務・常務クラスの大物が来た」

 それくらいのサプライズ訪問だった。

 彼の名字に面食らっている坂梨に対し、輝弘は

「このたびは、領国の近くで逆賊が反旗を翻し大変な事と存ずる。さすれば豊後の武士たちが速やかに鎮圧するまでしばし、協力願いたい」と、名門の家らしき自信に溢れた声で告げる。その言葉には一寸も断られるとは思っていない傲慢さすら感じられる。

 その風貌に坂梨は圧倒され、丁重に協力を約束した。

 その後も色々と雑談したが、輝弘の教養溢れる言葉に負けないよう、精一杯の背伸びをしながら応対をしていると 

「ところで、お主は「唯才是挙」という言葉をご存じか?」と聞かれた。

「……申し訳ありませぬ。寡聞にして存じませぬ」

「唐国は三国の時代の魏王(曹操)の言葉でな、才能さえあればそれを活かす場を用意する人材を求める言葉じゃ」という。

 三国志の悪役と書かれる曹操は「その人が非情であるとか邪悪であるとか不逞であるとか不仁不孝であるとかはどうでもよく『ただ才さえあれば用いるぞ』」と求賢令という人材募集の命令を出した。

「そのような時代があったのですなぁ…」

 農民より恵まれているとは言え、九州の僻地で一生を過ごす事が決まっていた坂梨は夢物語のように、1300年前の天才が発した命令の感想を告げた。

「そう、そして大友の屋形殿は下剋上の世とは言え、まだまだ家格や生まれで一生が決まる世に一石を投じようとして、この求賢令を再び発しようとお考えじゃ」

「なんと!」

 そこで輝弘は、豊後で今優れた人間を求めていることや、その一環で自分も大役に抜擢されたと説明する。

「大友家当主の五郎様は、ワシにこのような大役を任せたように、人材を集めておる。「隗よりはじめよ」というように五郎様はワシでさえも目にかけてくれるのじゃ。お主や一族の中で、この国を豊かにしたいという心意気があるものがあれば、是非名乗りを上げて欲しい。とのお言葉じゃ」と気さくに人材の推挙を頼んできた。

 今まで不遇を囲っていた輝弘だからこそ、才能はあっても世に出られない人間のつらさは骨身に染みている。

 なので、その言葉は社交辞令ではない本心の言葉だった。

 九州の田舎人というのは都会の有名人とか権威に弱い一面があるため、肥後での大内氏来訪は話題となり「大友の当主は有能かもしれない」という意見も流れるようになった。優れた人物を登用し、国を豊かにすると言うのは理想の政治である。

 統治者としての風格が大友家当主にはあると認識され始めたのである。

 まさか人材不足からの過労死予防策とは思いもしなかった。

 自分の地位を守るために実家ですら見捨てた男菊池義武と、統治のために民衆をいたわるだけでなく広く人材を集める若い当主。


 外から見て、どちらが立派かは瞭然であった。


 そのため菊池側に味方しようとしていた勢力も「もしかして、俺たち立場的に悪くなってね?」と冷静になりはじめた。


 人間『自分は悪人だ』と割り切れるものではない。

 なので戦う際には名目が必要である。

 肥後の場合「自分たちの守護、菊池氏を再興する」という名目で集まったわけだが、大内はこれに便乗して攻める様子も見せず、反乱もそこまで盛り上がらない。

 おまけに官僚制度が発達している大友家は技術革新こそ難しいが、当主が不在でも国勢は滞り無いという強みがある。

 当主死亡のドサクサで肥後を取り返す。という目標は難しいようであることを肥後の領主たちは感じていた。


 さらに、止めのような政策がしばらくして行われるようになった。


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 遠藤周作氏の王の挽歌では捨てゴマとして扱われ、宗麟を「狐!」と罵倒して自害する悲劇の人、大内輝弘さん。

 今作ではなるべく幸せになる方法がないか模索していこうと思います。

 ただ、父親も当主の経験が無く、本人は山口で育った事がないというハンデがあるので、どこまで戦国に順応できるか不明ですが…。そもそも山口領主の大内への忠誠度が高ければ毛利が台頭するわけもないので、かなりハードな人生が待ってそうな気がします。

 なお、最初に『大内輝弘の輝の字は、天文23年(1554年)2月12日に足利義藤が義輝と改名しているので、その後に付いた名前です。なので、この時期は輝弘とは名乗っておらず、通称の太郎左衛門尉』とします。

 と注釈をつけようと思いましたが『謎の人物を開幕前にばらしてどないすんねん』と思いなおしました。

 投稿前に気が付いて良かったです。

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