第8話 パターナリズムの侵食
●明治民法
八七七条
子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但独立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス
父カ知レサルトキ、死亡シタルトキ、家ヲ去リタルトキ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ
十四条
妻カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ夫ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
一 第十二条第一項第一号乃至第六号ニ掲ケタル行為ヲ為スコト
二 贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ之ヲ拒絶スルコト
三 身体ニ覊絆ヲ受クヘキ契約ヲ為スコト
前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得
十二条
(前略)
一 元本ヲ領収シ又ハ之ヲ利用スルコト
二 借財又ハ保証ヲ為スコト
三 不動産又ハ重要ナル動産ニ関スル権利ノ得喪ヲ目的トスル行為ヲ為スコト
四 訴訟行為ヲ為スコト
五 贈与、和解又ハ仲裁契約ヲ為スコト
六 相続ヲ承認シ又ハ之ヲ抛棄スルコト
(後略)
●刑法
一八三条(一九四七年 廃止)
有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者、亦同シ。
(後略)
それから三人で写真を撮った。ツキミは泣いていて、二人は笑っている。なかなかいい写真だった。
その夜おばさんは死んだ。
最期の時間は、家族三人だけで行われた。
すぐに自殺衛生管理者がやってきて、おばさんの遺体を引き取っていったそうだ。
「もう一生分なんじゃないかってくらい、泣いちゃった」
後日、晴れやかな笑顔でツキミはそう言った。
「そっか」
「うん。それにしても、お母さんタフだったなー。ホントはね、だいぶ前からもう無理だって理解ってたの。だけど、わたしとお父さんのために頑張ってくれてた。最後まで、わたし達のこと、想ってくれてた」
ツキミがおばさんの最後の時を思い出しているのか、ここではない場所を見ている眼差しをして言った。
「うん。だから、もうわたしは大丈夫。お父さんがまだちょっと心配だけど」
「うん」
生前葬の帰り際に見た、生気の抜けたおじさんの顔が思い出された。
「二人は幼馴染だったんだって。すごいよね。好きな人と生まれてからずっと一緒だったんだもん」
「俺達と一緒だな」
寛が冗談めかして言う。
「好き?」
ツキミが寛を見て、小首を傾げて言う。コイツは何を言っているのだろう?と心底不思議そうな様子だ。
「おいおい、そりゃないぜ。幼馴染に対して変態を見るようなその目はやめろ。傷つく。プロポーズの返事はどうした?」
「末筆ながら、貴殿のますますのご活躍をお祈り申し上げます」
「お祈りメールやめろ。傷口を抉るな」
「あはは、打てば響くねー」
「そりゃ、誰かさんに鍛えられてますから」
「よしよし、成長がみられますな」
そう言って、ツキミは寛の頭を撫でた。寛の方がツキミより頭一個分背が高いから寛としては変な気分だった。
俺は大型犬か、と寛は愚痴をこぼしたがやはり内心満更でもなかった。
不意に、ツキミは背伸びして寛にキスをした。
「もう少し、お互い成長したらね」
慌てる寛を尻目にツキミはニマニマ笑うのだった。
だが、このような幸せな時間は急速に終わりを告げることとなった。
ツキミの父親が変質してしまったのだ。
その変化は些細なものから始まった。それまで日に一回程度も交わしていなかったチャットメッセージを毎日ツキミに送ってくるようになった。
ツキミも初めのうちは父との交流が増えて嬉しかった。大事な人を失った痛みを共有する一番近しい人だ。お互いに支えていこうと思った。
しかし、メッセージを送ってくる回数は日を追うごとに増えていった。一日に一回が二回に増え、数時間に一回、一時間に一回、三十分に一回、十分に一回と加速度的に増えていった。
ある日ツキミはスマホの充電を忘れてしまい、午前の内に充電が切れてしまったことがあった。
学校が終わって家に帰ると、いつもはツキミよりも帰りが遅いはずの父がすでに帰っていた。
「あれ、お父さん、今日は早いね。もしかしてどこか具合悪い?」
ツキミが心配してそう尋ねると、父は聞き取れないくらいの声でボソボソと何かを言った。
「えっ、なに?」
ツキミが聞き返すと、突然父はテーブルを叩き、怒鳴り散らした。
「何で、メッセージを返さなかったんだ!心配するだろ!」
「えっ、ごめん」
突然のことに、ツキミの体は強張った。温厚な性格の父に怒鳴られたことなど初めてだったのだ。
「何でかって聞いてるんだよ!答えろよ!」
「充電、切れちゃって」
「今度は言い訳か!悪いと思ったら謝れよ!」
支離滅裂だった。顔は真っ赤で、お酒も飲んでいるようだった。普段は家でお酒なんか飲まないのに、やはりお父さんの心の傷はまだ全然癒えていないんだ、ツキミはそう思った。
「ごめんなさい。今後はこういうことがないようにするね」
そう言って、頭を下げた。今日のところはこれで怒りが沈まればいい、これっきりのことだろうとそう思った。だが、そうはいかなかった。
この日を境に父の行動はエスカレートしていった。
メッセージは五分以内に返さなければ、連続して詰る内容のメッセージが送られてくるようになり、家に帰ったら怒鳴られるようになったため、授業中でも隠れて返事を返すようになった。
授業が終わったらすぐに帰宅しないと間に合わないように門限を決められた。家に着いたら必ず写真を撮って報告をしなければならなかった。
休みの日は家から出ることを禁じられた。
父の行動は母を失った悲しみから起きていることだとツキミは理解していた。だからこそ、いつかまた優しかった父に戻ってくれる、そう信じてツキミは我慢していた。
だが、日増しに束縛は強まり、酒量も増える一方だった。まともに仕事ができるわけもなく、会社はクビになった。
ツキミは話し合うことにした。何より父の体が心配だったからだ。
しかし、反応は散々なものだった。なにを言っても父は怒鳴り散らすだけで、まともに話すことは出来なかった。それどころかコップを投げつけ、子供のように癇癪を起こすのだった。
「ふざけんなよ!ここまで育ててやったのに、口答えすんのかよ!俺を敬えよ!俺は父親だぞ!お前は娘だろうが!」
近年制定された新家族法により、まるで戦前の男尊女卑、家父長制的風潮が強まっていた。その背景もあり父はますます居丈高、支配的になっていった。それは父の心の空隙を埋めるかのように入り込んでいった。
「いいか、女はな、子供を産んでようやく一人前なんだよ!だからお前は半人前も良いところだ!そんな生産性のかけらもないやつがお父様に口答えするなんて百万年早いんだよ!」
ツキミはよっぽど何か言い返してやろうかと思ったが、在りし日の優しかった父の姿が忍ばれて憚られた。ツキミはとにかく父を責めたくなかった。なぜなら、父がずっと母を救えなかった自分自身を責めていたことを知っていたからだ。
母は確かにガンが発覚した最初の段階で最新の先進医療を施していれば、まだ生きながらえていただろう。しかし、そのための費用は巨額に過ぎた。たとえ親から引き継いだ家、土地、持てる私財のすべてを売り払っても足りることはなかった。なぜなら、先の世界恐慌、高齢化と自殺薬及び排撃的な移民政策の果ての人口減少により、不動産を含む庶民の私有財産は二束三文の評価額となっていたからだ。これでは数回分の投与額しか賄えず、意味がなかった。
つまるところ、父にはどうしようもなかった。しかし、その無力感故に父は自暴自棄になり、酒に溺れ、見境をなくしてしまった。
ツキミは容易に寛に頼ることをしなかった。最初のうちはすぐに優しかった父に戻るだろうと信頼していたから、心配をかけたくないと思った。しかし、父のツキミに対する圧迫が強まるに連れて、迷惑をかけるのではないか、それどころか父が寛に危害を加えるのではないか、というところにまで考えが及んだ。それはツキミの中で最も強い恐怖となった。だから、全力でツキミは平静を装った。
ちょうど高校三年生に上がり、受験の時期だったから都合が良かった。お互いに勉強に集中しましょうという言い訳が立つからだ。顔を合わす回数を極力減らし、家に即帰宅しても不自然ではなかった。時折移動教室の時などに二人きりで話せたりすると、お腹に溜まっていた錘が軽くなる気がした。
だが、ふと校舎の窓から、寛がクラスメイトと楽しげに話す姿などをたまたま見るにつけ、自分と寛の世界が隔絶されている感覚に陥るのだった。
ツキミもまた、自由を制限され、日々恫喝され、摩耗する毎日を送る内に心の平衡感覚を失っていった。
しかし、希望がないわけではなかった。大学を受験し、志望校に受かったら寮にでも入って、一旦父と距離を置こうと考えていた。お金がないから学費全額免除の特待生を狙い、生活費はバイトで稼ぐつもりだった。近年では特に狭き門なのはわかっているし、甘い考えだという自覚もあった。それでも今はその希望にすがるしかなかった。
だが、その希望はあっさりと父の手によって潰された。それも考えてもいない最悪の方法でだった。
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