慣習的レジャーフライト
「ケンダルスヒルの本来の用途は何だと思う?」アラドヴァルから降りたところでディアナが訊いた。
「飛行訓練ですか」カイは答えた。
エレベーターで中層に上がってきた時、飛行機が格納庫の中に詰め込まれているのを見た。ほぼ全部練習機だった。下層を野戦病院にしているのでもともと下に置いてあった飛行機もこっちに退避してきたのだろう。
「当たり。ここでは初等及び中等飛行訓練を行っている。下士官も士官候補も分け隔てなく」
「士官学校はインレにあって、スローンに移すって話でしょ」
「教育課程がひとつの島で完結するってことはないわね。飛行訓練は別の島でやるのが普通。どうしても人口過多で手狭になるから。――じゃあ、スピカ、6時までには家に送るから」
「はいはい、よろしくね」スピカはアラドヴァルを取り囲む警務兵たちの輪の内側に残った。
「初等はプリムローズ、中等はジュノム」カイは格納庫のシャッターをくぐったところで改めて屋内を見渡した。「初等過程で空を飛ぶ感覚を学ぶ。だからプリムローズはエンジンが弱い。翼面荷重も100キロ以下。すぐ浮かぶし、風にも煽られる。中等課程ではジェット機を飛ばす感覚を学ぶ。ジュノムはダクテッドファンだけど飛行特性はほぼジェット機。舵を切れば機体が流れるし、反トルクはない」
「高等課程は作戦行動。アネモスの複座型を使って編隊飛行と戦闘機動、火器管制システムの習熟を行う。機種によっては中等から練習機も変わるけど、士官校はまず戦闘機コースだから。って、カイくん、誰かに聞いたの?」
「そうか、教本に書いてあったんだ。古い版だろうけど、家にあって」
「ああ、そういうことか」ディアナは合点した。
ヴィカから父の話を聞いたのだろう、とカイは思った。そのくらいの情報共有はしていたって何の不思議もない。
「一応機密書類だから、誰かが適当に捨てたんじゃなくてよかった」
「タールベルグは紙パルプはやってませんよ」
ディアナは整備員の待機室を当たって借りられる機体がないか尋ねた。この島のもともとの兵士たちは野戦病院の運営に駆り出されているか休暇に入っているのだろう。当直らしい若い整備員が1人だけだった。彼は管理用のPCで暇つぶしのゲームをしていて、ディアナを見上げるとしばらく口を開けてポカンとしていた。微妙に体を揺らしているのがいかにも
「B整備明けのプリムローズとジュノムが1機ずつ。テストフライト名目なら上げられます」と彼は答えた。
「じゃあ、ジュノムを。E9空域のフライト申請を出せる?」
「仕事ですから」
と言いつつ、返事が復唱や「了解」ではないのは彼もこれが公私混同だというのをわかっているからだろう。グレーな慣習なのだ。
用語はわからないけど、B整備は定期整備のこと、E9というのは訓練空域の区画の名前だろう。
「着陸は3時間後」とディアナ。
「スーツも貸しますよ。できるだけ綺麗なやつ」
「ありがとう」
「その間に燃料を入れておきます」
彼は手早くフライトプランを入力して、サイン用のタブレットをディアナに手渡した。
ディアナは静電ペンでサインを入れ、襟の内側からシリコン製の認識票を取り出してタブレットの電磁センサーに読ませた。フライトプランのデータは当然管制局まで飛んでいく。そこにディアナのサインがあるのだから、この島の所属ではないパイロットがテストフライトを行ったのは丸わかりだ。グレーな慣習はローカルなものではない。軍部公認というわけだ。
服を脱いでストレッチ素材のインナーと耐Gスーツ、ライフジャケットを着込む。防犯のために更衣室が施錠してあったので宿直室を借りて背中合わせのような具合で着替えた。
いや、カイとしてはスーツの着方を教えてもらいたかっただけなんだけど、まるで「お互い様でしょ?」とでも言うみたいにディアナも平然と脱ぎ始めたんだ。決してこちらを向いて見せつけてくるわけでもなかったし、かといって恥らっているわけでもなかった。カイとしてもそれにとやかく言うほどウブだと思われたくなかったし、何より見ていいなら目に入れたくないものでもなかった。
なんとなくアルルのことを思い出した。彼女はいつも「暗くして」「明かりを落として」と言う。あまり見られたくないのだと思う。その点、ディアナは自分の体に本当に自信があるのだろう。だから恥ずかしくないし、あえて見せつけなくてもいい。「見られる自分」を作らなくていい。
「あなただからですか」カイは訊いた。
「って?」ディアナは少しだけ手を止めた。
「軍用機の私的利用が許される」
「違う違う。王族だからでもない。出自に関わらず、軍人なら、誰でも。それに、許されてるんじゃない。黙認されてるだけ。規律を逸脱しない範囲なら個人の利に供しても構わない。それは特権ではない。資格なの。この国では軍人になるのは決して狭き門ではないし、かといって飛行機は無制限に乗り回していいものもない。ルールがないのは危険だけど、勝手を知っている人間なら抜け穴を探すのは構わない、という慣習」
「慣習、ですか」
「ルフトという国はたぶんそういった
「だとすればディアナはむしろルフト的な性格に思える」
「そう?」
「脱獄の一件で、天使の扱いには規律を求める姿勢なんだって」
「意味のあるルールの意味のある部分は順守する、それだけ」ディアナは肩を竦めた。
案外柔軟性のある人間なんだな、とカイはその仕草を見て思った。
「ちゃんとテストもやるんですよね?」
「もちろん」
ヘルメットとジェットパックを担いで格納庫に戻ると、若い整備兵はジュノムを外に引き出しておいてくれていた。人力牽引用の台車を前輪から外すところだった。
カイは機首側面から細いタラップを引き出して足をかけ、コクピットに手を突っ込んでアクセサリースイッチを入れた。操縦桿を動かして舵の動作を確かめる。
「慣れてるね」整備兵が言った。「君の方が操縦か。それならこいつを頼む」
カイはテストフライトのチェックリストを受け取った。小さい紙挟みがついていて、フライトスーツの腿にあるプラスチックのレールに嵌め込むことができた。取るべき機動や航法装置の操作などが書かれていた。
ジュノムはタンデム複座で、操縦装置は前後両方についているが基本的には前席で操縦する。ディアナは後席に滑り込んだ。
整備兵が拳を回してエンジン始動の合図。カイはイグニッションスイッチを回し、スロットルを少しだけ開いてスターターボタンを押した。高圧タンクに貯め込まれていた圧縮空気がエンジン内に吹き込んでタービンをぶん回す。燃焼室に火が入ってエンジンが自力で回り始める。スロットルをアイドルまで押して、あとは回転数が落ち着くまでブレーキを踏んで待つ。
操縦桿とスロットルレバーの上に手を置き、シートに体を預ける。この感じ、計器の並び、ボンネットの高さ。知っている。エンジン音と背中から伝わってくる振動だけが違う。
「この機種、初めてでしょ?」ディアナが後ろからヘッドレストに顔を近づけて訊いた。
「初めてだけど、初めてじゃない」カイは答えた。「ナイブスはジュノムのスクラップからの改造機だ。エンジンを乗せ換えて、尾翼を移設して」
「ナイブスって……ああ、あなたの飛行機。どうりで扱い方がわかるわけだ」
カイは頷いた。
ディアナは無線で管制塔を呼び出してタキシングの許可を取った。整備兵に挨拶、アラドヴァルを避けて駐機場の端から滑走路に出る。
離陸から針路を決めるまではディアナの指示に従って飛んだ。あとはひたすら西へ。やや北寄りの風があって機首を右に傾けつつの飛行になった。
「なぜ連れ出したんです」カイは訊いた。交信が落ち着いてきたからだ。
「気晴らしになる」
「操縦ならメロやプープリエもやらせてもらいましたよ」
「この機体なら曲芸もできる」
「あなたを乗せたまま?」
「私だって飛行過程を出た軍人なんだけど」
「戦闘機のですか」
「当然。戦闘機をやれないような王族は軍人にはならないわ。輸送機やヘリのコースに回されたらそれこそ恥さらしよ」
「その言い方は輸送機とヘリを愛するパイロットたちに失礼だと思うけど」
「私じゃなくて、軍人にならない王族やゴシップ誌がそう言ってるのよ。とにかく後ろは気にしなくていいから」
航法ディスプレイ上で訓練空域に入ったのが確認できたのでカイはマニューバを始めた。
ジュノムは癖のない飛行機だった。ロールはパイロットの目の間にきちんと軸が通っているし、操縦桿を戻したところでぴたりと止まる。宙返りも背面で舵の感触が変わらない。強いて言えばエンジンの応答性が悪いことくらいだった。
10分ほど全力で振り回したつもりだったけど、ディアナは平然としていた。さっきの話は嘘ではないようだ。
「平気ですね」カイは褒めた。
「満足した?」
「……? まだ40分も経ってない。どこか向かう場所があったんじゃ」
「え?」
「3時間。そう言ってた」
「ふうん。きちんと聞いているし、憶えている。空中でも冷静さを欠かない」ディアナは少し残念そうに言った。「針路280、あの山脈を越える」
機首はすでに西を向いていたのでやや右に舵を切った。山脈、といっても実際は標高1500m程度の低い山地で、高度そのままで飛び越えることができた。
30分ほど飛んでなだらかな盆地の中に見えてきたのは1基の工業島で、甲板の上に色とりどりのエア・パイロンが立ち並び、その周りを小さな機影が虫のように飛び回っているのが見えた。いささか雲がかぶっているが、それでも十分目立つ色彩だ。明らかにレース場だった。
軍事島以外では珍しい構造だが、上層にも立派な滑走路があり、島外からの一般機はそちらに着陸するようだ。訓練空域に隣接しているのでトラフィック管制からのハンドオーバーはない。島ごとに割り振られた周波数を確認して直接タワーに呼びかけるのが筋だ。
が、どんどん接近しているのにディアナは全然無線を開かない。もしかして自分に任せようとしているのかと思ってカイは左手でシートの下を探った。
「ああ、そのまま進入していいわ」とディアナ。
「え?」
「それがここケネシスの決まり。緊急でもなければ無線は使わない。わかってない客は追い返される。路面凍結だとか、異物だとかいってリジェクト」
「一見さんお断りだ」
「そう」
軍用機なら滑走路の上を一周してからアプローチに入るのが基本だが、特に指定がないということは自由にやっていいのだろう。高度を下げてダイレクトアプローチで着陸した。
駐機場には種々の飛行機が並んでいた。大半は民間向けのレジャー機だが、どう見ても現役のアネモスが2機混じっていた。その他軍用機もちらほら。ジュノムなんかむしろ目立たない方だ。
駐機スポットに入ると艶のあるコートを着た地上員――というか恰好からしてもはやボーイだ――が2人駆け寄ってきて車止めを嵌め、台車付きのタラップを横付けした。ハンドルをぐるぐる回してジュノムのコクピットに高さを合わせる。
コクピットの壁を跨いでいきなりしっかりした足場に足を下ろすのはそれはそれでなんだか違和感だった。カイはさっさと甲板まで下りてしまったが、ディアナは上の段でヘルメットを外し、手摺が切れる最後の段でボーイに手を差し出した。タラップの横で待っていたボーイはすかさずその手を下から受けて支えた。
カイは感心した。ディアナは決して面倒をかけているわけではない。彼らに彼らの仕事をさせることによってあえてその存在を肯定しているのだ。さすがの振る舞いだ、と思った。
それと同時にこの島の格式が理解できた。おそらくこの島の客たちにしてみればベイロンの文化も「庶民的」の範疇だろう。
「エトルキアにもこんな島があったんだ」
「ベイロンとは違うでしょう? ケネシスには街はない。飛行機以外の遊行もない。限られた人間だけが知っている孤島だった。ただ、ベイロンが正式に西側にも門戸を開いたことで、こっちの事情も少し変わってきている。真剣にレースをやろうという人間が増えてきて」
上層には格納庫はなく、空港のようなエントランスがあって中のカウンターで人が待っていた。高級感はあるが、黒が基調で、ベイロンに比べるといささか裏っぽいギラつきを感じた。
「シアンを1機、あと私の飛行機を出してもらえるかしら」ディアナはコンシェルジュに声をかけた。ベストを着た痩せ型の40くらいの男だった。そういえばベイロンにもこういった衣装の手合がいた。
「只今。ハンガーへどうぞ」
すかさず左手にあるエレベーターのドアが開いた。王座の間みたいなドアだった。
「なぜ上層をエントランスにしたのかわかる?」ディアナはヘルメットをコンシェルジュに預けてケージに乗り込んだ。
「滑走路があるからでしょう」とカイ。
「それは後づけ。エレベーターで下りている間に飛行機の準備ができるでしょ」
「そっちが先ですか」
ディアナの言った通り、ケージが止まって扉が開くとほとんど目の前に2機が用意されていた。
シアンというのはどこかで聞いたことがあるなと思ったけど、長距離周回向けのレース機だ。名前はともかく姿を見て思い出した。いかにも機首の重そうな2000馬力級の空冷レシプロ機で、プロペラは大判4翅、どことなくベレットに似ているがもう少しスマートだ。塗装はなぜかグレーとグリーンの迷彩だった。
対してディアナ機は全くの初見で、翌面積を抑えて大きなエンジンを積んだ構成はシアンと同じだが、エンジンは液冷で機首が尖っていて、プロペラは5翅、しかも左回転用にピッチが切ってあるという妙なものだった。塗装はかなり薄いブルーグレイでほとんど白。偵察機みたいな装いだ。やはりレース的ではない。それでいて排気管の後方にほとんど煤がついていなかった。フライトのあと毎回拭いているのだろうか。綺麗、というより神経質な感じがした。
格納庫の中には他にもそういったよくわからない特徴を持った飛行機がたくさん並んでいた。まるでショールームみたいに整然と並べてある。上層の駐機場でも十分なバラエティだったけど、なんというか、この空間は突き抜けている。
「これはすごいな」カイは思わず呟いた。
「そう、そういう素直な反応を待ってたのよ。やっといい顔をした」ディアナはそう言って革の飛行帽を差し出した。
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