ペトラルカの関心

「じゃ、そろそろひとつ見せてもらおうかしら」ペトラルカは空になったティーカップを自分の方に引き寄せて腰を上げた。

「見せる?」ラウラはペトラルカの顔を目で追いながら聞き返した。

「問題はあなたの奇跡……いや、魔術が、だ、魔術が奇跡に見えるかどうかなんだ。まあ、ジリファも本物の天使だと勘違いするくらいだからわざわざといえばわざわざなんだが、せっかく目の前にあるものを確かめないのもね」

「やぶさかじゃないけどね、下手してショボいものを公衆の面前に晒したら立場が危ういんじゃないかな」

「そういうことなら心配ないわ」ペトラルカは上着を肩にかけ、ガラス戸をバーンと押し開けてバルコニーに出た。

 ラウラも翼を装着してあとに続いた。すぐ右手に塔の白い外壁が迫り、下には一段低い甲板の上の屋根屋根が連なっていた。バルコニーの欄干は一部がフェンス戸になっている。そこから外へ飛び出せるわけだ。サンバレノらしい建築だ。

「来なさい」ペトラルカは欄干の外に飛び出し、2対目の翼も広げて力強く垂直上昇していく。

 さすがにそれは真似できないな、と思いつつラウラは水平に飛び出した。振り返ると内開きのフェンス戸が勝手に閉まっていくのが見えた。ヒンジに細工がしてあるのだ。

 ペトラルカはぐいぐい上昇し、聖堂の切り立った三角屋根の上に着地した。ラウラはループ橋に乗るような気持ちでぐるっと旋回しながら高度を上げ、ペトラルカの横に降り立った。

「まだまだ非力ね」とペトラルカ。

「まだ? 鍛えて良くなるようなものじゃないけどね」


 屋根の棟は意外にも3mほどの幅があって歩く分には滑落の不安を感じないくらいだった。材質はスレートに似ている。身廊と交差廊で十字型をなす棟の交点にサボテンのような丸みを帯びた尖塔が突っ立ち、先端を見上げようとすると平衡感覚が狂ってひっくり返りそうだった。

「魔術でも空間識は強化できないか。可愛いものだね」ペトラルカは笑った。「聖堂の上には民家はないわ。下からの目は届かないし、空からじろじろ見られることもない。さあ、見せてごらん」

 確かに塔上層の外壁はかなりのっぺりしていた。塔の立地がそもそも高地だし、中層とはいえ低地に建つ塔の上層レベルだろう。空気はかなり冷たい。

 ラウラは尖塔に向かって右手を伸ばした。

「ラーフュール」

 小声で唱えると手を伸ばした方向に大気の揺らぎが走り、20mほどの距離で人間がすっぽり収まるくらいの火球が生まれ、花火のように爆ぜた。衝撃波が頬を打ち、髪を煽り、「ドンッ」という低音が塔の外壁に反射して響き渡った。

「いい威力だね」ペトラルカは腕を組んだまま言った。「パワーズ相当の力だ」

「パワーズ、中位の天使かい?」

「天使位階第6位。エクシアともいうけど、どういうわけだかパワーズといった方が通りがいいわね」

「9分の6、思いのほか上だね」

「アークエンジェルの人口比でいえば上から3分の1くらいにはなるかしら」

「せいぜい7か8だと思っていたけど」

「あなたは自分の姿を変えたわ。それだけ見れば第3位スローンに列しても構わない」

「まさか」

「嘘じゃないわ。ただ、それが明らかに道具の機能である、という点を除けば、ね」

「位階の要件というのがわからないね」

「パワーズの場合、自分の体から離れたところで現象を操作できればいい」

「簡単すぎる。今の火の玉くらい、ある程度の魔術師なら誰でも扱えるさ。上から3分の1なんてものじゃない。魔術師を天使の尺度で測るのは無理があるんじゃないかな」

「一理あるわね。原理が違うのだから、魔術と奇跡では得手不得手が異なるのも当然だ。ただね、位階というのは格付けだと思われがちだけど、特性の分類でもある。パワーズの条件で言ったように、低位のプリンシパルとアークエンジェルは接触式の奇跡しか使えない、ということになるわけだけど、それでも有能な天使は多いわ。戦わせてみればパワーズより強い、というのもざらにいる」


「じゃあなぜそこに序列が生じたんだろうね」ラウラは訊いた。

「傾向よ。より高位の天使はより低位の天使の条件を満たしていることが多い。そしてより多くの条件を満たせる天使は数がそう多くはない」

「希少性に基づくピラミッド構造、か」

「そしてそのほぼ頂点にいるのがこの私というわけさ」

「ああ、うん」

「ある意味では典型的な高位の天使と言えるだろう。」

「それから、相当という表現には説明が必要でしょうね。それはあなたが人間だからつけたわけじゃない。位階というのは全てセラフによって正式に認められる。私程度が判断したものは仮のものに過ぎない。天使でもセラフに認められるまでは『相当』だからね」

「それは知らなかった。私もセラフに謁見することになるのかい?」

 ペトラルカは首を横に振った。

「たぶん見破られるし、彼女は私ほど人間に寛容でもない。まあ、どうしてもと言うなら別だが」

 ラウラは首をひねった。興味はあるが危険を冒すほどのことじゃない。

「それに、『相当』でもさほど不便はないでしょう。ケルヴィムにもそのくらいの権威はある」


「それで、今の魔術だけど」とペトラルカ。

 ラウラは袖を捲った。手首の内側に杖を固定するためのホルダーが巻いてある。

「さっきは着けてなかったわね」

「使う時だけ着けるようにしてるのさ。こういう使い方はあまり好きではなくてね」

「ふうん。どういう使い方が好みなのかしら」

 ラウラはホルダーから杖を抜いて手で構えた。

「普通に、こういうスタイルさ。最近は奇をてらった触媒も多くてね、いささか辟易へきえきとしているのさ。背中のこれも、まあ、その類だが、不本意だね」

「古い童話の魔法使いみたいに?」

「もとよりそういうイメージで作られたのが触媒としての杖さ」

「いいわね、憧れるわ」ペトラルカは自分の人差し指を杖に見立ててバレリーナのようなポーズをとり、「ヒビデ・バビデ・ブゥ」と唱えた。

 残念ながらそういうスペルは聞いたことがない。ラウラは杖をホルダーに戻した。

「ところで、魔術というのは声に出して発動するものではないの?」

「そう。出したよ」ラウラは襟を少し開いた。舌の付け根の骨に円形の振動マイクパッチを貼り付けている。「これで音を拾うと、血中魔素が杖まで信号を届けてくれる」

「なるほど。骨伝導だから他人が近くで騒いでても妨げにはならないのね!」ペトラルカは顔を近づけて大声で言った。「でもそうするとある程度の声量を出した時に信号が重複しない?」

「……なかなか鋭いね」

「ふふん、こう見えて魔術のことは結構好きなのよ」

「悪いけど、そのプロセスは説明がなかなか大儀なんだ。今度にしておくれよ」ラウラは秘密にしておくことにした。

 ペトラルカが魔術について知りたいなら、あとあと何か秘密と交換できることもあるだろう。いきなり洗いざらい話してしまうのは悪手だ。打算的に考えた。


「声だけで制御するのよね。そんな小声で、少なくとも距離と規模は定めなければならない。まさか、固定ってことはないでしょう?」ペトラルカは屋根の端には戻らず、尖塔を半周して扉を開けた。こんなところにも扉がある。ラウラは促されて中へ入った。

「それが、できるんだ。触媒は愛用者の声をとても細かく聞き分けている」

「杖の方が聞き分けても、魔術師の方が毎回全く同じようには発音できない。違う?」

「そういったゆらぎも含めて杖は学習するのさ」 

 尖塔の中は内壁に沿って頼りない螺旋階段が設けられているだけでほぼ完全な吹き抜けだった。聖堂ど真ん中の床まで100mくらい切れ落ちている。が、ペトラルカは何の躊躇もなく飛び降りた。ラウラも後を追ったが、思わず一瞬目を瞑ってしまった。すぐに翼を広げて減速、旋回しながら緩降下に移る。ペトラルカは4枚羽で器用に羽ばたいてラウラのほぼ真後ろについた。

「その微妙さは扱いにくいね。奇跡と同じだ。奇跡は体の一部だけど、それゆえにいつも同じ強度で発動するのは難しい。せっかく道具なのだから、カチッとダイヤルを合わせてボタンで発動って方が扱いやすいでしょ」

「そういう志向の派閥もあるね。しかし少なからず人間はそのダイヤルとボタンに煩わしさを感じてきたのさ。そのルサンチマンの化身が杖さ。願わくば己の心を読んでくれと願いながら杖を育てる。かくいう私もそのゆらぎをたっとしとなす一派でね」

「奇跡寄りの魔術派閥か、面白い」

「へぇ。天使っていうのはもっと魔術のことを見下しているものだと思っていたね、私は」

「普通の天使はそうでしょう。ああ、普通っていうのは自虐的ね。天使教会アンジェリカンの連中は、という意味。私はそうは思わない。魔術と奇跡というのは、力の依り代を道具に委ねるか、それとも肉体の中に取り込むか、進化の方向性の違いでしょう」

「進化の方向性……」

 ステンドグラスを透過して赤や青に色づいた光が聖堂上部の空間を満たしていた。室温も高くぬくもりがある。その彩色の中を旋回しながらゆっくりと降下して内陣に戻る。光を背にして聖堂に降臨する天使。下から見ればこれこそまさに天使の姿だろうな、とラウラは思った。

「ジリファ」とペトラルカは呼んだ。

 聖堂の床の上にジリファが姿を現した。まるでずっとそこにいたかのような佇まいだったが、どう思い出してもそこには誰もいなかったはずだ。

 ペトラルカとラウラは内陣に降り立つ。ジリファは近くまで歩いてきてラウラに対してきっちりと一礼した。

「その節はありがとうございました」

「いいえ」

「ジリファ。こうしてきちんと顔を合わせるのは初めてでしょう。こちらはラウラ。しばらく滞在してもらう。私の見立てではあなたと同じパワーズ。仲良くしてあげて」

「よろしくお願いします」ジリファは首元に指を当て、膝を曲げて少し腰を落とした。サンバレノ式の挨拶だろう。ラウラも倣った。

「そういえばもう1人会わせなければならないわね。ジリファ、あなたも来る?」

 ペトラルカが訊くとジリファはこくりと頷き、メガネを直した。

「案内します」


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