アークエンジェルとエンジェル

 フォート・サン=ジェルマン・インレに上陸するのはギネイスとキアラの脱獄以来だ。最下層の格納庫から構内に入ったところで「何だか薄暗いな」とクローディアは感じた。錯覚ではない。明らかに天井の照明が減らされていた。

「なんだかひっそりしてない?」

「電力供給は以前の6割程度。もともとまともな軍事塔の8〜9割だったもの。施設局は中枢機能の移転を決めたわ」ディアナは人気のない通路を進みながら答えた。

「移転?」

「スローンを復元して参謀本部と士官学校を移すの。といってもまだ手をつけていないから、近場の基地に間借りしているのが現状なんだけど」

「復元、なんて、そんなことができるのか……」カイが呟いた。

「祖国の技術力を信じなさい」

「東部の辺境暮らしじゃ信じようがないでしょ。別に祖国感もないし」

「まあ、近いうちに現場を見せてあげるから」

 ディアナは通路の突き当りでエレベーターを呼んだ。ケージはちょうど待っていて、すぐに扉が開いた。やはり他に使う人間がいないのだろうか。

「参謀本部と士官学校……、じゃあ監獄はそのままなのね」クローディアは訊いた。

「おそらく」ディアナが答える。

「6割って、全部原子炉でしょう?」

「そうね。予備の火力発電もあるけど、原子炉でトラブルがあった時用。まず動かさない」

「前までギネイスの奇跡で回していたわけで、天使のアドクラフトってそんなにパワーがあるものなのかしら」

「確かに、発揮できる熱量そのものが原子炉より大きいとは私にも思えない。思えない、というのは、アークエンジェルのラディックスがどれほどのエネルギーを蓄えることができるのか、フラムが持っているエネルギーをどう計測したらいいのか、その手段がまだ私たちにはないから」

「憶測?」

 ディアナはくるりとこちらに体を向けてケージの内壁に手を当てた。

「何かが動いてる、生きてるって、わかるでしょ? 音や振動が生じる。天使の奇跡にはそれがないの」

「エネルギーのロスがない?」

「ない、ゼロ、というのは受け入れがたいわ。だから、おそらく『極めて小さい』」

「原子炉とは効率が段違いってこと?」

「原子炉の場合、核分裂のエネルギーを熱として取り出すことしか意図していない。それも、水を沸騰させてその蒸気でタービンを回すという、2重3重に間接的な方法を使っている。音や振動、光だって漏れるし、そもそもプラントが熱くなる。結果、電気を取り出す過程で5割以上のエネルギーを無駄にしている」

「5割……。100パーセントならほぼ完全にこの塔の電力需要を満たせるのね」

「それは原理的に無理よ。エネルギーを変換する以上、間に機械的な動きが挟まる。その仕組みを動かすのにもエネルギーは消費されてしまう。例えば、回転運動の向きを変えるのだって、歯車を噛ませなければならないでしょ。歯車を回すのだってエネルギーよね?」

「ああ、そうか、奇跡の効率がいいって、直接電気を生み出しているから」

「見かけ上は、ね」

「見かけ?」

「天使が体の中でどんな変換をやってフラムを電気に変えているのかがわからないのよ。熱や振動が漏れてこないは確かだけど、観測できない他のエネルギーに変わっているってことも考えられるでしょう」

 クローディアは天使の体が震えたり光ったりしているところを想像した。ちょっと可笑しかった。

「変換効率が悪い、と思わせる要素がないのよ」ディアナは腰に手を当てた。

 そういえば彼女は最初に会った時と同じ白い軍服だった。見た感じ新調したもののようだ。

「いずれにしても、厖大なエネルギー量を抽出できることには変わりないのね――」クローディアはそこであることに気づいた。「あれ、私も電気出せるな……」

 エレベーターの電光表示を見上げた。ケージは上層に向かっている。行き先は基底層ではない。

「煉獄に閉じ込められると思った?」

「違うでしょ?」

「もちろんそんなことはしないわ。する必要がない。君は敵性のアークエンジェルではないもの。我々の制御下にあると言える」ディアナは言いながらカイの遠い方の肩に手を回して横ざまにぎゅっと抱き寄せた。

 カイは反応に困ったらしく真顔のまま斜めになっている。

 つまりディアナは「カイに何かあったら困るなら言うことを聞いてなさいよ」と言いたいわけだ。

 クローディアはいささかムッとしてカイを見つめた。

「いや、俺を睨まれても……」


 ケージは中上層まで上った。インレに戻ってきたのはディアナのメイドのシピを治療するためだ。脱獄の時に崩落に巻き込まれて酷いケガを負ったことと、そのケガの程度まではクローディアも説明を受けていた。

 ディアナは病院区画を通ってシピの病室の扉を開けた。

 微妙な刺激臭が鼻をついた。嗅ぎ覚えがある……、ああ、トイレの匂いだ、とクローディアは部屋の中に入りながら気づいた。

「シピ?」ディアナが呼んだ。

 が、ベッドの上には薄い布団と患者の姿勢を固定するための硬い枕が残されているだけでシピの姿がない。彼女は床の上にうつ伏せになっていた。単にベッドから落ちたにしてはちょっと距離がある。壁際のチェストの方へ這って向かおうとしていたようだ。

 シピは左手と両翼を床に突っ張って体を起こした。その様子で右腕と脚に全然力が入らないことが窺えた。妙にだらんとしているのだ。

「何やってるの」ディアナは駆け寄ってそっと抱え起こした。

「何でもありません」

「なんでもないのにベッドから落ちる――」

 ディアナは何かに気づいた。

「替えてもらえなかったの?」

 シピは首を横に振った。

「嫌味を言われた?」

 首を振る。

「態度が悪かった?」

「自分で替えたかったんです」

「なぜそう思ったかが問題なのよ。せめて骨がつながるまではそんなに体の自由が利くはずないじゃないの」

「はい……」

 ディアナはシピが続けて何か言わないか少し待ってから溜息をついた。患部に負荷がかからないように持ち上げ、ベッドの上に寝かせる。布団が邪魔になったり爪先が変な向きでついたりしないようにカイが手伝っていた。

 ディアナは何の躊躇いもなくシピの浴衣を脱がせ、オムツを外した。一瞬ですっぽんぽんだ。シピは「あっ」と恥ずかしそうな声を出したが、もう遅かった。カイも慌てて背中を向け、顔の横に手を立てて視界を狭めたまま扉の方へ歩いてきた。

 が、クローディアは逆にシピの体をまじまじと見てしまった。

 背中には背骨を矯正するための黒いボルトが埋め込まれ、その頭同士が分厚いプレートでガチガチに固められていた。しかも腰回りは単に骨折しているだけではなかった。皮膚と肉がかなりごっそり削られ、その上に応急的に巨大な傷パッドが当てられていた。傷パッドの下でまだ体液と膿が染み出しているのが透けて見えた。ボルトの本数こそ少ないが、骨盤と右肩も同じように固定されている。まともに動かせるのが左腕と翼だけだったのだ。

 トイレに連れて行かれるのを拒んだのか、どうにか自力でオムツを取り替えようとしてさっきの状態になっていたのだろう。

「すみません……」

「いいから。気にしないの」ディアナはウェットティシュでシピの陰部を拭い、新しいオムツを穿かせ、自分の手を綺麗にしてからギプスの巻かれたシピの頭を優しく撫でた。

「クローディアを連れてきたわ。治してもらいましょう」

 シピはディアナを見上げ、すぐにまた視線を伏せた。

「嫌です」脅迫されたような答え方だった。

「嫌? どうして」

 シピは少し頭の位置を直してクローディアに目を向けた。

「どうしても奇跡が必要ですか?」

「普通の外科手術ではいくら足掻いても限界がある。前も説明したでしょ?」

「……はい」

「言うこと聞いて。あの子の治療を受けなさい」

 シピは何かをぐっと我慢しながら頷いた。

 ディアナが振り返る。こっちへ来て、というサインだと理解できたが、クローディアは動かなかった。

 ディアナが歩いてくる。

「いつもこんな反抗的なの?」クローディアは耳打ちで訊いた。

「そんなわけないわ。いい子なのよ」

「ご主人様には言いにくいことなんでしょ。2人にしてもらえる?」

 ディアナは少し渋ってから頷いた。カイが扉を開け、ディアナを待って2人で出ていく。


 クローディアは内鍵をかけてベッドの横まで歩いていった。その間シピの青みがかったグレイの目がクローディアの顔をじっと捉えていた。処刑者を見るような目つきだった。

「なぜ嫌なの?」

「言いたくありません」シピは閉まった扉に目を向けた。まだディアナが聞いていると思うのだろう。

 クローディアは部屋の隅から丸椅子を持ってきてベッドの横に置いた。できるだけ顔を近づける。

「治したくないってわけじゃないんでしょ?」

「なぜエンジェルなんかのために奇跡を使わなければならないんだって、あなたは思わないんですか」

 シピはエンジェルだ。奇跡は使えない。そうでもなければこんな監視の緩い場所にいられるわけがない。

「特に、思わない」いろいろ考えたがクローディアは結局一言で答えた。

「本当に?」

「うん」クローディアはまだ考えながら頷いた。それから翼を広げて指で差した。「私はサンバレノの天使ではないわ。この色の翼の天使がサンバレノの文化では育たないでしょ?」

 シピは少し驚いた。今までクローディアの黒い翼が全く目に入っていなかったようだ。

「私はエトルキアの天使です」とシピ。

「生まれが?」

「いいえ。この塔の監獄にいるエンジェルたちと同じように、私も捕虜でした。ディアナに拾い上げてもらえてよかったと思っています」

 なるほど、とクローディアは思った。今までサンバレノのエンジェルと接触する機会はほとんどなかったけど、あの国にはアークエンジェルのエンジェルに対する差別意識もあるのだろう。この少女はたぶん軍隊で感じの悪いアークエンジェルに散々いびられて実体験としてアークエンジェルを嫌っているのだ。ディアナに拾われてよかった、というのは、つまり、煉獄で痛めつけられるアークエンジェルの姿が見られてよかった、という意味だろう。

 まだ収監されているエンジェルの中にもおそらくそういった意識が蔓延していて、あえて組織的な脱走を試みよう、というモチベーションが高まらなかったのだ、と理解できた。アークエンジェルの収監条件は劣悪だが、エンジェルの方はそうでもない、とカイは言っていた。

 自分は奇跡を取り戻した。が、それによって虐げられる立場から嫌われる立場に移ってしまったわけだ。


 クローディアは考えながらシピの左手を握っていた。薬指と小指の骨が砕けていた。治癒の術式は指先の感覚の延長だが、かなり視覚的に捉えられる。柔らかい砂の中に手を突っ込んで何が埋まっているのか手触りだけで当てるゲームに似ているかもしれない。

あそこ・・・の感覚がないんです」ふとシピが口を開いた。

「?」

「排泄の感触がないんです。いつ出るかわからない。我慢もできない。だから――」シピは視線を下げた。オムツを見ているのだ。――だからオムツを穿かされている。とても空虚で絶望的な顔だった。

 もしかして……。

 クローディアはシピのウエストの腹側、傷のないあたりに触れて何カ所か指で押し込んでみた。

「今あなたの腰に触ってるの。わかる?」

 シピは首を振った。

 さっきは翼を動かしていたせいで気づかなかったけど、腰から下の感覚が完全に失われているのだ。脚が動かなないだけではなかった。単にトイレの世話が間に合わないことがあるからオムツをしている、というわけではなかったのだ。

「生き物としての尊厳を奪われたような感じがしている」

 クローディアが言うとシピは頷いた。

「わかりますか?」

「いいえ。私もここまで酷い怪我を負ったことはない」

「生き物でないなら、何なんでしょう。人形? 食べて、飲んで、排泄する人形なんて、気持ち悪くないですか」

 シピの気持ちを正確に理解することはできない。でもなぜ自分でオムツを替えようとしたのかはわかった気がした。それは彼女にとって生き物としての尊厳を維持するために必要なことだったのだろう。

「治りますか?」シピは訊いた。

「構造だけなら」クローディアは頷いた。

「治せてしまっていいんでしょうか」

 治せてしまっていいんだろうか。

 一度失われた尊厳を簡単に回復するような手段はむしろその尊厳の価値を損ねてしまうものではないのか?

 その問いかけは「奇跡はこの世界にとっての禁忌ではないのか」という意味を内包していた。

 ナイブスとの衝突、奇跡のないタールベルグでの生活、ギネイスの死、ラークスパーの巨大なキノコ雲……。自分の奇跡を巡る出来事がクローディアの脳裏を駆け抜けていった。

 私が奇跡を取り戻したこともまた世界の理を捻じ曲げてしまうようなことだったのだろうか。


 クローディアは少し目を瞑って自分の指先に焦点を戻した。

「骨はくっつけられる。神経も繋げられる。でも腱の硬化や神経回路までは治せない。リハビリが必要」

 シピは頷いた。

「感謝します」

 シピの目の奥で屈辱と儀礼心がせめぎあっていた。

「あなたがディアナの所有物であることをあえて受け入れるなら、その言葉は私ではなく彼女に向けるべきでしょう」

 べつにアークエンジェルにおもねる必要はない、という配慮だったのだけど、実際のところそれはシピを余計に追い詰める言葉だった。言うべきではなかったかもしれない。

「彼女は私の治療のためにあなたに頭を下げたのですか」

「仁義でしょ?」

「だとしたらそれは恥ずべきことです。私が生き残ってしまったばっかりに……」

 シピは治したばかりの左手にぎゅっと力を入れた。

「あー、いけない。定着には時間がかかるから」クローディアはシピの手首を押さえた。「そうは言ったって、彼女はあなたが死ななくてよかったと思ってるはずよ」

 クローディアは頭のギプスに手を当てて頭蓋骨のヒビ割れの修復に取り掛かった。

「彼女はあなたのことを大事にしてるんでしょ」

 シピは無表情に頷いた。

「飼い猫のように大事にされています。外に出られない代わりに、危険もない」

「虐待されてない?」

「虐待?」

「殴られたり、怒鳴られたり、まずいご飯を食べさせられたり」

「まずいご飯……」

「ある?」

「トマトは嫌いです」

「無理やり食べさせられるの?」

「いいえ。でも彼女のご飯には出すようにと言われています」

「それなら、大丈夫。大事にされてる」

「エンジェルは大事にする。煉獄ではアークエンジェルを虐めていたのに、ですか?」

「ええ、まあ。私にも高圧的だし」

「彼女にとってはエンジェルもアークエンジェルも同じ天使です」

「え?」

「ただ、差別主義者にとっては弱者が弱者である限りはかわいいんです。脅威ではない。憎むべき対象でもない。私は弱いから、何もできなくて、かわいい。あなたは違う。それだけです」

 クローディアはいささかゾッとした。こんなに末恐ろしい「私はかわいい」を聞いたのは初めてだった。

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