鳥籠の中

 まるで深い井戸の底にいるようだった。

 ぽっかりと小さく開いた穴の向こうに世界は広がっていて、私の意識は遠く隔たれた井戸の底に落ち込んでいた。井戸の深さは感覚の希薄さだった。肉体に与えられたはずの刺激はその距離によって減衰して、私の意識に到達する頃にはほとんど実感のない他人事のような情報になり果てていた。

 自分の肉体が何かを感じているのはわかる。理解できる。でも私の意識そのものは何も感じていない。ただ他人の体験を見ているだけ、聞いているだけ、そしてわずかに共感しているだけ。そんな感じ。


 井戸の口に男の姿が映る。男はびっこを引きながら歩いてきて、顔を近づけた。たぶん私の体の前にその男が立っているのだろう。

「俺はべつに天使が嫌いなわけじゃない。だがお前には恨みがある。友人を殺された恨みだ。雪辱が正しいことだとも思わないが、正しいことを求めてここに来たわけでもない。つまり、私怨だ」

 男は語った。おそらく何を言っても反応がないのでイチから説明でもしないと気が済まなかったのだろう。

 男は銃を振り上げる。しかし握っているのはグリップではなく銃身のハンドガードだ。銃には弾倉もついていない。男は銃を左に振り出し、私の右肩を殴った。

 「痛み」が情報として伝わってくる。確かに、痛い。でもそれでいて私の意識そのものはほとんど何も感じていない。ああ、痛いんだ、ふーん。その程度。

 呻き声が聞こえる。でも、それだって自分の口から漏れているようには思えない。


「や、やめてください。お願いです」

 男の手前に天使の背中が映った。ギネイスだ。

 男は髪ごとギネイスの頭を掴んで引っ張り上げる。「うっ、いたい、いたい」とギネイスが呻く。男は構わず横へ放り投げた。

「安心しろ。殺しはしない。しかし、死は時に安らぎだ。あいつは生きるか死ぬかの瀬戸際で半日も苦しんだよ。12時間だ。その間ずっと苦しそうな顔をしていた。右腕はいい。止血だけで済む。刃が脇腹まで入って内臓をやっていたんだ。わざとやったのか?」

 ああ、そうか、思い出した。この男は私がここへ運び込まれた時にストレッチャーを押していた2人の片割れだ。

 思い出した。でも私の体は何も言わなかった。

「……そう、違うだろうな。あの状況だ。だが、だとしたらなおさら、なぜあいつは害され、傷つけられなければならなかった? お前にその意味がわかるのか? 必然性なんて、ないだろう、ないはずだ。俺たちはただお前を運んでいただけだ。ああ、お前は逃げ出したかっただろう。それはわかるよ。だが、だったら俺たちはその手引をすればよかったのか? そのあとどんな懲罰を食らうか覚悟してお前に尽くせばよかったのか? 違う。お前はただ逃げればよかったはずだ。俺たちを傷つける必要なんてなかった」

 男はまた銃を振りかぶって、今度は脇腹を殴りつけた。一度ではない。力の続く限り素振りのように何度も殴打した。肋骨が折れて内臓が潰れるのを感じた。もし自分の体が痛覚のない人形だったとしたらこんな感じなのだろうか。

「お前の奇跡は理不尽に人を傷つける。これがその代償だ。いや、足りない。奇跡があれば傷などすぐに治せるのだろう。一生ものの傷を負わなければならない人間とは違う。違うんだよ」

 男は殴るのをやめ、踵で私の胸元を蹴った。その足は包帯でぐるぐる巻きにされ、分厚くなった包帯の上からサンダルのようなものを履いていた。靴の代わりらしい。

 男は顔をしかめた。足の包帯の先に血が滲んだ。男はしばらく息を整えながら立っていたが、気持ちが冷めたのかおもむろに座り込んだ。

「なぜ途中で麻酔が切れた? それを打ったやつが悪いのか? それとも麻酔に抵抗する奇跡というのがあるのか? わからないな。答えろよ」

 私は何も言わなかった。答える意思がなかったわけじゃない。体が反応しなかったのだ。

「おい、治せるんだろう?」男はギネイスに向かってそう言い、私のことを顎で指した。体の向きを変え、片足を引き摺ってエレベーターまでゆっくり歩いていく。


「…………起きろ」

 ……?

 誰かが呼んでいる?

 ふと体が浮かび上がるような感覚に襲われた。それは遠い体から飛んでくる薄弱な感覚とは違った。意識の間近にある実感に満ちた感覚だった。

 井戸の穴が近づいてくる。伸び切った感覚の糸が巻き取られていく。

 痛みが、呻き声が、大きくなっていく。近づいてくる。嫌だ。まだ感じたくない。今すごく体が痛いんだ。頭ではわかっている。知っている。それだけでいい。感じたくなんかないんだ。

 それでも意識の井戸は問答無用で浅くなっていった。遠くにポツンと見えていた景色はもう目の前いっぱいに広がっていた。


………………


 ギネイスが右肩に触れる。もはや何のクッションもない痛覚の激流が脳に飛び込んできた。

 叫びが口を突く。反響した叫びが耳に戻ってくる。まるで自分の声じゃないみたいだ。

「キアラ」

 キアラが顔を上げると、そこにいたのはギネイスではなくジリファだった。

 彼女は注射器を持っていた。キアラは右肩を押さえた。痛みはない。骨もきちんとしている。小さな注射痕に血の玉がくっついているだけだ。打ったあとらしい。

 記憶か。夢を見ていたのか。

 それにしてもなぜか眩しい。煉獄一円が妙に明るい。照明などは普段と同じはずだ。だとすれば自分の虹彩が開いているのだ。それが注射のせいだとしたら、アドレナリン、あるいは覚醒剤か。意識が覚醒したのとも符合する。


 考えている間に何か鋭いものが目の前の床に突き刺さった。矢だ。藁が舞い上がる。

「キアラ、戦って」

 キアラは目を瞑った。記憶が混濁している。思い出せ、忘れたわけじゃない。体験は体験だ。記憶していないわけでもない。そう、ジリファは自らこの煉獄に降りてきて呼びかけた。呼びかけられていたのは自分だ。

「前も寝起きでやって捻り上げられたんだ。30秒だけ稼いでもらえる?」キアラは言った。

「30秒、いいわ」

「素手に見えるけど触媒だよ。すごくパワーがあるから気をつけて」

「わかった」

「あと、詠唱も使わないから、発動がわかりにくい」

「わかってる」

 そう答えるとジリファはすっと飛び立ってディアナに向かっていった。

 ディアナは飛び上がったジリファを狙って矢を投げる。矢はジリファに向かって吸い込まれていく。が、突き刺さる直前でジリファの姿が消えた。矢は虚空を切り、内壁の反対側まで飛んでいってこつんと落下した。

 ディアナはジリファを探す。どこから攻撃を仕掛けてくるのか身構えている。

「器用なこと。でも、自分だけ隠れるなんて、助けに来たんじゃないの?」

 ディアナは再びキアラの方に狙いをつけた。

 そしてその時を待っていたかのように彼女の目の前にジリファが現れ、腰から抜いた短刀でディアナの矢を切り上げた。


 上手く牽制してくれている。大丈夫そうだ。

 キアラは意識的に浅く短く息をして心拍数を上げた。時々腹の下に力を入れて頭に血を送る。右手を横に振り出して2本指の構え。カルテルス。赤い刃が点滅しながらうっすらと現れる。前の搾取からまだフラムの供給が来ていない。圧倒的に根源ラディックスが不足している。

 これでやれるのか? 

 左手で藁を束状に握りしめて切りつける。切断された藁の切れ端が飛び散る。

 悪くない。が、持続できて1秒。これじゃまるで居合だ。

「ギネイス、フラムの注入口って――」キアラは振り返って訊いた。

「あ、あそこ。あの丸いダクト。そこと、そこと、そこも」

 ギネイスは四方4カ所指差した。3階の擁壁の上から蛇腹のダクトが垂れている。その階のどこかにフラムの導引装置があるのだろう。だが擁壁の下に大げさなネズミ返しがついていて、2階部分のキャットウォークも塞がれている。どう考えてもよじ登っていくのは無理だった。羽さえ切られていなければこんなまどろっこしいことを考える必要なんて全くないのに。

「ギネイス、あなたは何度も私を治してくれた。必ず助ける」キアラは発電塔の制御盤の庇の上に飛び乗り、そこから発電塔の外殻を駆け上がった。翼で体を押さえつけ、持ち上げる。飛べないからといって翼が全く使い物にならないわけじゃない。


…………………


 ディアナが狙いを変えるのを見て、「今だ」とジリファは思った。擁壁の陰から飛び出して短刀を構え、ディアナが手にした矢を下から跳ね上げた。

 「カーン!」と甲高い音が響く。手が痺れる。全体が金属製なのか。矢は折れなかった。

 すかさずディアナの左手が掴みかかろうと横から飛んでくる。ジリファは身を翻して5mほど距離を取り、擁壁の上にしゃがんだ。

「その奇跡、視覚的に消えるだけではないのね」とディアナ

 ジリファは翼を広げた。

「私にはフクロウの血が流れているので。消音性は抜群」

「面白いジョーク」

 ジリファはディアナの後ろに天使が1人立っていることに気づいた。矢筒を担いでいるのは彼女だ。ディアナが手を差し出すと彼女は矢を1本抜いてその手に預けた。

「あなた、なぜ人間に加担しているの」

 天使は何も言わずディアナの後ろに隠れた。

「話したくないみたいね」

 ディアナは矢を構えた。振りかぶって、投げる。速い。気圧の変動で周りの空気が白く曇るほどだった。

 ジリファはカッと目を開いて矢の進路に手を差し込む。飛んできた矢を掴み、体を捻ってその勢いを受け止める。

 ディアナは左手に用意していた1本を右手に戻してもう一射。ジリファは掴んだ矢を振って2本目を弾く。しかしその衝撃で掴んでいた1本を取り落とした。

 ディアナは矢を追うようにして走り込んでくる。人間のスピードか?

「悪いけどあの子たちはこの塔に必要なの。返すわけにはいかない」と彼女。

「嘘。こんなの、必要なものに対する待遇じゃない」

 ディアナのアッパー。ジリファは躱しながら、伸びてきた腕を短刀で狙う。刃が手首に食い込む――?

 いや、布製に見えたアームカバーは驚くほど硬く、まるで刃を受け付けなかった。ディアナは腕を引いて短刀の刀身を掴む。そしてまるでシャーペンの芯でも折るように簡単にぽきっとへし折ってしまった。

 奪い取った切っ先を前に持ち替え、突き立てる。

 ジリファは残った鍔でかろうじて刃を受け止め、相手の肩を蹴って後ろへ飛んだ。ディアナも追ってくる。下がり続けるしかない。

「もう武器はないんでしょう、退きなさい。このままだとあなたもあの子たちと同じ境遇になるだけよ」

「そんな綺麗事。本当はあなただって私たちをいたぶりたいだけ。歪んだフェティシズムの変態」

「人間を奴隷行使している国が何を!」

「貧しい島の人間がギリギリの生活も許されないのはエトルキアだって同じ。違う?」


 その時、金属の軋むけたたましい音が下から響いてきた。

「何?」ディアナが手を緩めた。

 ジリファもディアナを仕留めるつもりはない。時間稼ぎをしていただけだ。十分距離をとって立ち止まる。

 目を向けると内壁の窪みに収まっていたガントリークレーンが内側に向かって倒れ込んでいくところだった。キアラがクレーンの足元を寸断したらしい。

 キアラが勢いをつけて発電塔のきつい傾斜を駆け上がっていく。クレーンを足場にするつもりなのか。でも距離が遠すぎる。ジャンプでは届かない距離だ。

 するとキアラは発電塔の上端にカルテルスを走らせた。赤い閃光が斜めに走り、ややあって自重に負けたコンクリートの塊がズズズッと滑り落ち始めた。クレーンの方向だ。キアラはコンクリートの塊を踏み台にしてジャンプの距離を稼ぎ、倒れ掛かるクレーンの上からさらに2階の擁壁まで飛び移った。ネズミ返しは越えた。あとは2階層。キアラは擁壁の上を走って勢いをつけ、内壁の弧に沿って上の階まで駆け上がってきた。右手を構える。それを見てディアナはすかさず引き返した。

「シピ、下がりなさい!」

 お付きの天使を心配したのだ。天使の位置はディアナとキアラのちょうど中間だった。下がれと言われても近くに通路はない。奥の壁に張り付くのが精一杯だろう。ジリファも後を追った。

 キアラが斬り込む寸前でディアナが滑り込み、矢筒から矢を抜いてキアラに突き付ける。キアラはカルテルスを発動せずに空中で一回転してジリファの前に着地した。

「1分20秒」とキアラ。

「数えていたのね」

「30と言ったら30だよ。あの壁が上手く登れなかった」

「ギネイスは下敷きになってない?」

「避けるように言ってある。――下の階にフラムのポンプがある。動かせない?」

「任せていいの?」

「そのつもり」

 ジリファはレフレクトで姿を消してそっと飛び立った。


 

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