忌避すべき島

 ディアナはシートの横にあるレバーに手をかけた。ローターのピッチ角を調節するためのコレクティブというレバーで、ヘリコプター特有の操縦系統だ。ターボシャフトエンジンは応答性が悪いので、直接スロットルを動かしてパワーを調節するよりも細かく上下の動きをつけられる、ということらしい。

 インレでは設備が足りないのでシャトー・ルナールの医大に移って手術を行う。移動にはヘリコプターを使った。距離は40㎞未満。発着の前後に滑走路の軸線に乗って飛ばなければならない飛行機では大回りになりすぎる。ヘリコプターの方が都合がいいのだ。

 カイは副操縦士席に座ってディアナの操縦を見学していた。「興味があるんでしょう、近くで見てもいいわよ、どうせコーパイ席は空いてるし」と彼女が誘った。拒む理由もなかった。飛行機には散々乗ってきたけど、ヘリコプターに乗って飛ぶのは初めてだ。機体はカストヘリオス・ルー。大型の連絡ヘリで、小型の旅客機から翼を外して代わりにローターを取り付けたようななりをしていた。偉い人の送迎にでも使うのだろうか、内装もプープリエよりかなり上等だった。キャビンにはきちんと壁にクッションが貼ってあって、軍用機に多い「金属の箱」感がまるでないのだ。

 ディアナがスロットルを押し上げてコレクティブを引くとルーはゆっくりと浮き上がった。ぐんぐん垂直上昇していく。エンジンパワーが強いのだろう、尻の裏に加速度を感じるくらいだった。

「今日のルナール行き航路は3500メーター。上げるわよ」とディアナ。

「すごい加速だ」

「ルーはアネモスだって吊って飛べるんだから。空荷ならこんなものじゃないわ」

「ほどほどにしてもらわないと、私はこの振られ方はあまり好きじゃないね」キャビンからラウラが言った。

 カイはコクピットコンソールの真ん中にあるディスプレイを覗き込んだ。塔の位置情報を落とし込んだマップにレーダー情報や航空路の図が重ねられている。滑走路方向に伸びる各島の独占的な管制空域と、その隙間を縫うように敷かれた航空路との境界は三次元的にくっきりと線引きされていた。やはり首都周辺の交通量は東部辺境の比ではない。エトルキアらしからぬ厳格さで管理されているのは少しコースを間違えただけで衝突事故につながるからだ。航空路は針路とスピードによって細かく高度が分けられている。島の独占空域を抜ける前に高度を合わせておく必要があるわけだ。

 機体がやや前傾して水平飛行に移る。頭上を小型の輸送機が追い抜いていく。左の前方から近づいてきた小型のレジャー機が眼下をすり抜けて右後方に流れていく。本当にたくさんの飛行機が飛んでいる。その列の連なりで空に敷かれた道の形が肉眼にも見えてくる。それにしてもヘリコプターが多いな、というのがカイの印象だった。輸送機みたいな大柄のヘリが方々へ飛び交っている。島と島の距離が近いから飛行機のスピードよりもヘリの滑走路に縛られないコース選びの柔軟性の方がメリットが大きいのだろう。


 機体が前傾しているのでシャトー・ルナールの全景は窓のほぼ正面に見えてきた。塔そのものは角張ったエトルキア様式だけど、住居島としてはベーシックな5層構造で、飛行場のある最下層は全体が稠密なビル群で覆われ、中下層と中層は対照的に緑地の中にポツポツと大きな建物が建っていた。中上層と上層は背の高い先細りの建物で埋め尽されている。中層と中上層の間に大学機関と魔術院の管轄の境界があるようだ。


 10分ほどのフライトだった。ルーは下層の飛行場ではなく中下層の緑地の中にあるヘリポートに降下した。東風に機首を立て、操縦桿を細かく動かして水平を保つ。それに連動して膝の間にある副操縦桿もぴくぴくと動いた。押さえると干渉するので触るわけにはいかないけど、こういう力加減で動かすんだな、といういい参考にはなった。接地のバウンドもなく、ちょっと沈み込んだだけで着陸は完了した。慣れたものだ。

 ディアナはエンジンと足回りの点検を簡単に済ませ、繋止用のロープを機体と地面のポイントの間に渡してきつく結んだ。4本中3本はカイの仕事だ。

「なかなか上手いわね」ディアナは結び目の強さを確かめた。「もう一往復、操縦してみる?」

「それは話が飛びすぎでしょ」

 クローディアは先にルナールへやってきたわけだけど、そんなにすぐ輸血液が集まるわけもないから、ギネイスの移送は別便で行うということだった。

 いや、べつにギネイスを先に連れてきておいても不都合はないはずだ。天使の護送は1人ずつ行うという規定があるのかもしれない。確かに天使が2人も3人も一気に暴れ出したらヴィカくらいの魔術師でもまったく手に負えないだろう。それは容易に想像がついた。


 中下層には環状道路があって、その両側に桜の並木が植わっていた。上空からもピンクに見えたのはこの花だ。少し時期を過ぎているようだけどまだ完全に花が落ちきったわけでもなく、なんとなく香水のような匂いがした。見たこともない青色の鳥が数羽の群れをなして花の蜜を吸っていた。

 知らない鳥、知らない匂い。

 遠くに来たんだな、と思う。と同時に、軍事島がいかに地域性を排除した空間なのかも理解した。アイゼン、ネーブルハイムと比べてもインレはまるで違和感がなかった。

 ルナールは違う。もちろんタールベルグとは違うし、ベイロンとも違っていた。

 道路にはバスが走り、若い学生たちが並んで歩道を歩いていた。横長のどっしりした医科大学の建物はヘリポートから50mくらい離れていて、環状道路と並行する遊歩道で接続されていた。歩道を歩く学生たちは明らかにこちらに目を向けていた。クローディアも堂々と翼をむき出しにしていた。でも彼らは遠目にわかるような反応は見せなかった。それはインレの中で軍人たちが見せた反応とさほど変わりはなかったし、むしろより紳士的なように思えた。ヘリコプターとディアナの服装で軍が絡んでいるのは一目瞭然だろうし、軍のやることには口を出さないでおこうという文化があるのか、それとももともとみんな控えめな性格なのかもしれない。ともかく微妙な空気ではあるものの不快に感じるようなものではなかった。

 裏口から中に入った。ディアナは受付で話を通して鍵を受け取り、階段を上って広い個室に通した。ベッドが1台あり、あとはリビングくらいの空間が確保されていた。消毒液の匂いがした。

「私たちはギネイスの方の様子見があるから一度戻るわね」とディアナ。

「構わないよ。私がついているからね」とラウラ。


 カイは窓を開けて春の空気を吸った。窓の外側は転落防止用の柵に覆われていたけれど、景色を見たいわけじゃない、十分だ。

 しばらくすると窓の下にディアナとヴィカの姿が現れた。ディアナが振り返って手を振った。カイも柵の間から手を出した。

 2人は芝生の中にレンガ風の軽量タイルで敷かれた道を戻っていく。間もなくヘリポートに止まっていたルーのローターが回り始め、芝生を銀色に靡かせながら飛び去っていった。ローターが空気を打つ衝撃波で窓ガラスが震える。あまりヘリポートを近づけると窓が割れるので少し遠めに設置しているのだろう。

「平和な島」とクローディア。「魔術院って言うから、顔を真っ白に塗った人たちが始終右手を掲げてお経か賛歌でも合唱しているのかと思った」

「ひどいイメージだね」とラウラが吹き出した。「私もそんなふうにしてたと思うのかい?」

「アルルがこの医大の出なんだ。まともな人間だっているよ」カイも言った。

「まあしかし中下層まではキャンパスだからね、その上はわからない。見かけがまともそうでも、覗き込んでみたらおぞましい、なんてことはあるだろうね。……それに、差別というのは元来よそ者の旅行客にはわかりにくいものさ。自分に向けられる視線がもの珍しさなのかそれとも反感なのか、わからないだろう?」ラウラはインレの時と同じように部屋の隅々や戸棚の中を確認しながら語った。

「まぁ」

「差別というのは本当にその場所で生活を立ち上げてみようとしなければわからないものさ。家を買って、転居の手続きをして、隣人に挨拶して、身の回りのものを買い集める。どれもこの国では天使1人にはままならない。天使は契約主体になれないし、禁入居、禁入店、というのも珍しくないからね。差別というのは何も個々人の言動だけを指すものじゃない。むしろメディアや教育によって当然化した慣行、なんとなく醸成された雰囲気そのものを言うのさ。現に、クローディア、タールベルグを出て以来少しピリピリしているだろう。それはたぶん個々人言動に対する備えだろうけどね、そんな天使側の身構えもまたその雰囲気の一部を担ってしまっているのさ」

「そう言われたって、タールベルグほどのんびりした気持ちでいるわけにはいかないわ」

「そうさ。実体験があり、吹聴された噂があり、来るべき実害に備えずにはおけない。差別に強いられたものが差別を形成する。それはもはやひとつの共同体が持つコモンセンス、その住人が共有する如何ともしがたい前提的な感性だよ。より能動的な抑圧や弾圧とは違う。まあ、この国が明文化した人権優越は抑圧のレベルには達しているだろうけどね、法のテリトリーに収まらないものはやはり差別だよ」

「あからさまな敵意を向けてくる人間はごく少数、ということ」

「そう。でもゼロではない。多くの場合彼らの行為は犯罪にもならない。存在する、というただそれだけで深刻なリスクを引き起こしている」

「そいつらが元凶ではないの?」

「差別よりそっちが先だったら、それを抑止したり罰したりする力が働くはずだね。でも違う。この社会はそれを黙認している」

「その雰囲気が差別なんだ」

「1人で出歩かない方がいいとディアナが言っていたね。あれには私も同意見だよ。魔術院が奇跡や天使に対して対抗意識を持っているのは確かだからね。」

 クローディアは頷いた。「でも、私、あの上を見てみたい」

「怖いもの見たさかい。まあ、少なくとも奇跡を取り戻せたあとだね」ラウラはベッドのボードに寄りかかって溜息をついた。


 カイは部屋を出てトイレを探した。2つある階段室の広い方の近くにあった。全然気にもしていなかったけど、女性用の看板の隣に天使のシルエットの上に大きく「✕」の描かれた看板が並んでいて目についた。天使禁制ということらしい。

 妙な目眩のようなものを感じた。

 この看板に何か合理的な理由があるのだろうか? 少し考えてみたけど思い当たらなかった。中が狭いから翼が邪魔になる、とか? いや、実際のところ翼はさほど嵩張るものではない。

 ……たぶん理由なんてないのだろう。引っぺがしてやりたいような気持ちになったけど、看板は分厚く、しっかりと壁に接着されていた。これをデザインした人間がいて、製作した人間がいて、取り付けた人間がいる。しかもこの場所をたくさんの人間が使っている。でも看板はここにある。あり続ける。誰もその看板に疑問を呈さない。あるいは呈したとしてもその声の大きさは看板が撤去されるのに十分なレベルには達さない。

 それが「雰囲気」というものの威力なのだろう。ラウラが言ったことの意味が実感を伴って理解されてきた。それはもう自分自身の理解が進んでいくのがめりめりと音を立てて聞こえそうなくらいだった。




―――――



「予想が外れたわね」ディアナはルーの機首をインレに向け、高度維持のボタンを押した。

「外れちゃいない。ちょっとばかし超えてきただけさ」ヴィカは二人分の席に斜めに座って脚を伸ばしていた。2人ともヘッドセットをつけているので騒音に包まれたヘリの中でも会話が成り立っている。

「だけどさ、本気でやらせるつもりなのか? クローディアが言ってるのは、要するに、起きてすぐ元気100万倍で頼むってことだろう? 今までしおらしく・・・・・していたのは奇跡を失くしていたからで」

「あら、じゃああなたがオークションに行った時はどうしてしおらしく・・・・・連れられてくれたのかしら。あの時はまだアークエンジェルだったんでしょ?」

「それはだなぁ……」

「それに、私は見てみたいのよ。あの子が本当にギネイスを救えるならそれはすごいことだわ。たとえそのあとあの子が私たちのものにならなくても、十分すぎるほどの成果よ」

「それだと私は困るんだけどね」

「あら、それは私の管轄じゃないわ。ヴィカのお願い次第かしら」

「へえへえ、私が頑張ればいいんでしょ」

「何よ、頼んでくれてもいいのに」

 ディアナはコレクティブを押し込んで操縦桿を左にぐいっと倒した。ルーは針路を保ったまま左ロールで1回転、すぐ水平飛行に戻った。

「うわっ」とヴィカはシートベルトをしていなかったので座席から投げ出され、洗濯機のように回転するキャビンの天井にかろうじて足をつき、座席の背凭れに手をついて床で受け身をとった。

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