マッチ・オン・パラソル

「ああ、そういえば今日はテルアペルだったわね」

 サフォンの姿を認めたところでギグリがそう言った。テルアペルというのはエアレース第5戦の舞台だ。サフォンが現れたことで意識が現実に引き戻されたのかもしれない。

「大会当日に800キロも離れた島にいるなんて」ギグリはそう続けて少し可笑しそうに鼻を鳴らした。「リリスは上手くやるかしら」

「心配してもしょうがないでしょう」

「そうね」

 サフォンは足元に注意しながら歩いてきて残り10mくらいのところで顔を上げた。やはり白いワンピースだった。

「おはようございます」

「おはよう」

「おはよう」

「……えっと、その……」サフォンは妙にもじもじしていた。

「ん?」

「クリュスト様が校門の方へ歩いていくのが見えたので、追いかけてきて、声がしたのでこっちだと」

「私はお邪魔だったわね」とギグリ。

「いいえ、その……」

「こんなに早起きしていると思わなかったんでしょう?」

「はい」

「きっとこの島の空気がいいのよ」

「ギグリ様はアルピナが好きですか?」

「ええ、とても。気に入ったわ」

 どちらかというと邪険にされるより怯えられているのが気に食わなかったのだろう。ギグリは手招きしてサフォンの頭を撫でた。面倒見がいい方のギグリだ。彼女は威圧と懐柔の使い分けをよく知っている。


 3人は湖畔を離れて校門の方角へ引き返した。

「ギグリ様はアークエンジェルですよね」

「そうよ。奇跡を見たことがないから疑ってるの?」

「そうじゃないんですけど、でも見てみたいなって」

 サフォンなりにギグリに対する用事を捻り出したのだろう。

「そうね……。ねえ、この島で一番人気のないところってどこかしら」

「もともと人の少ない島ですし、東側の森の中に入ればまず誰にも合わないと思いますけど」

「他の生き物も少ない方がいいわね」

「じゃあ、傘の上はどうでしょう」

「傘?」

「貴婦人の日傘の傘です」サフォンは湖の向こうを見上げた。アルピナの塔本体があるはずだが、木々と靄のせいでまるで姿が見えない。

「あの上には誰も立ち入らないですし、木も生えてないですから」

「それもそうね。あれだけ上に行けば」

「でもどうして?」

「奇跡を見せてあげるのよ。――エヴァレット、ひとつ手合わせを」

「ギグリ様の方から誘われるのは初めてかもしれませんね」エヴァレットは答えた。人気のない場所、と言った時からそんな気はしていたが、今まではエヴァレットの方から頼むのが当たり前だったので少し驚いていた。

「えっと、特訓ですか?」とサフォン。

「そんなところね」

「このまま行きますか」エヴァレットは訊いた。

「私はいいわよ。動くつもりもないし」

「じゃあ私は先に剣を取りに行ってきます」

「武器がないと戦えないというのも不便なものね」

「あっ、でも……」サフォンが立ち止まった。

「どうかした?」

「エレベーターが動かないので自力で上らなければならないんですが……」

 2人の目がエヴァレットを見た。

 だがエヴァレットは得意だった。

「ご心配なく。飛べますから」


 「貴婦人の日傘」と呼ばれるアルピナの中下層甲板は塔から東側に500mほど伸ばされただけで建設が放棄されていた。その先端の真下がちょうど湖の東端のあたりらしい。そこで待ち合わせするとしてエヴァレットが上衣をトレーニング用のTシャツに替えて愛用の長剣を担いでいくと2人はかなり待ちくたびれた様子だった。

「さて、見せてもらおうかしら」

 エヴァレットは息を切らせたまま剣を下ろし、鍔にかかった鞘のベルトを確かめ、鍔のすぐ上下で柄と鞘を握って頭上に掲げた。エヴァレットの魔術触媒の1つはこの長剣の鞘だ。

レス・ヘフィネス浮かべ

 そう唱えるとエヴァレットの髪が逆立った。剣の周りに重力を斥力に変える力場が発生しているのだ。エヴァレットは首から上に血液が溜まっていくのを感じた。これは逆立ちしている時の感覚に近い。踵が浮き、爪先が地面を離れる。力場に巻き込まれた落ち葉が宝くじのように舞った。

「浮いたわね」とギグリ。

「浮きましたね」サフォン。

「さあ、掴まって」エヴァレットは鞘に意識を集中しながら言った。

 サフォンが近づいてきて恐る恐る手を伸ばした。まっすぐ伸ばしたはずが反重力のせいで上に流される。しばらくその感覚を楽しんだあと、えいっと力場の中にジャンプしてエヴァレットに飛びついた。

 サフォンの長い髪が全部上に流れ、翼も持っていかれそうになり、ワンピースの裾も捲れ上がった。サフォンは慌てて翼に力を入れ、思わず手で髪と裾を押さえた。するとエヴァレットの体から離れて勝手に昇っていき、剣の先端の少し先でくるくる回り始めた。そこが力場の上端で重力と反重力が釣り合っているのだろう。

「悪いが手が離せないんだ。自分で剣に掴まってくれ」

「大丈夫です。意外と楽ですよ。楽しいです、これ」

「詠唱が切れたら落ちるから、気を付けるんだ」

「はい」

「ギグリ様も、早く」エヴァレットは下を見て呼んだ。甲板から3mほどの高度になっていた。

「私はいいわ。危険そうだし、それにちょっとそれ滑稽こっけいよ」

「翼を閉じたまま浮かんでるって不思議な感覚ですよ、ギグリ様」サフォンも誘った。

「いいの。2人で楽しんで」

 ギグリはそう言うと翼を広げて湖の方へ5,6歩助走をとり、まるで水面に滑り込むように離陸した。ゆったりと羽ばたいて高度を上げていく。とても優雅な姿だ。「滑稽」なんて言われてエヴァレットは少し傷ついていた。

「少しスピードを上げる」

「いいですよ」とサフォン。

ファル・ルリック速く

 エヴァレットが唱えると秒速10㎝ほどだった上昇が一気に秒速2mほどまで速まった。

「わあ、速い」とサフォン。

 ギグリが折り返してきてエヴァレットの足下を通過した。周りをぐるぐる旋回しながら羽ばたき続けて上昇している。ギグリは翼が長いので細かい羽ばたきが必要になるホバリングや垂直上昇は不得手だ。

「思ったより速いわね」ギグリが言った。

「少し落としますか?」エヴァレットは答えた。

「舐めないでよ」

 案外必死の返事が返ってきたのでエヴァレットは気分を取り直して優越感を覚えた。だが力場の力を受けながらその発生源である鞘を支えるにはかなり体幹が必要だ。必死なのはエヴァレットも同じだった。


 「貴婦人の日傘」の上に着く頃にはエヴァレットは息が上がっていた。ギグリは途中から追いつくのを諦めて遅れて到着した。悠々と上ってきたようだが、エヴァレットの魔術に遅れたのはやや不満そうな様子だった。サフォンが気まずそうに2人の顔を見比べていた。

「少し休んだ方がいいんじゃない?」ギグリが訊いた。

「いえ、大丈夫です」

 エヴァレットは立ち上がって剣を背負い直した。中下層には灰色ののっぺりした甲板が広がっていた。甲板の端にはミサゴなどの巣が見えたが、真ん中の方へ入っていくと生き物の気配はまるでなかった。下の甲板まで500mの高度差を下りなければ餌場もないし、小鳥たちには使いづらいのかもしれない。塔本体は甲板より100mほど高い所ですっぱり途切れ、笠のような簡単な屋根が上に乗せられていた。

「そういえばこの甲板には雪が積もらないのね」とギグリ。

「雪の塊が降ってくると危ないのでこの層は融雪システムを動かしているんですよ」サフォンが答えた。


 エヴァレットは10mほどの距離を空けてギグリと向かい合い、剣を腰の左側に支えて目が合うのを待って一礼した。剣を抜いて左手に鞘を握る。

「いつでもいいわ」とギグリは胸の上で腕を組む。

「参る!」エヴァレットはふっと息を込めて鞘を前に出す。「レス・ヘフィネス」

 重力は鞘の先端に向かう。その勢いを借りて甲板を蹴り、ただ単に駆け込むより遥かに速いスピードで突っ込む。

 ギグリは少しも動かずに目の前に金色の障壁オーベクスを展開した。

 エヴァレットは重力加速のままオーベクスに剣を打ちつけた。「コォン」と鐘を打つような音が周囲に響き、重なったオーベクスの表10枚ほどが砕けた。だがその程度ではオーベクスの厚みが減じることはない。

 エヴァレットは一度剣を引き、鞘を後ろに振り出した。

ブラスト風よ吹け!」

 鞘の先端に風圧が生まれ、エヴァレットの体を押し出す。左右を振りかえて突きの姿勢をとり、長剣の先端をオーベクスのど真ん中に突き立てる。一瞬で30枚近いオーベクスが砕け散った。

 だがギグリはすぐに内側から新しいオーベクスを次々と展開して剣を押し返す。

 結果エヴァレットは後方に押し返されて5mほどの距離が開いた。

 ギグリはオーベクスを消し去った。

「今の突きはよかったわ」

 ギグリはオーベクスよりはるかに小さく長さのある光の鎚マレウス・ルクスを20あまり前方に浮かべた。

 オーベクスは固い。いくらエヴァレットから仕掛けたところで破れないのでギグリの方が攻勢に移る。いつものパターンだ。

 マレウス・ルクスが撃ち出される。エヴァレットは鞘でそれを弾きながら再び距離を詰め、再びギグリの目の前に現れたオーベクスを右へ避けるように踏み込んだ。

だがギグリもそれを読んで左右にオーベクスを展開している。

 エヴァレットはブラストを唱え、さらに回り込んで後背から鞘を振った。真後ろだったが、エヴァレットが寸止めを意識するより早く鞘の前にオーベクスが現れていた。直径2mほどの大判のオーベクスだった。

 剣を構えて突き立てるが、5枚ほどが割れただけで受け止められてしまった。

 ギグリは振り返ることもなく腕を組んで前を向いたままだった。

 エヴァレットはオーベクスに弾かれて後ろに転がったが、起き上がる前に板剣ラミナが降ってきた。マレウス・ルクスは小さなオーベクスを何枚も串刺しにしたような形状だが、ラミナは1枚のオーベクスを細長く剣状に成形した術式だった。

 エヴァレットは右手の剣を放して両手で鞘を支えて受け止めたが、さらにもう1本ラミナが突っ刺さる形で降ってきて鞘を逸れ、腹に突き刺さるという寸前で消滅した。

 これもいつもの負け方だ。銃や体術を使えばもう少しやれるだろう。だが銃は寸止めが利かないし、天使相手に殴る蹴るというのも気が引ける。剣と魔術だけを使うのがセオリーになっていた。

 ギグリは滅多にラミナを実用しないが、剣を使う相手には剣で勝つというのが彼女なりの楽しみ方らしかった。

 ギグリはやはり腕を組んだまま、ただ体の向きだけは変えてエヴァレットを見下ろしていた。

「続ける?」

「いいえ、今日はこれで十分です」

「サフォンは物足りなくないかしら」ギグリは少し声を高くして呼びかけた。

 サフォンはエヴァレットのジャンパーを抱えて20mほど離れて試合を見守っていた。

「大丈夫です。すごかったです」

「今日はオーベクスの調子が良かったわ。サフォンのおかげかもね」

「ありがとうございまーす」サフォンは嬉しそうに手を振った。


 サフォンが水筒に紅茶を用意してくれていたので3人で甲板に座って少し休憩した。

「クリュスト様の剣もすごく速かったのに、ギグリ様の奇跡はもっと強いんですね」

「そうよ。見直してくれたかしら」

「はい。……あ、いいえ、見くびってなんていませんでしたよ」

「でもね、私は遅かったの。奇跡を使えるようになったのはあなたと同じくらいの歳だった」ギグリは少し含みのある目でサフォンの顔を覗き込んだ。「なぜアークエンジェルなのにルフトになんかいるんだって、そう思うのでしょう?」

「そんな失礼なこと思ってないです……」

「いいのよ。話してあげる。その方があなたも納得がいくと思うわ」

 ギグリは座り直して足を横に流した。尻の下にはエヴァレットのジャンパーを敷いていた。

「私の母もエンジェルだったのよ。奇跡が使えなかったの」

「えっ」

「そう、意外でしょう。サフォン、サンバレノのパラッツォといってわかる?」

「高位の天使が集まって政治をする場所、ですよね」

「そう。私の母はパラッツォで宮仕えをしていたの。下っ端の下っ端だったけれど、それで天使の位階にはとても敏感だったのよ」

「はい……」サフォンは話の流れを察したようだった。

「厳しい母だったわね。エンジェルが就ける仕事の中で一番名誉のあるものだから、あなたも目指しなさいって、教育されたわ」

「でもギグリ様はアークエンジェルだった」

 ギグリは頷いた。

「私は最初それを隠していたの。母との関係がややこしくなってしまいそうな気がして。けれど修道院で奇跡の検定があって、どうしても避けられなかったのよ。そのあと母を知るアークエンジェルたちから、好意だったのでしょうね、『あなたには資格があるから宮仕えの教育を受けなさい』って誘いを受けて、見習いだったけれど母より高い地位で務めることになったの。そうしたら母は私にもへりくだるようになったわ。跪いて、敬語を使って。しかもパラッツォの中だけでなくて、家でもずっとその調子になってしまったの。私は何度もやめてってお願いしたわ。でも母はやめなかった。やめられなかったのよ。なぜって、それは母がどうにかこうにか掴んだ地位を守るために絶対に欠かせない姿勢だったから。仕方なかったのね。私は自分の運命を呪ったわ」

「それで亡命を?」

「そう。私がこんな目に遭うのはサンバレノの、天使の位階制のせいだって。そして誓ったの。私は決して位階なんてものを認めない。誰にも平等に接しようって」

「だから目上の人にも敬語を使わないんですね」

「そうよ。本当に愛すべき人以外にはね」

「さすがギグリ様……」

 確かにその発想で万人を見下そうと思えるのはさすがギグリ様である。エヴァレットも同感だった。そしてその話を聞いて1つ思い出したことがあった。


 ギグリがベイロンに渡ってきて1週間ほど経った頃だったと記憶している。渡りの衰弱から回復したギグリと城の中庭で手合わせしたことがあった。フェアチャイルドはギグリの奇跡を確かめてどんな使い道があるのか考えたかったのだろう。

 ギグリは12歳、エヴァレットは14歳。ギグリのオーベクスもまだ生成りだったが、エヴァレットも剣や魔術を扱いきれていなかった。結局エヴァレットはギグリの防御を破ることができずオーベクスに押し潰されて負けた。勝負は決した。だがギグリはオーベクスにかける力を抜かなかった。何度も叩き付けるように圧力を増していった。エヴァレットはこのまま全身の骨が砕けて死んでしまうんじゃないかという恐怖に襲われた。

 実際、フェアチャイルドが見ていなければ危なかったかもしれない。彼はエヴァレットの周りにシールドを張り、ギグリの頭に手を置いて目を隠した。

 ギグリは慣れない戦闘で奇跡を使ったせいで激昂していた。呼吸は荒く、顔は真っ赤だった。

「私はこんな奇跡使いたくなんかなかった」ギグリは絞り出すように言いながらフェアチャイルドに縋った。頬に伝った涙が顎の先端からぽたぽたと垂れていた。

「すまない。まだ早すぎたな」フェアチャイルドはギグリの肩や背中を撫でながら宥めていた。そして呼吸が鎮まるのを待って頭に手を乗せ、目線を合わせて「でも彼を傷つける必要まではなかった。それは謝らなければいけない」

 ギグリは頷いてエヴァレットの前にしゃがんだ。肩が外れているのか腕が動かなかったし、頭がクラクラして上手く言葉が出てこなかったが、エヴァレットは顔を上げてギグリを見返した。泣き腫らした赤い目が見えた。

「ごめんなさい。ヤケになってしまって」

「ああ、ああ」

 ギグリはエヴァレットが朦朧となっているのを理解して肩に手を当て鎮痛アナージェスの術式をかけた。エヴァレットは体の中から火照りのような痛みが吸い出されて消えていくのを感じた。フェアチャイルドに抱え上げられ、中庭から建物の中に入るのがわかった。彼はエヴァレットを運びながらギグリを諭していた。

「運命に理由はないかもしれない。だがそこに意味を見出すことはできる。君はその力を誰かを守るために使いなさい。いつか自分自身を愛せるように」

 そう、それはフェアチャイルドの言葉でもあった。

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