1話「新緑の下での再会」






   1話「新緑の下での再会」




 漣響は強くない。

 全くもって強くないのだ。



 今でもこうして、鏡を見て泣きそうになりながらため息をついている。ただ泣いてはいないので、少しは強いのかもしれない。


 まだ日が上ったばかりの爽やかな時間。

 まだ寒さも残る春暁の時間。聞こえてくるのは風や鳥のさえずりだけ。響がホッと出来る1番の時間だった。


 真っ黒な髪を頭の高い位置で1つに結ぶ。長い髪はそれでも肩まで届くほどだった。鏡を見て、「よし!」と気合いを入れる。

 目の前の彼女の顔はどうも府抜けている。

 目標を失ったからといって、止める事は出来ないのだ。

 剣を握る事を。



 響はひんやりとする剣道場の床を裸足でゆっくりと歩く。誰もいない広い道場に正座し正面にある神棚にゆっくりと頭を下げる。

 左に置いてある竹刀を取り、響は摺り足で中央まで行き、ゆっくりと竹刀を抜刀する仕草で両手に持ち構える。


 ふーっと小さく息を吐く。


 そして、竹刀を頭より上にあげて、勢いよく下へと振り下ろす。そして、竹刀を絞るようにして、動きを止める。

 シュッ。という音が耳に届く。

 それを何度も繰り返す。「素振り」を淡々とこなす。けれど、形や体の力の入り方を確認しながら行うと、とても精神力の必要な動作だった。


 それを響は毎日100回以上行う。その後には左手だけで竹刀を持ち素振りするのだ。

 終わる頃には冬でも汗をかいている。




 剣の事だけを考える時間は好きだった。

 心が落ち着くし、やはり好きな事なのだなと感じられる。

 この時間は響にとってなくてはならないものだった。



 響が全ての自主稽古を終え、始める前と同じく神棚に向けて頭を下げていた時だった。剣道場の扉が開く音がした。



 「今日もやっているね。響くん」

 「双虹(そうこう)様、今日もお邪魔しています」

 「いいんだ。君が来ないとこちらもやる気が出ないものさ」



 双虹は白髪混じりの髪に、背筋がピシッとした65歳の男性だ。真っ黒な道着袴姿だ。



 「もう少しで道場の者達がやってくる。今日こそ稽古の相手をしてくれないか?皆、響くんが来るのを待っている」

 「………申し訳ありません」



 響は真っ直ぐな視線で見つめる双虹から逃げるように視線を逸らしてしまう。

 双虹は響にとって剣の師匠だ。とても尊敬しており、また慕っている。響は双虹に何度助けられたのだろうと思うと助けになりたいとも思う。けれど、今の響は何も役立てないのだわかっている。



 「君にお願いした、講師の件で悩ませてしまっているかな?」

 「それは……自分が今何をするべきなのかわからないのです。だから、すぐに返事は出来なくて………」

 「そうか。すぐに返事をする必要はない。私は待っているよ。もちろん、君が講師をしてくれるのは嬉しいけれど、次に何をしてくれるのかも興味がある。大いに悩みなさい」

 「………はい」



 響は双鏡に頭を下げた後、逃げるように剣道場から立ち去った。

 近くのジムに行き、汗を流そうとした。けれど、そこでハッと気づく。そこはもう響は使えないのだ。

 響は実業団所属の企業に勤めており、会社がバックアップしてくれていた。響が入ろうとしたジムを使えるようにしてくれたのも、会社だった。

 けれど、響はその会社を退社したのだ。



 「家に帰るしかないか………」



 何年も通っていた場所につい足を運んでしまう。習慣はなかなか直らないものだ。

 ため息をつきそうになるのを我慢しながら、響はその場所から立ち去った。




 小さなマンションに帰り、シャワーを浴びた後は掃除や洗濯をして過ごす。穏やかに見える日々だけれど、焦りもあった。

 会社を退職した今、響は無職だ。

 ほとんどお金を使わない生活をしていたため、かなり貯金はある。けれど、いつまでも働かないで生活出来るわけでもないのだ。

 いざとなったら、バイトでもすればいいのかもしれない。けれど、本当にそれでいいのか?

 響はずっと剣の道を生きてきた。

 それを止めて、次は何を目標にすればいいのだろうか?そう思ってしまうのだ。



 「仕事……探そう………」



 何も見つからないのなら探してみればいい。そんな藁にもすがる思いで、響は本屋に向かった。求人情報誌を見たり、街の中でのポスターを見たりしても何もピンッとこないのだ。


 そんなに簡単に見つかるはずがないとわかっていつつも、落胆してしまう。


 人混み避けるために裏道を通る事にしたが、この道を通りたい理由があった。ゆっくりと歩くと、とある小さな公園がある。ベンチやブランコ、滑り台しかない、人もほとんどこない広場だ。そこに、響の目的のものがある。



 「綺麗ね………」



 そこには、ピンク色の花が散り新緑色に染まったら桜の木だった。響はその大きな木を見上げながら、声を洩らした。

 黄緑色の生まれたばかりの新しい葉は、太陽に当たると透けているように見える。そんな花ではなく葉をつけはじめた桜の木を見るのが、響は好きだった。

 正確には、響ではない。響の中にいる、昔の彼。

 きっと、彼はもうその事など覚えてないだろう。



 そう思いながら苦笑した時だった。




 「ひび」

 「……………ぇ………」

 「おまえ、何やってんの?もしかして、泣いてた?」

 「…………千絃…………」



 声がする方を見ると、そこには細身で背の高い男性が立っていた。少し茶色の髪に、気長がの鋭い目、そして長い手足。変わらないニヤリとした笑みで、響はそれが誰かすぐにわかった。

 月城千絃(つきしろ ちづる)。響の幼馴染み。だが、それも昔の話し。


 驚き、彼の顔をまじまじと見てしまったけれど、響はすぐに鋭い視線を向けた。



 「今さら何の用?」

 「久々に会った幼馴染みに対して冷たいな」

 「元幼馴染みよ。あなたとはもう友達でもなんでもないわ」

 「思い詰めた顔をしているのを見かけたら心配してみれば………相変わらず、だな」

 「あなたに心配してもらう筋合いはないわ」

 


 響は、そう言うと彼から視線を逸らした。

 最後に会ったのは何年前だろうか。学生の頃なので大分昔の話しだ。

 もう会うこともないと思っていたのに、再会してしまうなど、最悪な日だなと響は内心で大きくため息をついた。



 「何で泣いてた?」

 「泣いてないわよ!あなたの見間違えでしょ?」

 「泣いているように見えたな。麗しの女侍様が」

 「その名前で呼ばないで。私はもう剣の道は捨てたわ」

 


 『麗しの女侍』とは、響が剣道選手だった頃に呼ばれていたものだった。確か、新聞かテレビが勝手につけたもので、見た目は女らしいのに剣を持つと凄腕の剣士になる、とよく報道されていた。見た目だけで判断されているようで、響はあまり好きではなかったけれど、評判がよかったようで剣道場に観戦に来てくれるお客さんも増えたというので、感謝はしていた。

 けれど、千絃に言われると全く嬉しくないのだ。



 「選手辞めたんだってな」

 「えぇ。だから、そんな風に呼ばないで欲しいの」

 「………酷くなったのか?」



 千絃の声が先程よりも優しくなり、心配そうに響を見ているのがわかった。

 けれど、それは響にとって聞きたくもない言葉だった。



 「嘘つきのあなたには関係ないでしょ?!」



 つい大きな声で叫んでしまう。

 自分の声にハッとして、響はたじろいでしまう。けれど、その言葉を向けた相手は、無表情のまま響を見ていた。それを見て、一人でカッとなっているのが恥ずかしくなり、顔を赤くしたまま、彼から離れようと千絃の横を走り抜けようとした。


 けれど、咄嗟に千絃の手が響の腕を掴み、拘束したのだ。


 


 「なっ!………やめて、離して!」

 


 腕を強く引っ張るが、彼の手はびくともしない。鍛えていたとしても、男には敵わないという現実が悔しくて仕方がなかった。せめて、竹刀でも持ってきていれば、と響が後悔の念に駆られている時だった。

 少し大人っぽくなった低音の声で、千絃が驚きの言葉は口にしたのだ。




 「俺と一緒に働かないか?」



 響はその言葉を耳にした後、しばらく彼の茶色がかった瞳を唖然と見つめるしか出来かった。

 響は、数年経ったとしても彼の前では強くなれないな、と実感した。



 


 



 



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