暗澹たる夏夜に

閉め切った八畳間の自室に、電燈の灯りだけが灯っている。座卓に日記帳を広げつつ僕は、いつものように手記を綴っていた。卓をペン先が硬く鳴らしていく。その小気味よい音を聞き流しながら、やがて手を止めた。


お風呂上がりのせいで、少しだけ蒸し暑い。手扇で顔を扇ぎながら、ふとノートの表面に目を落としてみる。紛れもない僕の筆跡で、ここ数日にあった出来事が綴られていた。毎晩毎晩、彼女との時間を思い返しつつ書いたものだ。視線をすべらせて読み返してみる。


『二十七日──踏切と駅に行った。曼珠沙華を見て、「人間なんて」と呟いたあやめちゃんの言葉が印象に残っている。彼女に何があったのだろうか。それとも僕の考えすぎだろうか。少しだけ、そこが気になっている。』


『二十八日──本当は神社に行くつもりだったけど、あまりの暑さに断念した。代わりに、駄菓子屋さんでラムネを買うことに。その途中、あやめちゃんの夢に色が着いていたことを話してもらった。僕のおかげと言ってくれて、本当に嬉しい。この現状のせいで忘れがちになるけれど、彼女は初恋の相手だ。今日は話題が話題だったから、かなり意識してしまったかも。それでも、いいのかな。』


『二十九日──神社にお参りをしてきた。それから裏手の小川で休憩。昔を思い出して、懐かしくなる。幸いにも子供たちには会わなかった。それからまっすぐ帰るのが嫌で、少し遠回り。村を一周するように歩いてきた。学校を見かけた。珍しく、あやめちゃんにしては乗り気でないらしい。体調かな。実は、明日は何処に行くか、まだ決めていない。』



真新しい筆跡を見て、ふと思い返す。学校と聞いた時のあやめの態度は、少し不自然な気がしていた。茫然としていたから肩を跳ねさせたのは分かるけれど、あの取り繕い方は、彼女にしては珍しい。妙に歯切れの悪い物言いだったし、色々と、思うところがある。


あやめは学校で何かがあった──そんな類推が脳裏を過ぎるけれど、すぐにそれは霧散した。そもそも、そんな話は聞いたことがないし、万が一にもあれば同級生である小夜が教えでもしてくれるはずだ。昔から今まで、そんな話は一度もされていない。……けれど僕自身、彼女とさほど近い付き合いにいたわけではないから、正直なところ分からなかった。


いっそのこと、僕から小夜に聞いてみようか──そんな考えを思い付いた矢先に、誰かが部屋の扉を叩く音がする。ふと時刻を確認すると、夜の九時を過ぎたあたりだった。叶兄たちは明日も仕事だと言っていたし、寝るのが早い。さては噂をすれば、彼女だろうか。そう思い思い、日記帳を座卓の下に仕舞う。



「なに?」



予想通り、僕を訪ねてきたのは小夜だった。つい今しがた入浴を済ませたのか、首にタオルを提げながら扉越しに顔を覗かせている。僕の返答に彼女はひとつ頷くと、「まぁ、訊きたいことがあってさぁ」と微笑しいしい、後ろ手に扉を閉めてから卓を挟んで座った。心做しか、更に蒸し暑くなった気がする。洗髪料の匂いが、それに混じって香っていた。


僕は小夜と入れ替わりに立ち上がると、仕切られている障子を開けて、窓硝子を全開にする。火照った身体には、ほんの少しの涼風でさえ心地よい。相変わらず外の景色は暗澹あんたんたる様で見えもしないけれど、今日は曇り気味なのか、銀砂のように散らばっているはずの星屑でさえも分からなかった。それらを一瞥してから、また向き直る。



「話って、あやめちゃんのこと?」

「そう! 流石にもう分かっちゃうかぁ」

「そりゃあ、三日連続で聞かれてるし」

「だって、流石に気になるんやもん……」



苦笑しいしい、僕はそのまま押入れを開けて布団を抱える。手早く畳の上に敷くと、ほんの一瞬間だけ柔らかに舞いながら、それは床に背を付けた。続けて掛け布団も敷いてから、まだ少し埃臭いような押入れを閉める。


──どうやら小夜は、僕があやめに会わせようと試みたあの日から、彼女のことを少なからず気にかけているらしかった。そういうわけでここ数日は、あやめと何をしてきたかを毎晩のように話している。それでも、彼女が盲目であることは伏せておいた。小夜にしても、本来なら死んだはずのあやめが未だ存在していることが、少し不思議なのだろう。



「あっ、そういえば、今日は少しだけ気になることがあって。神社で遊んだ帰りに学校の前を通ったんだ。『寄っていく?』って言ったんだけど、そしたら、あやめちゃんの様子が少し不自然だったというか……。なんか取り繕うような感じで、断られちゃってね。僕は余所者だからずっと知らなかったけど、あやめちゃんって学校ではどんな子だったの?」



布団に腰を下ろしてから、足を軽く崩す。枕をクッション代わりに抱きしめながら、小夜の返答をややはやるようにして待っていた。けれども彼女は、何も言わない。居心地の悪そうに視線を彷徨させながら、ときおり言い淀むように口を開くけれども、また閉じた。明朗快活なはずの小夜にしては違和感がある。



「……答えられないって、どういうこと」



やや語気を強めた僕の声が、八畳間に反響する。なるべく触れてこないようにしてきたけれど、考えてみればそもそもが不自然だったのだ。無邪気で奔放な性格の彼女が、どうして死ぬことになったのか。僕がここを離れていた四年間に、いったい何があったのか。


──思えば昔から、僕たちは殆ど学校で遊ぶことはなかった。彼女の交友関係は僕と小夜、叶兄くらいのものだし、再会してからあれほど聞いた昔話にも、学校での話は一切、出てきていない。偶然とは思えなかった。


あまつさえ、小夜のこの態度は、明らかに何かを知っている。その程度の類推は、僕にだって出来ないわけではなかった。──だから、自然に心臓が早鐘を打ってしまう。締め付けられるようなあの痛みが、少し走った。



「……彩織ちゃんは、あやめちゃんの家のこと、どれくらい知ってるん?」



長い長い沈黙だった。時間に換算すれば、一分程度しか経っていないかもしれない。それでも今の僕には、そこまでに感じられた。

ようやく口を開いた小夜の声は、咽喉の奥から何とか絞り出したかのように、力なく漏れていく。それが何故だか、痛々しい。



「母親が出稼ぎで父親が病気がちだったから、おじいちゃんとおばあちゃんで、昔からあやめちゃんの面倒を見てたんでしょう」

「そうなんやけど、それだけじゃないんよ。彩織ちゃんはたまに遊びに来るくらいだから、知らないのも不思議じゃないけど……」



それだけじゃない──そんな、たった一言の意味さえ訝しむ暇もなく、彼女は続ける。



「……そもそも椎奈家は、半ば村八分なんよ」



村八分。現代ではなかなか聞くことがない単語を耳にして、僕はほんの一殺那だけ拍子抜けする。──矢庭に、脳髄を何かで掻き乱されたような気がした。頭蓋骨を鈍器で力の限り殴りつけられている。眩暈めまいが酷い。目を開けていられなくなって、目蓋を固く閉じた。いまさら脈搏が幾つを打っているのかは関係がない。それよりも締め付けるような痛みが胸のあたりを不快に這いずり回っている。



「お母さんは出稼ぎで殆ど帰ってこないし、お父さんは病気がちで、しかも外に出る日なんて月に一度のもんだから、ずっと親のおじいちゃんとおばあちゃんが付きっきりだったんさ。もともとお父さんが静養するために町から越してきたみたいだから、余所者扱いされてん。しかも言い方は悪いけど、あの家はそんな状況だから、非社交的な感じで……」



僕の心境を知ってか知らずか、小夜は独白のように言葉を繋いでいく。その面持ちがこれ以上ないほどに痛々しくて、訊ねたはずの自分より彼女の方が辛そうなのを、少しだけでも疑問に思う程度の余裕は残されていた。



「……都会の人には信じられないと思うけど、こういう田舎にはまだ残ってるところもあるんよ。輪に入らないような家を除け者にしたり、昔の村八分みたいな、そういうんが。特に、おじいちゃんとかおばあちゃんの世代にさ。パパとかママ世代、ウチらの世代はあんまりいないけど、おかしいとは思ってる。でも、なかなか言い出せないんよ。言ったら、そこが除け者にされるって分かっとるもん」



滔々とうとうと吐き出しては止まらない胸の内を、僕は何とか聞き留めていた。小休止のように、彼女の口元から溜息が漏れるのも一緒にして、ただ呆然としていることしかできない。



「いつの間にか『あまり椎奈家には関わるな』っていう雰囲気ができてた。だから、あやめちゃんは小学校に上がっても、何ヶ月かは一人ぼっちだったんさ。でも彩織ちゃんに会ってからは、ずっと二人で一緒に遊んでた。それって多分、お互いに外の人だから、居心地が良かったんやないかなって思う」



小夜は卓に頬杖を突くと、そのまま続けた。



「彩織ちゃんが帰ってからも、放課後はウチや兄ちゃんと遊ぶようになってん。でも他の子は、殆ど遊ぼうとしなかったんよ。そんな感じで、ずっと卒業するまでいってて──」

「──でも、小夜たちも、どうせ学校じゃ皆と同じだったんでしょ。一緒に遊んでくれてたのは嬉しいけど、それじゃ意味がないじゃん。いじめと変わらないよ。やってること」

「……しょうがないじゃん。そうしないと、ウチらが仲間外れにされるんだもん。同調圧力とか言うかもしんないけど、こっちにはこっちで暗黙の了解みたいなのがあるんよ」



彼女は少し語気を強めて、そう返した。けれども僕には納得がいかない。両面で良い格好をするのが、本当に最善の手段だったのだろうか。明々白々に善悪が分かっていながら、敢えてその両面を取ろうとすることが──小夜たちの本心だったのだろうか。いっそのこと変えることは、できなかったのだろうか。


胸臆に沸々と湧いてくる心地の悪さを、今すぐにでも何処かに遣ってしまいたかった。けれども、どうにも仕様がない。皮膚に食い込む爪の跡を見詰めながら、そう諦観する。僕は視線だけでそっと、彼女に先を促した。刺さるような痛みが、まだ少し残っている。



「……中学校に上がっても、何も変わんなかった。こんな村に子供なんて殆どいないから、生徒もせいぜい数十人なんよ。相変わらずあやめちゃんのことを避けてて、でもウチらだけは放課後に遊んでて。絶対に分かってるんに、みんな、昔と変わんないままだった」



だけど、と小夜は呟く。



「お勉強は難しくなって、ウチなんか馬鹿だから全然テストで点数なんかとれなくて……。でも、それはあやめちゃんも一緒でさ。ウチは運動が少しできたからまだ良かったんに、あやめちゃんはそういう子じゃないし……。やっぱり、ずっと皆から浮いてた。それで、夏休みが過ぎた頃の話になるんやけど──」



そこまで言って、彼女はまた口を噤む。噤むというよりは、言い淀むような感じだった。伏せがちにした目の色は、前髪に隠されてしまってよく見えない。ただ親指の腹で目元を拭ったのが、分かりやすく憂いの色を示していた。やがて顔を上げると、小さな溜息に混じるようにして、小夜はいよいよ切り出す。



「──あの子、皆にいじめられてたんよ」



咽喉の奥から絞るようにして漏れた声は、震えていた。けれど今の僕には、そんなことに構えるだけの余裕が無い。この八畳間で自分だけが、底なしの暗澹に引きずり込まれていくように錯覚している。僅かな眩暈に、また眉をしかめた。それでも胸の何処かで、彼女の零した事実に納得してしまう僕自身がいる。



「初めは軽い悪戯で、あやめちゃんと遊びたいからやってるのかなって思った。でも、そのうち嫌がらせみたいになってきたんよ。だけど本人は気にしてなかったみたいやから、ウチらは遠目に見ててん。それが半年近く続いたけど、誰も止めんまま中途半端で……」



遠目に見てるだけで、良かったのだろうか。そこで一つでも声を上げていれば、何かが変わっていた可能性もありはしないだろうか──と言いかけて、咽喉の奥に飲み込んだ。結果論にあれこれと口を出すだけ無駄なのだろう。それでも糾弾したい気持ちはあった。



「……次の夏休みになる前にね、あの子の大事にしてる髪飾り、燃やされかけたんよ。だから流石にウチと兄ちゃんで止めに入ったん。『こんなん庇うんか』って言われたけど、これでも昔からの友達だから……。それで、おかしいと思ったから言い返してやったんさ」



なんて言ったの──と僕は先を促す。小夜はひとつ頷くと、語気を強めて話を続けた。



「気に入らないからって嫌がらせをするのは違うやん。人が大事にしてる物に当たるのもおかしいやろ、って。……そしたら、何も言い返さないで逃げられたけどね。でも遂にやっちゃったなぁって思ったん。今度はウチらが腹いせに嫌がらせされるんかなぁ、って」



諦観したような笑みを小さく漏らしながら、彼女は今一度、畳の上に座り直した。それから前髪を搔き上げて、「だけど」と加える。



「だけど、いい機会だから先生に告げ口したんよ。なのに誰も取り合ってくれないん。『空気を読め』って……。子供も大人も絶対に分かってるんに、『椎奈家の子だから』って関わろうとしないんよ。おかしいって思ったけど、最終的には先生に脅されちゃって……それからは、もう何も言う気になれんかった」



窓から吹き込んでくる宵の小夜風に背筋も震懾しんしょうして、僕は思わず、閉口しているだけではとても堪らないほどの義憤に駆られた。何かを吐き出したくて仕様がないのに、それが上手く出来ないから、また心地の悪さが胸元に巣食っていく。これほど粘っこいのは、吐いても吐いても吐ききれないような気がした。


少し内向的な家だから、何だというのだろう。郷に入りては郷に従えという文句も、ここまで来るともはや、異様な風潮だった。排外する相手には、何をしても構わないのだろうか。それを糾弾するだけの頭を、良心の呵責を、小夜たち以外にどうして持ち合わせていなかったのだろうか──どうかすると、一種の洗脳みたようなものなのかもしれない。


誰もが初めから、この風潮を安穏と受け入れたわけではないのだろう。どこかに一抹の希望は残っていたのかもしれない。ただ、いつしかそれすらも呑まれてしまって、無条件に現状を甘受せざるを得なくなったのかもしれない。やがて、そこに残されていったのは、あやめの友人であった小夜たちだけ──そんな都合の良い考察をするくらいには、そうでもしないと、今は気を保てそうになかった。



「……でね、あやめちゃんに言われたんさ。『二人に迷惑はかけたくないから、私のことは心配しなくて大丈夫』って。強がりって分かってたんに、何か言われるのが怖くて踏み込めなかった。ここであと一歩だけ進んでたら、何かが変わってたかもしれなかったんに──って、今でも、思い出すたびに後悔してるんよ。この時期になると、余計にさ」



彼女のその本音だけは、今まで聞いた何よりも酷いくらいに、玲瓏として透き通っていた。蛍光灯に爛燦と反照する瞳の色も、それが見据える黒洞洞たる藍も、全てのそのものが綺麗で、それなのにどこか、物悲しい。



「──だから、もう少しだね。夏休みが終わった四日後に、あの子は自殺したんだって」

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