八月二十七日
彼岸花
今日は朝から快晴だった。まだ弱い、燦々と降り注ぐ日差しの中を、僕はあの坂道を上って彼女を迎えに行く。稲田を見下ろすように
「あやめちゃん」
麦わら帽子を目深に
「ねぇ。いつも縁側に座ってるけど、まさかずっとここにいるわけじゃないよね……? きちんと寝たりしてるのかな」
「うん。幽霊だから夜行性ってわけでもないよ。そもそも今が何時とかまったく分かんないから、取り敢えず眠くなったら寝るの。適当に手探りで居間に戻って、畳の上で寝てるんだ」
その言葉に、僕は思わず硝子窓の向こうを覗いてしまった。何の変哲もない居間がある。座卓と座布団と、押し入れと、後は廊下か台所に繋がる襖が見えるきりだ。もちろん布団など敷かれていない。そもそも敷けるのだろうか──と心配になってきた。それ以前に、まだこの家には家具が残っている。あやめの家族はどうしているのだろう。彼女は『いつの間にか誰もいないお家に一人ぼっちで』と言っていたけれど、そういうことならば──。
「ねぇ、彩織ちゃん」
「うん?」
脳内を渦巻いていた雑多な思考が、彼女の一言で霧散していく。そのまま覗いていた硝子窓からあやめに視線を戻した。
「今日は踏切と駅の方に行くんだよね。私、駅はあんまり行ったことないから、楽しみなんだ。そろそろ行ってみよう」
「うん、行こう。僕も駅はあんまり知らなくて」
「あれっ、そうなんだ。じゃあお互いにあんまり知らない同士だね。彩織ちゃんがどう伝えてくれるのか、気になるなぁー」
悪戯っぽいような笑みで、あやめは縁側から立ち上がる。純白のワンピースが虚空に
「……えっと、どうしたの」
「彩織ちゃんが手を繋いでくれなきゃ、私、何処にいるか分からないでしょ。転んだりするのも嫌だし。昨日は殆ど歩かなかったけど、今日はたくさん歩く予定だもんね。ほらほら、早くぅ」
目の前でひらひらと振られるあやめの手を見て、僕は自分の気の回らなさを恥じる余裕すらなく、羞恥と緊張の色を多分に
「えへへっ。彩織ちゃんと手、握っちゃったねぇ」
あやめは僕の心境などつゆ知らず、余裕の笑みを洩らしていた。
「それじゃあ、レッツゴーだよっ」
握った彼女の手は、その見た目通りに小さくて、柔らかで、温かかった。それこそ幽霊なんかではない、生身の人間そのものだった。四年前の夏も、こうして手を繋いでいた気がする。目蓋の裏に、あの日の残影が浮かび現れてくるような、そんな気がした。
◇
『黄金色の稲田と紺青の
街路灯に寄りかかりながら、僕は手記を綴っていく。あやめは隣でその音を静かに聞いていた。今は離している手を遊ばせながらも、紙に擦れるシャープペンの芯の音、裾が奏でる衣擦れの音──夏に融けていきそうなそれらを全て、彼女は手にしているように思えた。そうして、僕の言葉も、きっと。胸臆にある古びた記憶に色を付けていくみたいに、あやめは辺りを見回していた。
「この踏切、結構ボロボロだよね」
まるでそれが見えているように、彼女は自然に言う。
「夕暮れになると、ちょっと怖いんだ。太陽が山の方に沈んでいくから、薄暗くなっちゃって。だから夜とかは近付きたくないんだけど、お家に帰れるのはこの道だけだし、我慢してたんだよ。それになんだか、この世とあの世の狭間みたいな気がするの。特に夏の終わりから秋は、曼珠沙華が咲いてるから、余計に」
「ねぇ。今は、咲いてる?」あやめは僕の方を向かずに、路傍を見詰めながら洩らす。雑草の生える砂利道には、線路の敷石が幾つか飛び散っていた。街路灯のすぐ傍らを、あの曼珠沙華は粛然として咲いている。夏風に悠々と散形花序の花弁を靡かせる様が、綺麗というよりもやはり、どこか物悲しいような気がした。
「一つだけ」
「そっか」
そういえば僕に曼珠沙華という呼び名を教えてくれたのは、他でもない彼女だったことを、いま不意に思い出す。それが何度目の夏だったかはもう、とっくに忘れてしまった。けれども幼少の目と耳に、あの黄昏と少女の声は焼き付いているような気がした。
「──私ね、彼岸花って嫌いじゃないよ」
その時もあやめは、今と変わらない口調で、そう言っていた。
「縁起の悪い名前だし、毒とかあるし、よくお墓で見るし、なんか怖いから、あんまり好かれてない花だけど……それでも道端でひっそりと健気に咲いてて、そういうの、なんかいいなって。だから、好き。毒があるから、あんなに綺麗なんだろうね。薔薇の花が綺麗なのも、きっと、棘があるからだよ。それなら人間でも、綺麗な人は、どこかにきっと毒とか棘があったりするのかな」
物悲しそうな面持ちで、彼女は軽風に揺れる曼珠沙華を見詰めている。暑熱にあてられて淡みを帯びた頬が、ときおり黒髪に隠されていった。その名残が薄膜を帯びた汗に張り付いて、一筋、二筋と線を描いている。気持ち程度の涼やかな風に吹かれながら、あやめはやがて目を瞑って、左手の中指で横髪を掻き上げた。
その横顔が綺麗だと感じているのに、僕は素直にそう捉えることが出来ない。天真爛漫なはずの彼女にも黒い部分があるのだろうかと思うと、どこか胸が痛むような気がした。たとえそれが僕の一方的な願望でエゴだとしても、何故だか彼女には、純真無垢であって欲しいのだ。その理由というのは、分からないけれど。
「──結局、人間なんて、そんなものだよね」
耳元で風が鳴る。洩らすあやめの声が、やや掻き消されがちだった。だから、と言おうか、けど、と言おうか──僕には、そう聞こえた。人間なんて。人間。人間はみんな、黒いのだろうか。僕も、彼女も、小夜も、叶兄も、誰も彼もに、毒と棘があるのだろうか。それなら人間とはいったい、何なのだろう。そう思った。
「ねぇ、彩織ちゃん」
弾むような彼女の声が、喜色をたたえて僕の耳に届く。つい先程の
「次は駅、行ってみようっ」
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