八月二十五日

九夏三伏、蝉時雨に降らる

「おはよう……」



まだ朦朧とする意識のまま、僕は居間に起床の一声を投げかけた。障子越しに昼下がりの陽光が透けて見えている。キッチンからは湯気が朦朦もうもうと立っていて、何かを湯掻いたような匂いがした。夏の昼食といえば、素麺だろうか。お出汁の香りもする。


今日は叔父夫婦と叶兄の姿は見えない。そういえば叶兄は街の方で就職したらしく、昨夜も早々に寝た気配がしたから、みんな仕事に出ているのだろう。居間にいるのは祖父母と小夜だけだ。祖母を除いた二人は、気侭きままにテレビニュースでも見ているらしい。



「おっ、彩織ちゃんやん。随分とお休みのことでなぁ」



僕に気付くなり、小夜はこちらに片手を掲げた。「昨夜は何時に寝たんやっけ? 九時過ぎか。そんなら、えーっと……えっ、十五時間も寝てたんか!? いや、ウチだってそんなに寝ないわぁ」



「すっごく寝た感じがする。久々の熟睡っていうか」

「そりゃそうやろ……。あっ、お昼ご飯は素麺やってさ!」



昨日と同じ定位置に腰を下ろしながら、僕は「うん」と返事した。相変わらず小夜からは柑橘類みたような爽涼が匂っている。祖母がお盆に乗せて麺つゆを持ってきてくれたが、その上に削られた柚子の香りと分からなくなるほどだ。氷水でしめた素麺の匂いなんかは、もう有れども無きがごとき状態になっている。


すると、それまでテレビを見ていた祖父がこちらに顔を向けて、



「彩織、その作務衣はどうだ。じいちゃん買っといたんだ」

「うん、雰囲気が夏っぽくていいんね。涼しい。ありがと」

「へへへっ、んなら良かった。和装は日本人の嗜みだぁな」



そう磊落らいらくに笑った祖父は、いつものように着物だった。といっても昨日みたいな紋付羽織袴ではなく、夏用の着物だ。だかしゃだか忘れたけれど、やや透けている生地だから、いかにも涼しそうに見える。僕が物心ついた時から祖父はずっと着物姿でいた。叔父や叶兄の甚平とか、この作務衣も、みんな祖父の好みだろう。



「よしっ、んじゃ素麺でも食うか! ばあさん、唐辛子!」



卓子に昼食が並び終わると、さっそく祖父は身を乗り出して唐辛子を要求した。僕と小夜は隣同士で顔を見合わせて、何がなしに笑う。唐辛子を持ってきた祖母が揃ったところで、小夜も料理に手を付け始めた。「いただきます」と手を合わせてから、僕も箸を持つ。「はい、いっぱいあるから食いな」と祖母が笑った。


──帰省先の、夏の昼下がりの、何の変哲もない、日常の一頁。





昼食を仕舞った僕は、昨日の通りに事を進めてみようとした。



「──ちょっと散歩してくるね、おばあちゃん」



昼下がりの陽光が枝葉の間から射し込んでいる。それが瓦葺きの数寄屋門や石畳に的皪てきれきとして、僕の視界の端に掛かっていた。門先で作務衣に合わせた雪駄の鼻緒を整えながら、後ろを振り返る。「もしかしたら、どこかで遅くなるかもしれないけど」

爪先で叩いてから、少しだけ鼻緒の位置を揃える。張り詰めた鈴みたく、清澄せいちょうな音色が、この一帯を微かに木霊こだましていった。



「うん、ご近所さんに会ったら挨拶してくりゃいい」

「雨宮の孫って言えば通じるかな」

「通じる通じる。雨宮は我が家しかいないから」



「分かった」と軽く頷き返して、僕は日記帳を片手に門を抜ける。格子扉を後ろ手で閉めると、下駄がカランコロンと鳴るような、そんな音がした。格子に透けた扉の向こうを見ると、祖母はもう玄関のあたりに歩いている。僕も顔を戻して真正面を見た。


黄金色に眩い稲田の間を、すべるように線路が走っている。その途中に踏切があって、遮断桿の塗装は昨日に見た時よりもずっと、色褪せて剥げていた。『踏切注意』の看板なんて、やはり鉄錆びていて殆ど読めない。朽ちかけているあの街路灯も、安穏と軽風に靡いている曼珠沙華も、変わらずそこに存在していた。


アスファルトの煌めく稲田の中の一本道は、夏陽炎に揺らいだか、果てが見えない。ただ茫々ぼうぼうとした昊天こうてんの紺碧だけを仰いでいて、後には悠々と立ち昇るだけの入道雲が、燦々さんさんと零れ落ちる灼熱に降られながら、眼下を見下ろして点在しているきりだった。


──しかし、久しく訪れたこの村を散策してみようと思ったものの、何処にどんな建物があるのかは殆ど覚えていない。要するに右手に行こうか左手に行こうかで迷っているだけの話なのだけれど、なんだかそれが、非常に重要な決断のように思えて、軽率にどちらへ行こうというのも躊躇ためらわれた。小さな苦笑が洩れる。


すると矢庭に、稲穂の匂いを乗せた薫風くんぷうが、髪の合間を通り過ぎていった。──右だ。そう決断するが早いか、僕の足は歩を踏み出す。あの風を追いかけるように、心持ち急いでいるような気がした。陽線に焼けたアスファルトの上を垣根に沿って、土埃のきな臭さに鼻をつまみたくなりながらも、見えない背中を追う。


足元の熱気が直に伝わってくるようだった。刺すような日差しが皮膚を猛禽もうきんの爪よろしく引っ掻いて、それがみるように暑い。言い知れぬ何かが沸き立つような気がするのは、この暑熱しょねつに当てられたせいという他に仕様がなかった。縁無しの昊天を目の当たりにして、物憂げな木々が、煙っている陽炎の向こうに見える。


道はそこで行き止まりだった。小さな林みたように現れた木々が行く手を阻んで、アスファルトをき止めている。左手に見えるのはやはり、稲田を掻き分けてゆく線路だけで、右手には民家に沿って畑があるくらいだった──が、どうやら違うらしい。行き止まりだと思っていた道路は、そのまま右に折れていた。視線が上に伸びていくのは、それが緩やかな坂ばいだからだろう。ちょっとした高台のところに向けて、道はまだ続いているようだ。


紺碧の空を仰いでいる木々は、やはり項垂うなだれて悄然しょうぜんとしている。その影がアスファルトに落ちては揺れ、落ちては揺れて、ちょっとした木漏れ日が目にも涼しそうな気がした。その中に足を踏み入れてみると、ふっと温度が変わる。青青とした木々の匂いが一帯に充満していて、仄かに混じっているのは、蒸したような土草のそれだった。柔らかな影が目蓋に落ちては消えて、何処から吹いたか、生ぬるい風が僕の背中を押していったような気がした。


緩やかな勾配をのどかな足取りで進んでいく。落ちる影を踏みながら、軽風に靡く枝葉を見上げていた。それが途端に晴れたかと思うと、木々の切れ間から青天井が覗いて、元のような日差しが僕の瞳を射してゆく。その眩しさに耐えかねて、思わず手で遮ろうとした──ところで、ふと目の前の光景に意識が引かれた。森閑に染み入る蝉時雨にすらも、僕は降られているきりだった。



「──あっ」



民家の軒先で日差しを防ぎながら、その少女は縁側に腰を下ろして、何処かを茫洋と見つめていた。横顔はかむっている麦わら帽子に遮られてよく見えない。ただ、肩の辺りまで伸ばした黒髪と純白のワンピースとが色の対比に映えていて、そこから覗いている肌は、この夏に焼かれたかのように健康的な色をしていた。


──そんな彼女の姿を、名前を、僕は、間違いなく知っている。それなのにどうして、今の今まで忘れていたのだろう。四年前にも通ったはずのこの道を、この風景を、匂いを、すべて、思い出せずにいた。僕の中から、彼女の存在だけが虚ろになっていた。幼い頃からたびたび顔を合わせた、顔馴染み以上で幼馴染未満の、それでいて僕にとっては、最初で最後の初恋の少女──。



「……あやめちゃん」



こちらを向いた少女には、曼珠沙華の髪飾りが覗いていた。

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