社畜たちへの史上最大のムチャブリ。――中世イタリアで、三年半生き延びろ

夜澄大曜

【序章】決戦の朝

【序章】

 誰かが僕の名を呼んだ。

 深い眠りの底から意識が引き上げられていく。

 しかし、覚醒するギリギリで、本能がそれを拒絶した。

 嫌だ。

 目を開ければ、一日が始まってしまう。

 

 

「――茶山さやまさん!」


 目が覚める。

 脳が一気に現実に追いつく。

 僕はブラック企業に勤める会社員ではない。

 いまは、一四九九年。

 ここは、イタリア半島の中部に位置するトスカーナ地方。

 都市国家ピサの郊外だ。


 わらを詰めたシーツの上で身を起こす。

 右手が熱いと思ったら、布張りのテントの隙間から陽の筋が伸びて、そこに当たっていた。

 外に立つ部下の影が、テントの壁にくっきり映っている。

 

「茶山さん? こんな状況でも爆睡できるの、凄いですね。ぐうぐういびきをかいちゃって、外まで聞こえてましたよ。ぶたの鳴き声かと思いました」


 声を聞いているだけで、彼女の呆れ顔が目に浮かぶ。

 上司に向かって、この暴言――朝から平常運転のようだ。


「ごめん、起きた。完全に起きた」


「ロンバルディア方面を探っていた偵察部隊が、南下する大軍を発見しました。ルイ十二世麾下きかのフランス軍と思われます。あと二時間足らずで、ここに到達するかと。また、リヴォルノに船で到着した別動隊は大砲を揚陸中、こちらも本日中にはピサに入るでしょう」


 フランス王ルイ十二世は、庇護下ひごかにあるピサを侵略者――つまり僕たちから救うため、親征の軍を起こした。その数、一万五千。本隊は陸路で、重い大砲類は海路で。かつて海洋貿易で栄えたピサは、この時代、土砂類の堆積たいせきによって海から切り離されており、リヴォルノがここから一番近い港町になる。


「すぐに移動の準備を――」


「身内にはもう指示を出しています。茶山さんも、すぐに支度を。一応、共和国軍の特別委員コッメサーリオなんですから、シャキッとしてください」


 テントの隙間から手が入ってきて、木の器に入ったスープを置いていった。

 食欲をそそるトマトの匂いが漂う。

 人影がサッとひるがえって消えた。

 僕は器を拾い、テントから出た。

 陽射しの強さに、一瞬、目がくらむ。

 

 なだらかな丘の斜面を埋め尽くす、人、人、人。

 既に整列を終えて点呼をしている隊、まだ朝食の後片付けをしている隊――

 てんでバラバラだ。

 武器を手にしていなければ、ピクニックに見えたかもしれない。

 その武器も、剣や槍、火縄銃のほか、チラホラと農具が混じっている。

 顔にあどけなさの残る若者や女性の姿も少なくない。

 こんな呑気のんきな侵攻軍は、なかなか珍しいのではないか。

 テントの傍では、男女ともビジネススーツを着た部下たちが集合しつつあった。

 柔らかな風に、『社畜』の二文字を白抜きにした紺色の旗がなびいている。

 この中世の世界で、明らかに浮いている一団だった。


 スープを一口飲んだ。

 まだ温かい。

 トマトの酸味とベーコンの甘さが、口いっぱいに広がった。

 いまから戦争をするなんて、嘘みたいだ。

 遠く、古都ピサの市壁が見えている。

 僕たちはその壁に触れることなく、この地を去る。

 追ってくるのは、フランス軍。

 伝統的な騎兵とスイス傭兵団の歩兵で構成された『最強』とうたわれる軍隊だ。

 そんな相手に、素人の集団で一戦まじえなくてはならない。

 耳の奥に、迫りくる騎馬隊のひづめの音が遠雷のように響いた。


 


 それでも――

 数々の犠牲を払って、ようやくここまでたどりついたのだ。

 二十一世紀に戻るためには、ここで敗れ、死ぬわけにはいかない。


 僕は奇妙な三年半を振り返った。

 すべての始まりは、あの日――

 社長のいつものムチャブリから始まった。

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