8章(5)
フィレンツェから、静寂が消えた。
雷に似た轟音が響き、重い風切り音を連れて砲弾が降ってくる。
様々な大砲をかき集めたらしく、弾の大きさは不揃いで、材質も異なっていた。鉄球はせいぜい直径十五センチ程度だが、石弾は大人でも抱え切れないほど大きい。
爆薬は入っておらず、撃ち出されて落下するまでに加わる運動エネルギーによって目標を押しつぶす。命中精度は低いが、この状況ではたいした問題ではなかった。
前方に飛ばしさえすればいい。
狙いをつけなくても、市壁のどこかには当たる。
壁を越えれば、直接、街と人に打撃を与えられる。
たった十数センチの鉄球でも、木造の建物を破砕し、人の命を奪うには十分だ。
砲撃は、一門ずつ、およそ十五分に一度の間隔で続けられた。
昼だけでなく夜も――つまり、一日中。
教皇軍の攻撃が始まって四日目。
十人委員会は連日開かれたが、議論の内容は初日から変わらなかった。
委員のひとりが、手を大きく振り回しながら弓鳴を
「なぜ撃たれっぱなしなのかね! 我が軍の力をもってすれば、あの
フランス戦の勝利は、政治家と市民に
弓鳴は努めて冷静に応じていた。
「対策には、もう少し時間がかかります。ただ、この街の市壁は簡単には崩れませんし、いまのところ被害は軽微です」
実際、四日間砲弾を浴び続けながら、市壁は崩れ落ちなかった。
もちろん、
街の被害も限定的だ。
砲弾は、街の東側にしか届かない。不運にも直撃を受けた市民十数人が亡くなったが、いまは政府と市民軍が連携して、住人の大半を街の西側に避難させている。
「――少し、発言しても良いだろうか」
『正義の旗手』、ピエロ・ソデリーニが軽く手を挙げた。
相変わらず雰囲気が柔らかく、権力者にありがちな威圧感がない。
今日は国家元首がこの委員会を傍聴しているのだった。
委員の了解を得てから、弓鳴に語りかける。
「
穏やかで、誠実さを感じる口調だった。
「しかし、市民の不安と不満は限界に達している。この状況で、これ以上、何もしないということはできない。当初の作戦に固執せず、あの大砲を黙らせる方法を考えてもらえないだろうか」
その通りだ、と委員たちからも声が上がる。
しかし、弓鳴は引かなかった。
「手持ちの大砲で、相手の大砲を潰すことはできません。当たりませんから。かといって、こちらから兵を出せば、大砲の後ろに控えている一万二千の兵士を相手にしなければならなくなります」
先ほどの委員が、テーブルに身を乗り出して騒ぎ立てた。
「では、撃たれるまま耐えろというのか! 夜も眠れないほど――」
轟音が響き、委員の声を遮った。
会議場にいる全員が、天井を見上げる。
市庁舎は、大砲の『射程距離圏内』をかすめて建っている。
いまこの瞬間、屋根を突き破って弾丸が落ちてきても、何の不思議もない。
遠くから鈍い着弾音が聞こえた。
どうやら、市壁に当たったらしい。
どよめきが落ち着くのを待ってから、ソデリーニが会話を再開した。
「……確かに砲撃による死者の数は少ない。しかし、その少数の中にあなたの家族が入っていても、『被害は軽微』と言えるだろうか」
「言えます」
弓鳴は断言した。
「なるほど」
ソデリーニは溜め息をつき、ひとつうなずいた。
「これ以上の話し合いは無益だ。……大砲を奪取する作戦を、
「市民の不満を晴らすために、兵士を無駄死にさせろとおっしゃるのですね」
口調は抑制されているが、強い棘がある言葉だった。
ソデリーニが目を伏せた。
「この国では、市民ひとりひとりが
内心では、弓鳴の言う通りだと感じているのかもしれない。
委員会は幕を閉じ、その日のうちに大評議会で作戦が承認された。
× × × ×
街中に陰鬱な空気が漂い、それは社員たちにも伝染していた。
その夜、僕は気分転換のために、社畜工房の中庭で食事会を開いた。
幸い、工房は街のやや西寄り、砲弾が届かない地区にある。
避難してきたヴァル・ディ・トッリ組も参加し、久しぶりに懐かしい顔が揃った。
シェフは、すっかり食事担当になった米沢さんだ。
ワイン、パン、ウズラの肉が入ったチキンスープ、チーズが散らされたレタスのサラダ、仔牛のローストビーフ。肉にはケチャップに似たソースが添えられている。
弓鳴がテーブルを叩いた。
昼間の委員会をまだ引きずっているようだ。
「あー、もう! あのオヤジ、ムカつく! 『市民が君主』? 美しく聞こえるけど、自分の無能さを市民の責任にすり替えているだけじゃないの?」
ソデリーニのことを、さんざんこき下ろしている。
何となくソデリーニの気持ちが分かる僕は、聞き役に徹していた。
「貴重なイケオジやのに、中身が残念やな。まあ、命令ならしゃーないって」
晴川が肩を叩いて慰める。
「ごめん弓鳴、遅くても明日には終わるから」
匠司が申し訳なさそうに言った。
近頃、匠司はほとんど一日中
靴屋は、靴で勝つ――
弓鳴と匠司が立てた作戦には、どうしてもその靴が必要だった。
「いいの、どっちにしても、まだ早い。……市民だって、戦うことを選んだ以上、少しくらい耐えるべきなのに」
「まあ、そこは……、みんな精神状態が普通じゃないからね」
僕の言葉に、弓鳴が力なくうなずいた。
騒ぎ散らしたり、泣き続けたり、精神に異常をきたす者が続出している。
「『シェル・ショック』といって、砲撃の音は、人の精神にかなりのストレスを与えるらしいです。それが昼夜問わず、ですからね――」
間断なく砲撃を加えることで、まず市民の心を壊す。
社長らしい作戦だ。
しかし委員会で弓鳴が説明したように、有効打はない。
大砲を何とかしたところで、一万二千人の敵兵が無傷で待ち構えている。
そこに、一人の青年が駆け込んできた。
「親方はいますか!」
匠司が、食べ物が入った口を押さえながら立ち上がった。
「大変です、親方。工場が――」
アルノ川沿いの工場が燃えていた。
連日、夜間も交替で作業をしていたが、砲弾が建物に直撃して灯りが倒れ、火が床に回ったという。僕たちが駆けつけたとき、隣接した倉庫にも炎が移っていた。職工たちが倉庫と川岸を往復して生産品を外に運び出していく。
すでに建物の一部は完全に炎に呑まれている。
中に入ろうとする匠司の腕をつかんで引きとめた。
「諦めよう! いくらなんでも危険すぎる」
工場で薬品が燃えたのか、強い刺激臭が鼻を突く。
建物から離れていても、熱波が届いて、肌がチリチリと痛む。
重い煙が漂って、視界さえ十分ではない。
しかし、匠司は首を横に振った。
「行かせてください。納品するまでが仕事じゃないですか」
「アカンって。また作ったらええやん」
晴川が両手を広げ、横幅のある体で匠司の行く手を塞いでいる。
「いや――これ以上、待たせられない」
「ダメだよ……死んじゃうよ」
匠司はじっと弓鳴の顔を見つめた。
その数秒の間に、何を思っただろう。
「……僕は、弓鳴みたいに戦えない。茶山さんみたいに組織を動かすこともできない。晴川みたいな会話の技術もない。あいつみたいに誰かの犠牲になる勇気もない。だから――ここなんだ。ここが僕の戦場なんだ。邪魔しないでくれ!」
「でも……!」
弓鳴が涙声で訴えた。
匠司はぎこちなく笑った。
「弓鳴、僕たちの作戦を頼むよ」
「――分かった……」
弓鳴が匠司の服から手を放した。
大きな音を立てて、先に火に包まれていた工場の屋根が
アルノ川から水を汲んできた
煙が邪魔で、誰が誰だか分からなくなる。
一度、煙の切れ間に匠司を見た。
ほとんど上裸で、体はひどく痩せていたが、懸命に物を運ぶ姿は
八割ほど出し終えたとき、砲弾の音がした。
運んでいる最中、何度も聞こえたが、感覚が麻痺していちいち反応していなかった。しかし、今回はそれが近づいてくる。
空を裂く重い音で分かる。
大きな石弾――
倉庫に落ち、炎を散らしながら屋根を突き抜ける。
匠司は、モノづくりの仲間たちと運命を共にした。
× × × ×
砲撃が始まって五日目の朝。
弓鳴が十人委員会で、深夜に行った奇襲の報告をした。
大砲一門を潰すことに成功。
しかしその代償として、傭兵と市民兵併せて百人以上を失った。
損得が釣り合っているのかどうか、誰にも分からない。
委員のひとりが、思い出したように言った。
「そういえば、昨晩、川沿いにある市民軍の倉庫で火災があったと聞いたぞ。大丈夫だったのかね。これ以上、作戦に支障が出たら大変だ」
弓鳴はうつむいた。
「改装した戦車と靴の八割は無事です。工場と倉庫が倒壊し、職工が何人か亡くなりましたが――」
顔を上げ、委員を真っ直ぐ見つめる。
その顔に、涙の跡はない。
「被害は、極めて軽微でした」
その日の夕方、砲弾によって市壁が大きく砕け、大きな割れ目が走った。
連鎖するように、あちこちで
誰もが感じていただろう。
いよいよ、そのときが近い。
弓鳴はフィレンツェが持つ大砲をすべて配置し、全軍に待機命令を出した。
四月二十九日。
夜明けとともに、教皇軍との総力戦が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます