5章(4)

 翌日から、ジョルジョは葡萄園を見て回った。

 土や葡萄を熱心にチェックしているのを見て、少し後ろめたい気持ちになった。

 結局、商談がまとまったのは三日目の昼だ。

 二十一世紀の価値でいうと約五十万円もの大口購入。

 届け先の住所はフィレンツェ市内になっていた。


「サヤマ、ありがとう。おかげで収穫の多い三日間になりましたよ」


「いえ、こちらこそ。あんなに買っていただけるとは思いませんでした」


 なごやかな空気の中に、突然、鋭い声が差し込まれた。


「嵐が来ます」 


「……はい?」


「これから、すぐに。、サヤマ。皆さんで一時的にどこかに避難することをお勧めます。それができない場合、困ったときには、『訪問者』に対して、こう言いなさい。『フィレンツェ政府の十人委員会ディエチ・ディ・バーリアの使者、ニコロ・マキャベリの友人』だとね」


「ニコロ……マキャベリ……?」


 マキャベリという名には聞き覚えがある。有名な本を書いた歴史上の人物ではなかったか。ただ、具体的な書名や人物像については知識がない。


「私のもうひとつの名前です。あなた方シャチクとここのワインは、薄汚い嵐で失うには、あまりに惜しいのでね。フィレンツェでまた会いましょう」


 意味深な発言を残して、ジョルジョもしくはニコロ・マキャベリは去っていった。

 農場帰りの弓鳴をつかまえて訊いた。


「ニコロ・マキャベリって、有名人かな?」


 弓鳴が顔を輝かせる。


「超のつく有名人ですよ! 『君主論』の著者!」


「あっ――」


「知ってますよね、さすがに? ビジネス書でも取り上げられたりするし」


「『君主論』――社長が好きだった、池袋の高級セクキャバだ」


「死ね! 政治学の聖書ですよ? まさか、あの人が――」


 弓鳴があたりを見回すが、マキャベリはとっくに馬で走り去った後だった。


「そんなに凄い人という感じはしなかったけどな……」


「いまの時期に何をしていたかは、よく分かっていません。来年、サヴォナローラが処刑されて何年か政府がゴチャゴチャしたあと、ピエロ・ソデリーニという人が政府の代表として長期政権を敷くのですが、マキャベリはその時期に官僚として活躍するんですよ」


「官僚ねえ……? フィレンツェ政府十人委員会の使者と言っていたけど」


 弓鳴はうーんと唸った。


「使者……、どうとでも取れる言い方ですね」


 これからすぐに、嵐が来る。

 どういう意味なのか分からないが、警戒が必要なことは確かなようだ。


 × × × ×


 役員会はもう僕しか出席していない。

 連絡会の面々を集めて意見を聞くことにした。


「ヴァル・ディ・トッリが、戦争に巻き込まれるんちゃいます?」


 晴川は、行進する兵士たちを見て以来、ずっとそのことが頭にあるようだ。

 遊馬が一笑に付して、


「おい、恵――戦争って、こんなのどかな村で? どこと戦うの? ないない」


「アホは気楽でええなァ。茶山さん、言ったって!」


「……実際、キナ臭い雰囲気があるんだ。三日前、晴川と村に行った帰りに、百人くらいの武器を持った集団を見かけた」


「でも、今日まで何もないんでしょう? 関係ないんじゃないですか? おれらだって、ここに来たときに余裕で百人超えてたじゃないですか」


 遊馬の反論はもっともだ。

 そもそも敵対勢力が襲来すれば、傭兵上がりのジョバンニが黙っていないだろう。日頃の訓練の賜物たまもので、よそ者に対する村の警戒体制は、かなり厳重だ。丸腰の僕たちが訪れたときでさえ、銃で歓迎されたくらいだった。

 弓鳴はマキャベリの動向を気にしていた。


「マキャベリが口にした『十人委員会』というのは、フィレンツェ政府の対外戦争と外交を担当する執務機関です。何か、外国が絡んだ大きな事件が動いているということかな」


 急に話が大きくなってきて、頭の理解が追いつかない。


「真記ちゃん、いまフィレンツェと敵対しとる国ってどこなんやったっけ?」


 晴川に訊かれた弓鳴は、部屋の隅に並んでいるブーツを一足手に取った。

 冬を見据えた新作シリーズの見本として匠司が持ち込んでいたものだ。

 テーブルの上に、つまさきを左に向けて置く。


「これがイタリア半島だとすると、フィレンツェは、ここ」


 弓鳴は、ブーツの筒丈シャフトの上部中央あたりを指で叩いた。

 周辺をひとつずつ指し示しながら、国名を上げていく。


「敵対勢力と言えるのは、まず南のシエーナ共和国、さらにその南のローマ教皇領。西にあるピサ共和国、北にあるミラノ公国、北東にあるヴェネツィア共和国……」


 遊馬がうめいた。


「待った。敵ばっかりじゃん。というか……四面楚歌なの?」


 弓鳴はブーツの左上から、スッと下に指で線を引いた。


「三年前、フランス軍が半島に侵攻してきたとき、フィレンツェは抵抗せずに真っ先に膝を折ったんだよ。そのときの最高権力者が、ピエロ・デ・メディチ。侵略されて国がボロボロになるよりはマシだと思ったんだろうけど、市民はかなり強い屈辱を味わって、それが追放の原因にもなる」


 弓鳴の指がブーツの脛に当たる部分を下り、ブーツの甲革アッパーの近くで止まる。


「フランス軍は、ここまで南下して、ナポリ王国の首都を占拠した。でもフィレンツェ以外のイタリア諸国とスペインが『神聖同盟』を組んで、最終的にはフランス軍を半島から追い出すことに成功する」


「めっちゃ気まずいやんフィレンツェ」


「まあ――周辺国から好かれてはいないよね」


 僕は説明を聞いても釈然としなかった。


「フィレンツェに敵が多いのはよく分かった。でも、国境付近ならともかく、首都に近いこの村が、急に戦場になったりするものかな」


 避難民が出るとか、戦争の噂が流れてくるとか、何か前触れがあっても良さそうなものだ。確かに、と弓鳴もそれを認める。

 それまで黙って話を聞いていた匠司が口を開いた。


「何が起こってもいいように、武器と人を揃えておくべきです。銃は、二十挺はもう準備が出来ています」


 剣はおまえの担当だ、と言いたげに遊馬を見る。


「銃、銃、銃――おまえは最近、すぐそれだ」


 遊馬が苦々しく吐き捨てた。

 匠司も黙っていない。


「銃を上手く使えば、戦争に巻き込まれても死傷者を減らせる」


「そんな便利な道具があるから、すぐに暴力でどうこうしようって考えになるんじゃないか? まずは、戦わずに済ませる方法を考えるべきだ。話し合いとか――」


「手ぶらで正義を語ることが許されるのは小学生までだ。交渉するにしたって、財力か軍事力がないと。そもそも、村を守るのは義務なんだぞ」


「攻撃されたら、そりゃおれだって自衛をするよ。されたらな。でも実際、いまは何も起こってないんだから」


「されてからじゃ遅いだろう」


 言葉の応酬が、いつ果てるともなく続く。

 弓鳴と晴川が、呆れ顔でそれを見守っている。

 窓の外を見ると、もう陽が暮れていた。


「よし、今日はここまで」


 僕はいったん議論を打ち切った。


「武器だけは、揃えておこう。今夜の外出は禁止。で、いつもより多めに見張りを立てる。いったん、それでどうかな?」


 遊馬と匠司は、不満そうにしながらも、それぞれうなずいた。


「よし、じゃあ手分けして、みんなに建物の中に入るように声を掛けよう」


「あっ――」


 弓鳴が小さく叫んだ。


「そういえば、いま、朽木さんたちが村に行ってます」

 

 数日前、朽木さんにワインの輸送をお願いした。

 よりによって、今日、出かけているとは。


 遠くから、鐘の音がした。

 僕たちは一斉に立ち上がった。

 僕たちの住む教会に鐘はない。

 鐘楼しょうろうはあるが、肝心の鐘が残っていなかったのだ。

 だからこれは、村の教会の鐘が立てている音ということになる。


 その騒々しい音が、嵐の始まりを告げた。

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