午前三時の小さな冒険――May

 午前三時、私は激しく後悔した。

 年期の入ったサークル棟は映画に出てくる旧校舎のように不気味だ。点滅する電球が恨めしい。

 そろりとドアノブに触れた。ひやりと、手のひらに冷気が伝わる。ドアノブに力を込めるとあっさりと回った。

 どうせなら、回ってほしくなかった。開いてなかったら、諦めて帰ったのに!

 逃げ出したいのを我慢して、音をたてるドアを押す。

 正面は行き止まりの掲示板。左右に別れた通路。左に視線を走らせる。会議室、美術部、演劇部、と木片が立て掛けられたり、テプラーのシールと、各部がそのドアの所在を示す。左の奥から二番目のドアから声が漏れていた。元々は大きな部屋を板で区切っただけの部室は壁が薄い。

 内容までは分からなかったが、人がいることに私は安心した。

 いや、本当に人だろうか。照明がついていない。さっきまで見ていた映画が無意味な恐怖をあおる。

 思考を封印して、右を向く。

 映画研究部は右の一番奥だ。右の廊下の先は無法地帯だった。倉庫のような広いスペースは床も壁も天井もコンクリートがむき出し。各部室を美術に使われるような展示板で区切っていた。もちろん、その板は天井まで届いていない。

 足音を立てないように、右の通路と呼べないような区切られたスペースを進み、目的の映画研究部へ足を踏み入れた。

 机の上で緑の明かりが点滅している。

 手足の長いうさぎのストラップがついた携帯を手にした。携帯が手元に戻って、肩の力を抜く。


 よし、帰ろう。


 ロックナンバーを打ち込んで、携帯を起動する。メッセージを確認しながら暗い通路を歩いた。


「あれ、渡瀬わたせさん?」

「ぎゃあぁっ」


 いきなりの呼びかけに悲鳴を上げた。声をした方を見るのが恐くて、背を向ける。目の前は行き止まり。最悪だ。

 バクバクと暴れる心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。

 そう、私は渡瀬だ。

 人外は私のことを渡瀬と知っているのだろうか。ゆっくりと振り替える。


「えぇと……妹尾せおくん?」

「はい、正解」


 妹尾くんは柔和に笑った。

 心臓は未だに爆走しているが、何とか名前が思い出せた。

 私は安堵して、彼に近づく。

 妹尾くんとは同じ人文学部で、同じゼミだ。ちなみに、日付の変わる前にも同じ講義を受けている。染めたのか地毛なのか分からないが、柔らかい癖のある茶髪だ。それが彼の柔和な笑顔に似合っていた。

 気になって、妹尾くんに問いかける。


「どうして、ここにいるの」

「写真の現像。渡瀬さんは?」

「携帯忘れてて……」

「わざわざこんな時間に取りに来なくてもいいじゃん」


 妹尾くんが言うことはごもっともである。


「……ちょっと、さっき、携帯を落としたら、恐ろしいことになる、映画を、見たばかりだから……放っておけなくて……」


 私は歯切れ悪く答えた。

 映画ねぇ、と妹尾くんは何とも言えない表情をしている。


「こんな時間までよく気が付かなかったね?」

「……さっきまで有志で集まって、恐い映画鑑賞会してたんだよね」


 妹尾くんの言葉に言い訳しながら私は体を小さくした。


「人のこと言えないけど、映研えいけんって――」

「妹尾。誰? その子」


 妹尾くんの言葉を遮って、声が飛んでくる。

 眼鏡をかけた美女が現れた。ぜひ、女性教師か、女医として出演していただきたい。


「同じゼミの子ですよ」


 私の妄想は妹尾くんに邪魔された。

 ん? もしかして、部室で妹尾くんと美女は二人きり……純愛物語。いやいや、陰謀を阻止する作戦会議を――


「渡瀬さんのアパートって、スーパーオノヤマの近くだよね?」


 またしても、妹尾くんに妄想を邪魔された。


「え、うん」


 反射的に答えた後に、何で知っているんだろうと思う。

 私が訊く前に妹尾くんは歩き始めた。


「じゃあ、近くだね。一緒に帰ろ」

「あの、さっきの人は?」


 慌てて追いかけて、妹尾くんに質問をぶつける。自分より美女のことが気になった。

 妹尾くんは振り返り、可哀想なものを見る目を寄越す。


「……帰ったよ。気付かなかった?」


 深夜テンションに現実は厳しい。妄想を膨らました自分が恥ずかしくなった。

 私が乾いた笑い声をあげると、妹尾くんは肩をすくめた。キザな態度も悪くない。

 再び歩き出した妹尾くんの背中を追う。


「センパイ、無駄な事が嫌いだからね。あ、そう、って帰っていったよ」

「そういうの、憧れるかも」

「そうなの?」


 妹尾くんは自転車の鍵を解錠しながら言った。

 がしゃん、と夜の空気に響く。


「皆の意見を気にしてると、自分の意見がわからなくなるから、羨ましいなぁって」


 私も自転車の準備をしながら、羨んだ。

 ふーん、と妹尾くんは曖昧な返事をする。

 サークル棟から、校門までの短い道を無言で歩いた。歩行者用の校門を抜けて、信号を待つ。

 車用の校門は警備員に管理されているが、歩行者用はほぼ放置されていた。理学部や農学部は泊まり込みで研究することもあるらしい。警備のことはわからないが、その兼ね合いかもしれない。


「よく一人で来れたね」


 妹尾くんの言葉に反応が遅れる。少し眠たかった。


「あー……こんな遅くに人に迷惑かけるのもどうかなって。あ、でも結局、妹尾くんにはお世話になっちゃったね」

「帰り道だから気にしなくて良いよ」

「私が強ければなぁ」

「あの日本人形みたいに?」

「日本人形?」


 妹尾くんも妄想癖があるのだろうか。

 頭をひねる私に妹尾くんは少しを眉尻を下げた。


「あ、ごめん。わからないね。この前、髪が真っ黒で長い人と歩いてたでしょ?」


 日本人形。髪が真っ黒。長い――


深川みかわさんのこと?」

「へぇ、ミカワさんって言うの」


 深川さんが強いとはどういうことだろう。何となくわかるような、わからないような。

 信号が青に変わる。 

 妹尾くんと私は自転車のペダルに足をかけてこぎ出した。訊くタイミングを外す。

 妹尾くんがゼミの話題を振れば、七分の距離もあっという間だ。


「私、あの信号渡ったらすぐだから」


 スーパーオノヤマの斜め向かいにあるコンビニに自転車を止める。

 次の信号を渡れば、私のアパートはすぐそこだ。

 妹尾くんもつられて、私の前で自転車を止めた。コンビニの明かりで表情がよく見えない。

 コンビニの入店音につられて顔を向けた。

 誰も自動ドアを利用していない。


「じゃあ、またね」


 耳に妹尾くんの声が届く。

 慌ててそちらを振り向いたが、誰の姿もなかった。



×××



 午後三時、私は自分の目を疑った。

 ゴールデンウィーク明けの陽射しは目に痛い。思い出したように瞬く。

 スーパーオノヤマの自転車置き場に妹尾くんがいた。


「あれ、渡瀬さん?」

「はい、渡瀬です」


 私の真面目な答えに、妹尾くんは可哀想なものを見る目を返した。


「……買い物?」


 買い物袋を片手に持った妹尾くんは、私に訊いた。


「うん。妹尾くんも?」

「終わったけどね」

「何作るの」

「聞いてどうするの」

「明日の晩ごはんにする」

「今日じゃなくて?」

「今日は冷麺の気分」

「冷麺良いね」

「おすすめだよ、木耳きくらげキムチ」


 妹尾くんが微妙な顔をしている。一回、口を開いたが考え直したのか、口を閉じる。再び、妹尾くんは口を開く。


「渡瀬さんって意外と勇者だよね」


 妹尾くんは柔和な笑顔を残して立ち去った。

 私は頭をひねる。

 誉められている気がしなかった。

 あ……明日の晩ごはん候補、聞けてない。



×××



 午前三時、私は混乱していた。

 事の発端は、昭和の映画だ。木耳キムチ冷麺を食べて動画サイトを見ていたら、時計はぐるぐると回っていた。

 夏祭りのシーン。山盛りのかき氷を見て、それが食べたくなった。かき氷は無理でもアイスがほしいとサンダルを引っかける。

 初めての夜の散歩にくわえて、初めての深夜のコンビニ。少しわくわくした。

 コンビニの入店音が鳴る。


「あれ、渡瀬さん?」


 縞模様の制服を着る妹尾くん。

 昨日の講義。昨夜のサークル棟。今日のスーパー。深夜のコンビニ。

 もしかして、妹尾くんは、


「ドッペルゲンガー……?」

「はは、渡瀬さんって面白いね」


 妹尾くんは相変わらずの柔和な笑顔だ。

 私の冒険には妹尾くんがいつも付いてくる。



(終)

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