第2話 100万円
「トクマツ株を買わないやつはバカだ。上がるとわかっている株があるのに買わない阿呆がどこにいる。ここで買わなければ、お前たちのくだらない人生はくだらないまま終わるんだ。たった20万円用意すればいい。それができるかできないかがお前の人生の分岐点だ」
Twitterの名前は「ねこ男」。彼の言葉は、まさに人生どん詰まり、進むことも戻ることも将来に期待することもできず、毎日生きながらえているだけの私の胸に刺さった。株式投資への知識は、ほとんどなかった。証券口座を開設したら、誰でも株を買えること。株価は、毎日変動していること。中には1億円以上の資産を動かす個人投資家もいるということ。それくらいしか知らない。
私とは無縁の世界だと思っていた株式投資が、Twitterのタイムラインに突如あらわれた。20万円という現実的な数字が私の心を動かしたのかもしれない。彼の名前は聞いたことはなかったけど、プロフィールを開いてみると、フォロワーが2万人もいるいわゆる「有名人」だ。有名人が、こんなに推している株なんだからきっと上がるに違いない。
その証拠に彼のツイートはなんどもリツイートされて、たくさんの「買いました!」っていうリプライが連なっていた。これは本物に違いない。リプライしている人、リツイートしている人もみんなフォロワー数が多い有名人だ。
これまで、何度自分を変えようとしても行動すらできなかった私が、彼の言葉に突き動かされて、気づいたらインターネット証券の口座開設ボタンを押していた。口座開設だけなら無料だし、お金なら少しだけ蓄えがある。20万円で将来の希望が買えるなら安いものではないか、と。
当時実家の子ども部屋で暮らしていた私は、給料が安くても貯金はそこそこあった。35歳にもなった工場勤務している独身の私を両親は、哀れんでか諦めてか、何も言わずに家に置いてくれていた。貯金の残高はちょうど100万円。トクマツという株は5つ買える。
インターネット証券といえども、口座の開設には時間がかかる。申し込みをしてから大体1週間は必要だ。でも我慢できずに、インターネット証券のトレードアプリをダウンロードして、ねこ男が推していたトクマツという会社の株価の推移を見守った。
日本では株式市場は午前9時に開場して、午前11時半に前場がおわる。1時間の休憩を挟んで、12時半から後場が始まり午後3時で閉場。実質株価が動いているのは、5時間だけだ。でもその5時間で株価は大きく変動した。トクマツの株は1株2000円前後で、100株単位で売買可能だった。つまり最低でも20万円なければ、トクマツ株を購入することはできない。私の貯金は100万円だから、株価が2000円以下でなければ、トクマツ株は買えない。
「私の口座開設を完了させるまではどうか2000円を超えないで」
100万円が2倍になったら200万円。でも4つしかトクマツの株が買えなかったら200万円にはならない。ところが、私の願いもむなしく株価はどんどん上がっていった。ねこ男のツイートをチェックしながら株価を見ていたが、たった1日で2000円が2300円になった。もう私の100万円で、トクマツを5つ買えなくなった。
「早く、早く口座開設の書類が届いて」
口に出して祈りながら、口座開設手続きを待ったけど結局私が口座を開設するまでに、トクマツの株は3000円を超えてしまった。あの時、口座を持っていれば私はトクマツを5つ買えて、今頃100万円は150万円になっていたはずだった。でもまだ間に合う。ねこ男は相変わらず、ツイートを続けていた。
「4桁は通過点だ。トクマツのポテンシャルを考えたら5桁は軽い。こんなところで手放すやつは、一生そうやってチャンスを棒に振り続ければいいんだ」
あまりの悔しさに口の中が血だらけになっていた。頬の内側を噛んでいたらしい。痛みよりも口惜しさが優っていた。でも、まだ間に合う。ねこ男は、これからもっと上がると言っている。私が初めて見たトクマツは2000円以下だった。それが今は3235円。100万円でギリギリ3つ買える。これは運命だ。3つ変えればいいじゃないか。ここから1万円になったら私のお金は300万円になる。
証券口座の開設が完了した瞬間に銀行から、100万円を送金して、トクマツを3つ買った。買うまでに、トクマツの情報は嫌というほど調べた。主にねこ男の発言によって身につけた知識ではあったが、トクマツの一般社員よりもトクマツに詳しいと自負できるほどに、トクマツの決算情報や、経営計画などを知っている。
この会社は、昭和58年に創業して、それ以降社長はずっと変わっていない。上場してから30年。東証の中では老舗といえる立ち位置らしい。主な事業は不動産売買。ねこ男曰く、国策に絡む案件があって、それが明るみに出たら株価はあっという間に数倍になるというのだ。トクマツの株は全部で10万株発行されていて時価総額はその時30億円を超えた程度だった。いわゆる低位株と呼ばれるもので、買いが殺到するとあっという間に株価は上昇するのだ。もちろんこの知識は全部ねこ男の受け売りだ。
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