兄妹の章

廻り出した歯車

「アスティン、アスティンっー!……クレアっ!!」

 鈴の音の様な、美しい声が響く。

「……もうっ、何処に行ってしまったのかしら」

「どうかしましたか?アリエス様」

 美しい柳眉を顰め溜息交じりに呟くと、目的のものではない、幼い声が届いた。

「……フランツ」

 振り向くと、予想通りの少年が立っていた。

 色素の濃淡といった差は有れど、大地の茶、生命の緑の色を持つグラティア族では珍しい、金髪碧眼の少年。

 柔らかく波打っている金糸は太陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。

 ふっくらとした唇、白磁の肌、大きな瞳。少女と見紛う愛らしい容姿は、まるで神の寵愛を一身に受けているかのようで、以前神に仕えていた彼女にとっては、少しだけ特別な少年だった。

「アスティンが見当たらないのよ。……クレアも居ないし、ひょっとしたら2人で遊びに行っているのかもしれないわ」

 その言葉に、2人を良く知る少年は苦笑する。少女の方は兎も角、少年はじっとしている事の出来ない活発な性格だ。じっと座って小難しい知識を蓄えるよりも、身体を動かし冒険する方が好きなのだ。いくら次期族長候補とはいえ、周りの同世代の子供達が教わらない難しい話をするのは無理があると思う。彼はまだ、幼いのだ。

「アスティンはまだ小さいのだから、勉強を減らして、もう少し遊んでいてもいいんじゃないですか?」

 アリエスは、少年の言葉に呆れた表情を浮かべる。

「まだ小さいって……貴方と3つしか違わないじゃない」

 貴方も幼いのだと言外に告げると、少年はくすくすと微笑む。

「確かにアスティンとは3つしか違わないけど……僕はもう人です。まだ神のひごかにあるアスティンとは違いますよ」

 大人びている割にまだ僅かにあどけなさを残す言動をする少年を、アリエスは何処か複雑そうに見下ろした。


 グラティア族では、産まれて間も無い赤子は魂と肉体との繋がりが希薄な為、直ぐに離魂し、再び神の御許に戻ってしまうとされている。その為、弱く、脆い。天寿を全うするどころか、母の手を離れる事すら困難だと言われている。

 そこで、魂と肉体の結びつきが確かなものとなるまで、神の庇護下に有るとされている。つまるところ、まだ人の身になりきれていない――完全にこの世界の住人と成りきれていないのだ。

 肉体と魂を確りと定着させ、神の御許を離れて人の身に成る時、漸く人としての生が始まる。

 ――それが、8つの時。

 グラティアに生まれた子は、8つになるとグレイヴィールと呼ばれる祝祭を経て、完全に人の子と成る。

 そしてその更に8年後、16歳になると成人の儀を執り行い、漸く1人前とされるのだ。


 目の前に居る愛らしい少年フランツは、つい先日グレイヴィールを行い、漸く人と成った身だ。未だ神の庇護下にある我が子とは違うと言われてしまえばそれまでなのだが、アリエスの記憶によれば、フランツが息子と同じ年の時も、矢張り子供らしからぬ言動をしていた様に思う。

 これが才、と呼ばれるものだろうか。

 世俗に疎いアリエスでも分かる。少年の人目を引く容貌、理知的で落ち着いた言動。幼いながらも心・技・体に優れ、大人に交じり武術の稽古を行っている所も、同世代の子供の中でも頼られ、それとなく彼等を統率している所も……。

 全てに於いて、族長と成るに相応しい素質であった。

 だからこそ、焦ってしまうのだ。


 自分は、神の宣託により人の身に堕ち、嫁し、子を成した。それは、次代の族長を世に送り出す為、神に与えられた使命だと思っていた。

 しかし産まれて来た我が子は、常に同世代の友人たちの中心にはいるものの、落ち着きが無く、親の言う事を聞かず、知識を学ぶ事をせずに常に遊び呆けている。

 これで族長になれなければ、自分は何の為に神子の座を辞したのか分からなくなる。

 

 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、フランツは矢張り子供らしからぬ落ち着いた微笑みを浮かべた。

 「大丈夫ですよ。アリエス様。クレアも一緒なのでしょう?それならなんの問題もありません」

 そう言うと、拳を握り、グラティアの正式な礼をとった。

「僕も探して来ますから、アリエス様はお戻り下さい」

 礼をとくと彼は何処かへと走り去っていく。心当たりが有るのか、その足取りは迷いが無い。

 

 日の光に輝く金糸を見つめながら、アリエスはぽつりと呟いた。

「……神よ……わたくしは間違ってしまったのでしょうか――?」

 それはいつ、どこで?

 子供の育て方か、嫁ぐ先か――それとも、神子の座を辞した事か……。

 神の声が聞こえなくなって久しい彼女には、最早何が正しく、何が間違っているのか、分からなかった。

「そう思いつめる事はありませんよ。アリエス殿」

 唐突に聞こえた声に、アリエスの肩は大きく揺れた。

「お……っオストロ様っ!!いつから其処にっ」

 慌てるアリエスに好々爺然とした笑みを浮かべると、オストロと呼ばれた男は視線を遠くに飛ばした。

 彼が何を見ているのか理解したアリエスは、彼の後を追う様に再び少年の去って行った方へと視線を戻す。其処には未だ、光の残滓が残っているかの様だった。

「いい、少年です。将来は、グラティアを率いる有望な戦士へと成長するでしょう」

 その言葉に、再びアリエスの肩が揺れる。彼女の美しい容貌からは血の気が失せている。

 そんな彼女を視線の端に捕らえると、再び何事も無かったかのように、再び前を見据えた。

「……しかし、同時に哀れな子でもあります。その高潔なる魂も、才も、全て彼自身で押さえつけてしまっているのですから」

 その言葉の意味に気付き、はっと息をのむ。


 ――そう。それは彼自身が科した、彼の心の檻。

 それが故に彼は、己を抑え、周りを立て、そして微笑むのだろう。――全ての苦渋をその微笑みに隠しながら。


 神子の座を辞し神の声が聞こえなくなってしまったアリエスは、今迄聞こえていたものが聞こえなくなり、見えていたものが見えなくなり、己の進むべき指針を示してくれていた存在が遠くなってしまい、視界も聴覚をも奪われたに等しかった。 

 それは苦痛以外の何物でも無く、支えてくれた夫の存在があったとはいえ、彼女の心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったかのように思えた。

 少年の完璧なる整った容貌や子供らしからぬ言動は、神が彼を寵愛し、全てを与えたかのようであり、アリエスは少しだけ少年を特別視してしまっていた。

 縋っている、ともいえる。

 神の寵愛を受けた少年の傍に居れば、ほんの僅かにでも神の息吹を感じ取れるのではないかと、淡い期待を持ってしまっていたのだ。

 ――馬鹿々しいと、分かっては居ながらも。


 しかしそんな少年の言動が、神の与えた祝福などではなく、彼自身の生い立ちによる悲しい鎖の所為なのだとしたら、それに縋って居た自分はなんて愚かなのだろうか。

「……アスティン様も、良き戦士となるでしょう」

 男の言葉にはっと目を見開く。

「今は幼さが勝っている様ですが、彼には人を率いる才がある」

 アスティンは、常に人の中心に居る。人を惹きつける力がある。

「フランツは聡く、人の心の機微に敏感だ。彼は、人の上に立つ、というよりも、それを補佐する才がある」

 己を凝視するアリエスに穏やかな笑みを浮かべ、彼は優しく告げた。

「将来、彼等2人がグラティアを導いて行くでしょう。――それに、クレア様も」

 アリエスの娘は、幼いながらもアリエス以上の神子の才を持っていた。

「何も、ダリウス殿になる必要はない。ダリウス殿にはダリウス殿の、アスティン様にはアスティン様の良い所がある。時代が違えば、求める才も変わるものです」

 彼等がこれから歩むべき道が、平穏である筈がないのだから。

「今彼等に必要なのは、次期族長として様々な事を学ぶより、先ず、仲間との絆を深める事です。その為には、こうして友人と遊び、信頼関係を得る事もまた重要な事です」

 それはダリウスが持ち得なかったものだった。彼は圧倒的な力により、畏敬を以って彼等を総べていた。信頼関係はあっても、絆と呼べるものがあったのかどうかは疑問が残る所ではある。

「アリエス殿。……良い、母と成りましたな」

 その言葉にアリエスは頬を赤らめる。目の前の男は、自分がみっともなく取り乱した姿を見ているのだ。

 自分が神子の座を降りた時、不安に駆られ錯乱していた際、導いてくれたのは目の前の賢者であり、手を引いてくれたのは夫だった。

 過去から現在までを記憶する、グラティアの守り神とも言える賢者の言葉だ。屹度大丈夫なのだろう。

 アリエスは漸く小さな笑みを浮かべると、汚れて帰ってくるであろう子供の為に水を汲みに行った。


 アリエスの後ろ姿を微笑みながら見つめる。

 己に子育てなど出来るのであろうかと思いつめていたのは何時の頃だったか。あの頃の不安が嘘のように、彼女は不器用ながらも立派に母としての務めを果たしている。

 それは真っ直ぐに育っている子供達を見ていれば一目瞭然だ。

 闊達な兄と、控えめな妹。暴走しがちな兄を、妹は上手く抑えている。

 ――それは、在りし日と重なる光景で。

 真面目で頑固な兄と、気の強い妹。性格は真逆とさえ言えるのだが、中身は全く変わっていない。

 ふ、と小さく笑みを含んだ吐息を漏らすと、男は小さく呟いた。

「ならば、貴方を起こすのはあの方か……」

 いつもいつも怒られていた姿を思い出す。

 子供達の気配を探れば、最早苦笑しか浮かばない。彼等は「運命」とやらに余程寵愛されているらしい。

「運命の歯車は、既に廻り出した……」

 彼はもう既に目覚めている。しかし怠惰な彼は、諦め悪く再び寝入ろうとしているのだろう。そんな彼に、片方は呆れ、もう片方は腹を立てていた。

 彼が目覚めたから彼等が生まれたのか、彼等が生まれたから彼が目覚めたのか。矮小なる自分に答えなど出せる筈も無く。

 それでも、そんな己でも断言出来る事がたった1つだけあるのだ。

「呑気に寝ている場合ではありませんぞ。グリード様」

 彼はもう、充分過ぎる程に惰眠を貪った。そろそろ覚醒してもいい頃だろう。


『――君は本当に怠惰だね……』


 まるで彼の言葉を肯定するかの様に、懐かしい声が聞こえた気がした。



 ――運命の足音は、もう、直ぐ傍に。

 

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