第4話 二階堂ゆみの邪恋

 昨日、冷えた麦茶を飲んだ部屋。普段お兄ちゃんとあの女が居る部屋。そんな部屋に私とお兄ちゃんは二人きりだ。ああ、私にこそ、この部屋は相応しい。


「一体……何がどうなっているんだ? なんでお前があいつの家から飛び出してきた? あいつに電話してもお前の話ばかりする。何があった……?」


 お兄ちゃんは開口一番にそう聞いてきた。可哀想なお兄ちゃん。きっと彼女さんから冷たくされちゃったんだ。そんな真っ青になっていたら折角の美形が台無しなのに。私がそんな顔を見つめていると、お兄ちゃんは小さくため息を吐いて俯いてしまう。


「うふふ、知りたい? お兄ちゃん、そんなに知りたい? 教えるよ、私はいつでもお兄ちゃんの味方だもん」


 私は精一杯余裕ありげに微笑む。お兄ちゃんは何も知らない。私と同じ家で育っても、お兄ちゃんは魔法を知らない。だから私はお兄ちゃんの隣に座って、そのさみしげな横顔に触れて、撫でてあげる。支えてあげる。


「…………」


 お兄ちゃんは何も答えずに私を抱きしめる。お兄ちゃんの口から聞きたかったのに。教えてくださいって。言葉には力が宿るってお父さんが言っていたから。


「ねえ、お兄ちゃん。一言頼んでくれたら、ゆみは教えてあげるよ?」


 お兄ちゃんは黙ったまま私を抱きしめ続ける。太くて力強い腕。体温が伝わってくる。それに嗅いでいるだけでクラクラするような不思議な香り。嫌な匂いじゃない。おひさまの中に居るみたいで、自分の顔が熱くなってくるのが分かる。


「ゆみ……」


 お兄ちゃんが私を頼っている。余裕の仮面が剥がれてしまう。お兄ちゃんを自分のものにしたいのに、このままじゃ自分がお兄ちゃんのものにされてしまう。乱暴で、甘くて、大きくて、熱いのに優しい。根拠はないのに、大切にされているような、根拠はない? 本当に? こんなに愛されているのに? 少しくらい甘やかして上げても良いんじゃないだろうか。うん、そうだ。これは特別。何時も我儘なゆみをいっぱい可愛がってくれるお兄ちゃんへのご褒美。だから仕方ないの。そう、そうに決まっている。甘やかされた分、甘やかしているだけだから。


「もう、仕方ないお兄ちゃん。彼女さんの様子がおかしいんだよね? 知ってるよ……ふふ、今まではお兄ちゃんのことしか目に入らなかったのにねぇ? おかしいよね、お兄ちゃんみたいな素敵な恋人が居るのに。でもね、ゆみ分かるよ。お姉ちゃんはお兄ちゃんを嫌いになった訳じゃないの」

「本当か……?」

「お姉ちゃんはね。お兄ちゃんのことが世界で二番目に好きになっただけだよ」

「二番目?」

「一番はねえ……ゆみ。今、私がお姉ちゃんの一番なの」


 一度は希望に輝いたお兄ちゃんの顔が、また絶望に染まっていく。可哀想なお兄ちゃん。可愛い可愛いお兄ちゃん。只の人間のお兄ちゃん。只の人間だから、お父さんの玩具が使えない、弱いお兄ちゃん。


「なんでそんなことになる……? あいつは確かにお前を可愛がっていたが、世界で一番大事ってそれは……それはおかしいだろ」

「惚れ薬をね、使ってみたの。お父さんから貰って」

「惚れ薬? そんなもの有る訳ないだろ。あいつに何かしたんだな?」

「……あはっ」


 小瓶から、鼻先に。たったひと押し。それがお兄ちゃんと私に必要だったもの。甘い香りが漂って、お兄ちゃんは小さくうめき声を上げる。私は震え始めたお兄ちゃんの耳元で精一杯色っぽく囁く。


「ねえお兄ちゃん。私は二番目で良いんだよ」


 大人っぽすぎたかな。びっくりさせちゃったかな。でも、きっと、今のお兄ちゃんになら効果はある筈だ。まだ苦しそうに身体を震わせている。


「お父さんには内緒にしてあげるから、ね?」


 そう言ってお兄ちゃんの背中に指を這わせる。その度に痺れたようにビクビクと震えて、情けなくって愛おしい。こんな獣みたいなお兄ちゃんに襲われたら怪我しちゃうかなあ。怪我したら、お兄ちゃんの心に傷が残るかなあ、残ったら良いなあ。一生私のものになってくれるかなあ。


「ゆ、み……!」


 お兄ちゃんが私の腕を掴む。


「お兄ちゃん、素敵だよね。私達三人とも一番大切なものは手に入らないんだよ。みんなで二番目を分け合って、我慢しながら生きていくしかないの」


 掴まれたところが痛む。この痛みは嫌いじゃない。


「でもねお兄ちゃん。私は手に入らないものが手に入った上におまけまでついてきたんだよ」


 お兄ちゃんが今までに見たこともない表情をしている。興奮しているんだ。切なげで、苦しくて、愛おしい。私が欲しいんだよねお兄ちゃん。


「大丈夫だよお兄ちゃん、愛してるからね、見捨てないからね」


 お兄ちゃんのもう片方の腕が、私のもう一つの腕を掴む。やったぁ、これでもう逃げられない。そう、思った時。部屋の扉がガンガンとノックされてチャイムが鳴り響く。


「先輩! そっちにゆみちゃん来てませんか!? とにかく色々大変なんです! 私、大変が、大変で、とにかく私あの子に謝らなきゃ……」


 あの女が来た。ちょっと正気っぽいけど、演技なのか薬の効果切れなのか。どちらでも大丈夫。あの女だって私の魅力に抗えない。行動は少し暴走しやすいみたいだが……既に私は勝っている。むしろ、かくなる上は、あの女に見せつけて先程の仕返しを……。


「えっあれっ」


 お兄ちゃんが私から手を離す。ものも言わずにお姉さんの声がした方へと走り出す。ちょっと冷たすぎない? 今のっぴきならぬ感じになってた女の子を平気で放置するとか無神経にも程度がありませんこと?

 バタリと玄関の扉が開く。


「せ、先輩!? あの、大変なんです。私、ゆみちゃんに大変なことを……」

「今は大事なことじゃない。それよりもお前が心配だったんだ。帰ってきてくれて良かった」

「せ、先輩、そんな、こんなところでいきなり……痛いです」

「そうは言うけれどもな、お前が居ない心の痛みはこんなものじゃなかったぞ」

「そういうクサイこと言うのが先輩の……駄目な……」

「駄目な俺を許してくれ。俺にはお前しか居ないんだからな……駄目になってしまうんだ。俺を助けると思って話を聞いて欲しい。お願いだよ。とても急いで相談したいことがあるんだ」

「先輩はいっつも強引ですね。そういうの良くないですよ。強引……ああ、思い出した! ゆみちゃんを探さないと!」

「それはもう大丈夫。二人きりになりたいんだ」

「で、でも……」

「また俺を置いてけぼりにするのか?」

「先輩は……意地悪です」


 明らかに異常事態が起きていた。不味い。少なくともあの女に関して言えば本当に薬の効果が切れている。


「あ……そんな、なんで……? なんで!?」


 外からバタンとドアが閉じる音。エンジンが起動する。無情にも車は私だけを置いて、二人を連れて走り去っていった。


「お兄ちゃーんっ!」


 私の悲鳴に返事は無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る