説教とアドバイス
「あー……どれどれ? 『同時に二人の女性を好きになってしまいました、どうすればいいですか?』だって?」
重たい空気が室内を支配する。
涼しい風は入ってくることなく、夏の残り香を味わうために作られたような閉め切った部屋に暑さが篭もる。
そんな部屋の中で、やさぐれた中年の男性が額に青筋を浮かべて一枚の紙を読み上げていた。
「難しい質問だな……」
「そう、ですよね……」
重たい空気の中、俺は同じように重たく首肯することしかできなかった。
ヒリヒリとする足の痺れ。それはきっと、この空気による影響なのかもしれない。
「俺とて、一端の教師だ。どんなに難しい質問でも、哲学めいた悩みを相談されようとも、真っ直ぐに向き合う必要がある」
教師の鏡。その言葉はそう思わせるには十分だった。
額に青筋が浮かんでいなければ。
「だが、遅刻の反省文にこんな内容の悩みを打ち明けられてもなぁ? そうは思わねぇか、きさらぎぃ?」
「……誠に、その通りだと思われます」
現在、一時限目の授業真っ最中。
にもかかわらず、俺は生徒指導室で深く頭を下げていた。
正座し、頭を下げるという行為は『土下座』の名に相応しいのかもしれない。
「まず、どうして遅刻したのかを明記しろや、ゴラァ?」
とても教師とは思えない発言だ。
「鬼ごっこをしていました……なんて書いたら怒られると思いまして……」
「間違いなく怒こるな、今みたいに。いい年になってまで鬼ごっこをする生徒を見たことないが」
仕方ないんです……どこかの誰かさんが熱心に追いかけてきたんです。
逃げなきゃ、殺されると思いました。柊と神無月と一緒に登校しただけなのに、本能に従ったファンに追いかけられていたんです。
……どうして俺だけ遅刻になったのかは未だに理解できませんが。
「それで……あー、同時に二人の女を好きになってしまったって話か?」
「そうっす」
「……んー」
俺が正座させられているというのに、足を組み替えながらふかふかの椅子に腰をかける先生。
いいご身分すぎて涙が出てくる……ぐすん。
「真面目な解答と適当な解答があるが……どっちを聞きたい?」
「適当な解答で」
一度、先生が適当に作った解答を聞いてみたかった。
単に好奇心が勝ってしまった。
「キャバクラに行って、二人のことなんか忘れちまえ」
考えうる限り最低な答えであった。
「このクズめ……女の敵」
「馬鹿を言え、キャバクラは大人の嗜みだ」
「大人になりたくないなぁ……」
こんな大人にはなるまい。
そう、胸に誓ってしまう瞬間であった。
「はぁ……好奇心で聞いた俺が馬鹿でした。真面目な解答をください」
思わずため息が溢れてしまう。
だけど、先生はそんな俺の態度なんか気にしない様子で反省文の紙を机に置く。
そして、少しだけ真面目な顔つきになった。
「勇気を持て、そんだけだ」
「は?」
だけど、その口から飛び出してきた言葉は単純。
それでいて、理解が及ばない言葉であった。
「勇気……ですか?」
「そうだ」
カチリ、と。室内に時計の刻む音が響く。
「二人を好きになってしまったことは悪いことではない。悪と、世間体がよくないという言葉が付き纏うのは、その後の行動によって生まれてしまうもだからな。だからこそ、人は選ばなければいけないという考えに至る。それが常識だと、当たり前で相手に誠実なんだと、無意識下のうちに認識してしまう」
「それは、普通ですよね?」
「それが普通だ。それでいて、決して間違いじゃない」
何を当たり前のことを? そう思ったが、先生の真剣な眼差しがその先を口にさせない。
「間違いじゃなければ、どうして如月は悩んでいるのか? どうすればいいですかって聞く時点でどちらかを選べないと悩んでいるのは分かる。だからこそ、悩む理由は選べないから。当たり前なのに選べない────それは単に、『その女二人を選ぶ』という行為と『選んでしまった後に傷つけてしまわないか』という思いが見事に釣り合っているにすぎん」
「…………」
「今、如月の頭には『どっちがより好きなのか』という疑問があって悩んでいるかもしれねぇが、それは建前にすぎない。何故なら、それは一緒に過ごしていくうちに自然と答えが出るものだからな。答えが出るものであればそもそも反省文に悩みを書いたりしないだろうさ」
故に、本当の問題は先にあるんだよ。
そう、先生は初めの言葉に戻っていく。
「先にある問題とは、すなわち釣り合った天秤を傾ける勇気だ。選べば傷つける、それでも誠実であろうという正しい行為に踏み込む度胸────それがあれば、お前はうじうじ悩まずに済むだろう。だからこそ、悩むのであれば勇気を持て……それが、教師として一人の大人としてのアドバイスだ」
ひとしきり言い終わると、先生は疲れたと言わんばかりにため息を吐く。
(流石、先生……)
どうにも、不思議と心にすとん、と落ちていく言葉であった。
全ては理解も納得できなかったが、それでも身に染みるような言葉。
無下にはできず、大人の説教と揶揄することもできない。それぐらい、今の言葉には重みを感じた。
「……ありがとうございます、先生」
故に、もう一度深々と頭を下げた。
今度は謝罪ではなく、感謝を伝えるために。
「俺、頑張ります!」
「おうおう、頑張って青春してこいや」
なんだかんだ、反省文に悩みを書くという馬鹿らしい行為にも真剣に向き合ってくれた。
教師としての言葉遣いや生徒に対する説教の方法など問題はあると思うが、素晴らしい先生だと思ってしまう。
「じゃあ、先生────俺、これから青春してきます!」
俺は先生の言葉を受け止め、胸に抱きながら立ち上がって生徒指導室から出ようと────
「その前に、この反省文をどうにかしろや」
「……うっす」
涙が……真面目な時との温度差に泣けてくる。
「まぁ、そう言うが俺も鬼じゃない。今から反省文50枚書けなんてことはさせるのも酷だと思っている」
「枚数増えてません?」
1枚じゃないの? さり気なく増やしやがったよ、こいつ。
「だから、罰の変わりって言うわけじゃないが────」
先生は俺の肩に腕を回し、有無を言わさないような笑みでこう言い放った。
「お前……体育祭の実行委員をやれ」
面倒くさい。
その言葉の変わりに出てきた言葉は……はい、であった。
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