第37話 真打ち
-37-
日は沈み、闇に溶けた木々が眠り始めた。心地よき葉擦れの音を森の寝息のように聞きながら炎を見つめる。篝火に照らされた金色の鬼面は仄かに熱を帯びていた。
冒頭に話されたのはロマンスだった。とはいえ破笠が語ったのは飾り気のない筋書きのようなものだったので、その話を恋物語としたのはあくまでも茜の独善的な解釈でしかないのだが。
……黒鉄の大百足の逸話。それは応竜(水神)の噺から始まる。
夜の中に染みていく声。破笠が淡々とお伽噺の後日談を続ける。
茜は揺らめく炎に自身の淡い恋心を映しながらその朴訥な語りに耳を傾けていた。
暖まる胸中。しかし、ここからが本題と言わぬばかりに破笠の声は冷えていく。悲話を予感し覚悟するも、どこか……後ろ髪を引かれていた。聞き続けることを嫌って思わず嘆息を漏らした。切ない夜だ。
不意に話が途切れ間が空いた。ハッとして炎の向こう側を見る。破笠の厳しい眼差しを受けて、茜はサッと居住まいを正した。その場には戯けてみせる余裕はなかった。
茜の様子を認めて再び話が始まる。
白龍に横恋慕をした男がいた。名を
偲化は竜王の五男。彼は神座に連なるものでありながらとんだ放蕩者であったという。
先にこの不埒者の顛末を語れば、曲折もなく悪が滅びるということになる。
偲化は、天命を受けた瑤華の夫によって誅殺された。とはいえ、元より神に死は無いので、この場合は肉体を滅されて天に強制送還されたといった具合だろうか。
ここで茜は腕を組み首を傾げた。
白龍の恋物語については分かった。しかし、雨音女の話と白龍の話に脈絡は見えなかった。このような何処にでもある情話の何が今の事態に関係しているのだろうか。茜は破笠の様子を窺った。
「偲化は天に戻された。それで終わりじゃないですよね? 話は、むしろそこから核心に繋がっていく、といったところでしょうか?」
尋ねると、破笠は頷いた。
「左様で、この白龍の話は前段にしか過ぎません。続きがあります」
気のせいだろうか、言葉が酷を纏ったように感じた。静かに深呼吸をして破笠を見据える。お願いします、と頷いて破笠の言葉を待った。
「偲化は再び下界に戻ってきます。諦めきれなかったのです。守人如き格下の者が竜を娶ることに我慢がならなかった。白竜の幸福は、より高貴な身分である己のみが叶えられることである。白龍の真意も己に向いているのだと、瑤華を救わねばならぬのだと思い込んでいた」
「……袖にされてなお恋着する。よくある話ではありますね。しかし、いくら竜王の子とはいえ、天誅を受けた者がそう易々と下界に戻れるのですか?」
「如何にも。偲化は神なれど、罰を受けた者に許しなど与えられるはずもなく」
「でしょうね、……それでも、偲化は戻ってきた」
「偲化は、戻ってきました。竜王の宝玉を盗んで」
「竜王の宝玉?」
「天界、竜王の住まう王宮の奥、竜王の御園には銀の実を付ける梨の林があるという。その銀の果実には神力を宿らせる力があると言われています」
「竜王の宝玉とは銀の梨の果実。果実は神力を宿らせる依代となる。こういうことですか?」
「左様でございます」
「呆れた馬鹿息子だな」げんなりとして肩を落とす。恋は盲目とはよく言ったものだが、天に還されても懲りずに罪を重ねるとは……。
「それで? その後、偲化はどうなるのですか?」
「偲化は再び瑤華の前に姿を現します。ですが――三度、守人に返り討ちにされます」
「それでまた天へ?」
「いえ、今度はそうはなりません。いかな家族を守る為とはいえ、天命が無くては神は討てません。以降は、痛めつけては追い返す。ということを繰り返していくことになります」
「天命が降りなかった? なぜ?」
「天は見放した。追放したことで終いとしたのでしょう」
粗方、天も呆れてさじを投げたといったところか、もしくは、事態を良いことにしてお灸を据えたか……。それにしても、これは些か人間的すぎる。とても神々の織りなす話とは思えない。もはや滑稽ですらあった。それでも、その狂言に緩んでばかりはいられない。話は現実に近付きつつある。茜は気を取り直して破笠に話の続きを促した。
意を受けて話は続き――進む。語りはいよいよ現在に迫る。神話は実話の様相を帯び始めた。
「それにしても聖人殺しとは、たいそうな異名だね」
皮肉交じりにいう。負け続けた偲化は自棄を起こした末に荒れ狂い八つ当たりを始めたのだと破笠は話した。
「その名、当初は『聖女殺し』といったそうです」
「聖女殺し……つまり、
フラれた腹いせとして無差別に当たり散らす。物語としては分かりやすいが神の行いとしてはあまりに小粒である。
「力ある者の血を必要としたのだと、秋霖様から聞いております。それが女人であったことは趣向なのだと」
「とことん呆れた奴だな、それで?」
破笠の口から秋霖、と雨の陰陽師の名が出たところで茜は身構えた。
「偲化はそこに快楽を覚え、次々と人間を殺していった。飢饉に疫病、人界の安寧を脅かす者となった。しかも殺しているのは神と人とを繋ぐ者ばかり。天も流石に放置するわけにはいかなくなりました」
破笠が黙々と話す。それで? と相槌を打って茜は先を促した。
「偲化は天網に触れた咎により神籍を剥奪され、終いには募らせた怨念により祟り神と成り果てる。これが聖人殺しの別名を持つ竜のなれの果て、黒鉄の大百足の成り立ちであり、これが、今に続く悲劇の始まりとなるのです」
その大妖怪は……、次の下りは予想が出来ていた。いよいよ雨様との因果がつながるのだろう。しかし解せない。無類の大妖怪はどんな訳があって蒼樹ハルを助けたのだろうか。なにより、悪の権化が現代まで退治されずに生き延びていることも不思議だった。神籍を剥奪されたのなら討伐は可能だ。なのに……何故、雨様が敢えて悪を見逃すということも、あり得ないと思えるが……。
「破笠、先程、秋霖様から聞いたといっていましたが? もしかしてその大妖怪と雨様との関係には何か曰くが?」
「茜殿、鬼怒川宮にて、朱の花が申したことを覚えておりますか?」
「朱の花? あ、ああ。あの緋花とかいう草の者か」
「彼の者の話したところによると、蒼樹ハル様が襲われた場に、大百足と武人、緋花、黒の姫と黒衆の娘、そして陰陽師らしき人物がいたと」
「覚えてるよ」
「黒の姫は月桂の血に連なる者、黒の娘は黒衆のいずれかの者。陰陽師に関してはまだ何とも言えませんが、百足と武人に関しては分かっております」
「偲化だろ? 武人に関しては、確か藤十郎とかいう……」
「あの百足は偲化ではございません。今の百足の名は小夜月と申します。そして、百足に連れ添っていたのは田原藤十郎と申す者で、これは小夜月の父親でございます」
「え? いまの? 小夜月? 親子?」
何がどうして、と言ったまま固まった。話が時系列を無視して飛んでしまったこともあるが、それでも百足の得体が入れ替わるなどまるで訳が分からない。
「百足は、襲われた蒼樹ハル様を助けた。咄嗟に飛び出したと朱の花は申しましたが、その訳はおそらく」
「おそらく?」
「小夜月は、おそらくは蒼樹ハル様の中に母を見たのでしょう」
「母? 百足の?」
「母の名を瑤華と申します」
百足と父親の関係性は理解した。しかし、ハルの中に母を見るとはどういうことか。
「察しの通り田原藤十郎は白龍、瑤華の夫にして、小夜月の父親。そしてもう一つ正体を明かしますと、あの日、小夜月が蒼樹ハル様の中に見た母とは水鏡の雲華のことでございます」
「――なに!」
絶句した。これはなんと複雑な因果か。遠い昔のお伽噺がよもやこの様にして現代に繋がってくるなど誰が想像し得ようか。
先の黒鬼一件も八百年を費やして解決の糸口さえ見つけられなかった事象であるが、この話はそれを更に凌ぐ。その様な奇怪な二つの事象の真ん中に無自覚で据えられるとは。茜は、蒼樹ハルの幼き頃の姿を思い浮かべていた。――なんて過酷な……。
夜は更け行く。いつしか風の声は止んでいた。周囲は重い空気に支配されていた。
茜は相づちを打つことさえ忘れてしまっていた。破笠は、そんな茜の様子を承知しながら粛々と話を続けた。
偲化は竜の身を捨て黒鉄の大百足に変化した。
その大妖怪が世の人々を恐怖のどん底に落とす。
遂に雨の陰陽師に大百足討伐の命が下る。
雨の陰陽師こと秋霖は、不死身の大妖怪を倒す手掛かりを得るために異界へ旅立ち、そこで様々な曰くを知り、竜門を開いて天神地祇免状を得る。
「――戦いは熾烈を極めました。共に戦った白龍も、藤十郎も死力を尽くしました」
「雲華と藤十郎も共に……」
「はい。ことの発端は己らにあるといって」
「……そうですか、それで最後は」
「二神、二刀と我らを従えて力を削り、数十日を要して偲化を異界へ追い込んだ秋霖様は、とうとう申の国の外れで決戦を挑みます。結果は――」
「当然、ですよね」
「勝つには勝ちましたが、犠牲も多く……」
「厳しいですね」
「はい。結局、犠牲を払っても、偲化を百足の体から追い出して封じるまでが精一杯で、大妖怪そのものを討ち果たすことまでは出来ませんでした」
「まさか、その犠牲って、小夜月という白龍の娘じゃ」
成り行きにハラハラしていた胸がギュッと締め付けられた。普通に恋をして、結ばれた二人。その間に生まれた子供が背負うにはあまりにも悲惨な運命。
憐れな、と茜は面を伏せた。だが、俯く耳に聞こえてきたのは破笠の、否という返答だった。
――これ以上、まだなにかあるのか。茜の気分が更に重くなる。
「身を挺したのは藤十郎。藤十郎は偲化に喰われることで入れ替わり、飛び出した偲化は秋霖様に封じられた。その後――」
まだ続くのかと溢し破笠を見る。いったいどれくらいの悲劇が重ねられるとこの話は終わりになるのか、茜は気持ちのやり場を失って唇を噛む。
「茜殿……、左様でございますね」
破笠が、惨い話でしたと呟き、恐れ入りますと頷く。それでも彼は、黙りこくった茜の様子に戸惑うように声を震わせながら話し出した。「――茜殿」
名を呼ばれて顔を上げ相手を見る。真一文字に引かれた口、目は真摯にこちらを直視する。次の話には余程の覚悟を必要とするのだろう。茜は息を呑んだ。
「茜殿は尋ねられました。目的地を知っているのかと」
「……はい」
「我らが向かっているのは銀の梨の木が植わる朱の花園」
「銀の梨、朱の花園」
「その場所は、今では竜の墓所と呼ばれております」
「……墓所、ですか」
「左様です。彼の地で藤十郎は死に、娘の小夜月もまた彼の地で死んだ」
「――小夜月が、死んだ?」
「百足となった藤十郎は封印を受け、彼の地で悠久の眠りについた。しかしながら、父を慕う娘は、そのことを不憫に思い救い出そうとした。娘は竜王に願い出で宝珠を賜る。その宝珠、銀の梨の果実を使い父を救おうとした小夜は、無念にも藤十郎に喰われてしまうのです。その時に流された小夜月の血から朱の花は生まれ、娘の手から零れ落ちた銀の梨は朽ちた娘の亡骸を養分としてそこに根付いた」
「……それが、朱の花園の所以。そして、小夜月は百足になったと」
茜は呆然としながら呟いた。
コクリと頷き応答すると、破笠が更に強い意志を目に宿らせる。
茜は怯んだ。急な身震いに襲われると、詰まるように呼吸が止まる。何か、とんでもないものが出てくる。そんな予感が心に強い圧力をかけた。
「は、破笠?」
茜は上半身を反らすように逃がしながら首を傾げた。
「茜殿、小夜月は騙されたのです。騙されて喰われたのです」
「騙された? それはいったい……」
「騙したのは、秋霖様の子であり雨一族の嫡子である
名を聞いた途端に茜の背筋に悪寒が走った。
凍る心。よもや、と溢すのが精一杯で理解が追いつかない。
雨一族と黒鬼一族の確執、雨の死後、三百年後に起こった戦、――これは、その八百年後の現在に起きている出来事であり、お伽噺から始まった怨念の連鎖。当初、事は女どもの争いだと思った。しかし、違うのだろう。聞くところによると、潮、月桂の両名は道理を十分に理解していた者のようである。
……そうか、つまり、全ては、我こそが雨たらんとしてのことか。
直感は確信した。動機に気付いて、茜は事象の整理を急ぐ。
黒鬼の呪いの解放、続けて起きた今回の事件、一連の出来事に過去の因縁が繋がりつつある。白龍を巻き込んだ跡目争いの起点がここにあるのか。
「茜殿!」
唐突に破笠が声を荒らげ危急を告げる。茜は呼応するように破笠の視線を追い目を凝らした。
「なんだ、あれは」
闇夜の奥から気配が迫る。
懐に手を差し込んで呪符を手にする。
横では破笠が緊張をみせていた。
やがて、気配は影となる。悠々と結界をすりぬけた影は人の形を作り、篝火に照らされた人影は、見知った者の姿となった。
「あれは……瀧落殿?」
何故ここに、と茜は首を傾げる。すかさず、破笠は言葉を重ねた。
「茜殿、あの者が、冨夜様です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます