第10話

 アンコールの拍手の渦の中、一度下がった緞帳が再びゆっくりと上がれば、主演女優を真ん中に明るいライトが舞台を照らし出していた。

 大きな拍手の中、女は深々と頭を下げ、ゆっくりと頭を起こす。上がってきた瞳の先が見つめるのはただ一つ。ジッと、一つの客席を見つめたまま女は満面の笑みを浮かべた。

「皆さん、本日は誠にありがとうございました。ここで、私事ながらこの場を借りて皆さんにお伝えしたい事がございます。今回、私はこの公演を最後に、引退させていただきます。このように舞台から退く者のその理由は様々でございますが、私の理由はただひとつ。愛する人と己の時間を歩んでいきたい。それだけでございます」

 とうとう、女は自分の想いを口に出す。

 舞台の上から、相手が逃れることの出来ない状況を作り上げた。スポットライトが彼女に降り注ぎ、幸せの表情を浮かべ、頬に涙を流して言う舞台上の女優に割れんばかりの拍手が湧き起こる。

 無数の蝶が羽ばたくように揺れる客席の手の波は漣のように舞台に迫ってきた。が、羽ばたかない蝶がたった一匹居る事を誰よりも早く女は見つけていた。

 面で笑顔を崩さぬまま幸せの涙を流す女。その心の中に様々な感情が渦巻き、観客からは気付かれなかったが足は震えて、女は考えられる限りに思考しはじめる。

(何故? どうして? 誰よりも喜んでくれるのは貴方のはずでしょう? どうして駆け寄って抱きしめてくれないの……。どうしてあたしを舞台から奪って行ってくれないの。あたしの決心、あたしの想い。全て届いていたはずでしょう?)

 女は初め、男の行動の意味が分からなかった。いや、分かりたくないといったほうが正しいか。そして、女の感情は疑問から相手に対しての不満へと変化していく。

(あたしは貴方の想いに応えただけ。なのに、貴方はあたしを放り出すと言うの? ふざけないで、貴方があたしを愛したんでしょ? そうよ! あたしが貴方を愛したんじゃない! 始まりは貴方よ!)

 相手を責めれば責めるほど、自分を正当化していくほど、女の心の中に残った最後の感情は怒りだった。

(許さない……。許さないわ。あたしを映していない貴方の瞳は一体何を見ていると言うのよ!)

 舞台に立っている間、どんな事が起ころうとも女は女優。動揺も悲しみも怒りも、全ては女優と言う仮面に隠されて、決してそれが表面に出る事は無い。ゆえに、内側で煮えたぎったその怒りは練りに練られて、恐ろしいまでに方向を変えていった。

(貴方が想い続けたあたしを今、手に入れられるのよ? 光栄でしょ? 嬉しいでしょ? さぁ! あたしを手に入れなさい!)

 己の思惑とは違う出来事に沸騰したように熱かった体も、怒りが脊髄を突き抜けると今度は逆に女の体に震えが訪れる。

 体全体が震えだした女の感情は決して喜びでは無い。

 女は耐え切れずガクンと膝を床につく。それは決して嬉しさでは無い。怒りと悲しみ、二つの感情だけが女を支配していた。

 そんな女の体を支え、後ろから抱きしめたのは女の求める男ではない男だった。


 女が倒れこむ少し前、芝居が終わって緞帳が下がり、舞台の成功を告げる大きな拍手が劇場に木霊した時、女は涙をこぼしながら大きな拍手を舞台に向かって送っていた。

 素晴らしい舞台の内容に感動し、自然と涙と拍手が飛び出していたのだ。そんな女の様子を眺めていた男は嬉しさにニッコリと微笑む。

(あぁ、良かった。僕の舞台の素晴らしさを理解してくれたんだね。やっぱり君は僕の天使だ。桃色に染まっているその頬に伝う雫を僕の唇で拭ってあげたい。いいや、今日こそ僕は君のその雫を正面からきちんと拭って上げる存在になるはずさ)

 男は正義の味方のような気持ちだった。悪魔の手から自分の天使を救い出して見せるのだと。アンコールが終わり、舞台の緞帳が二度と上がることが無くなったその時に「君を愛している」と伝えると。

(あぁ、早く……。早くアンコールを済ましてくれ)

 男は自分の気持ちを女に伝えれば、女は必ず小さく頷いて優しい微笑を自分に向けてくれると信じていた。一秒が一分に、一分が一時間に感じるほど男の気持ちはざわめいて騒がしい。

 緊張で男の呼吸が荒くなり始めた時、緞帳が再び上がり、お辞儀をして女が現れる。

 だが、男の視線は一度として舞台に注がれる事無く、舞台を必死で見つめる女の後姿を見つめていた。そう、男の瞳にはもう彼女しか映っていなかった。

 女の口上が始まる。それでも、男の視線が動く事は無い。ただ、女の言葉だけは耳に届いており、ぼんやりと男は女の言葉を理解していた。

(あの女……。そうか、辞めるのか。ほぉ、愛する人とはな。演劇にのめりこんでいるのかと思いきや、やはりストリッパー。いつの間にか男を垂らしこんだか。それとも、舞台監督にやられちまったのか? あの監督、必要以上にあの女を使いたがったからな。嫌よ嫌よもといったところか。辞めるならそれで良い。役者は幾らでも居る。いなければ探してくれば良い。それだけだ)

 男は女の溢れんばかりに情緒的な物言いに、さめた頭でそう思い、少しの嘲笑が漏れる。

 あくまで男にとって女は役者であり、脚本を書き上げ、次の脚本を書くまでの暇な時間、戯れに演劇を教えたに過ぎなかった。

 戯れに学の無いストリッパーを女優に育て上げたこと。それが、男に役者が居なければその辺りから見目の良い人間を連れてきて育てればいいと、役者は幾らでも居るのだと思わせていた。そう、男にとって役者、女優と言うのはその程度のもの。だが、男が見つめる彼女はそんな簡単な存在ではないと男は思い込んでいた。

(彼女の代わりなど居ない。僕には彼女が必要だ。彼女こそが僕の運命の人なんだ)

 舞台に向かって惜しげも無い拍手を送り続ける女を見つめていた男は、彼女が舞台を、主演女優を見ているのではないことに気がつく。

(彼女は一体何を見ている? 彼女の見ているのは……、あの女では無い。彼女が見ているのは……。あぁ! なんと言う事だ。あの悪魔め!)

 女の眼差しを受けているのは舞台の女の後ろに立つ男。

 潤んだ瞳も涙も感動も舞台の男に向けたものだと分かった瞬間、男はグッと唇を噛み締めた。

 観客が女の口上に立ち上がって拍手をし始めた時、男は自分の感情を抑えられなくなる。目の前にいて、自分を見つめてくれない女の肩に男は手を伸ばし、無理やりにでも女を振り向かせようとした。あと少しで女の肩に男の指先が当たる所で、女は急に立ち上がりその場を後にする。

 口を押さえ、キラキラと輝く涙を空中に幾つも飛ばして男の目の前を走り去り、思わず男は女を追った。

 一度たりとも、誇らしげに口上を述べた女が居る舞台へ眼差しを送ることをしないまま、男は扉の向こうへ。舞台から送り続けられる強烈な視線に気づく事無く、舞台に背を向け男の姿は女の瞳から消えた。


 男は緞帳の下ろされた舞台で、多くの人がばたばたと整列する中、一緒に横一列になって、ゆっくりと緞帳が上がっていくのを見つめる。

 男にとっては初めてのアンコール。女の後ろに控え、女のうなじをジッと見つめた。舞台の成功を喜ぶ視線ではなく、ただ、獲物を見つめる瞳で。

(なんて心地良い拍手の響きだ。俺にふさわしい舞台。俺にふさわしい女。俺の目の前には輝ける階段が既に作られた。後は登るだけ)

 女を見つめていた男の視線は、上がった緞帳の向こうに現れた空席の無い観客席に移る。

 そこで男が見たのは観客席から涙を流して自分を見つめる女。男は来るなと言っておいた女が座席に居ることも驚いたが、それよりも女が自分の命令を聞かなかったことに苛立ちが湧き上がっていた。

(チッ、あの女はもう用済みだな。まぁいい、最後に俺の成功をその目に焼き付けておくが良い。そして、自分はこんな男と一緒に暮らしていたんだと何も無いお前の唯一の自慢にすれば良い)

 男は女に哀れむような瞳を向けてフッと微笑む。

 そんな男の目の前で、男の次の獲物となった女が語り始めた。その語りは涙の中で。その言葉は拍手の中で。舞台で鍛えられた女の声ははっきりと劇場に響き渡る。

 そして、男の耳にも女の言葉は響き、男は視線を観客席から目の前の女のうなじへと移動させた。舞台の上では決して自分の感情を出さない女とは違い、湧き上がる感情のまま、目を見開き、女の発表に驚く。

(突然、何を言い出すんだ、この女は……。引退だと? ふざけるな! これから俺が大きく羽ばたこうという時に。馬鹿め、栄光を自ら捨て去るとは……)

 男は女の言葉に呆れ、これから俺の栄光はどうなるのだと心配し始めた。ムッと機嫌悪く女の涙声を聞いていた男は、女の一言にハッとする。

(愛する人? 理由は愛する人だと? そうか、なるほど。それほどまでに俺の事を)

 不機嫌だったはずの男の顔には笑顔が浮かび、再び女のうなじをジッと見つめた。

(ククク、そんなに俺を独り占めしたかったとは気づかなかったな。まぁ、あの女の体の隅々まで俺は知っている。俺から離れられなくなるのも当然だ)

 男は他の女ならいざ知らず、たとえ引退したとしてもこの女なら自分に相応しい女だと微笑する。

 そう、あろうことかこの男、女の言葉を自分への告白と受け取り、一人勝手に陶酔していった。

 女が発表したことにより会場の雰囲気も一気に上昇し、舞台に送られる拍手全てが男に捧げられたもののように思えて、男の感情を更に高める。男は女の言葉に感動したわけでも、酔ったわけでもない。己の魅力に、己の行動に、自分自身に酔いしれたのだ。

 光り輝く舞台で女は言葉に詰りその場に泣き崩れる。男はここぞとばかりに女の後ろから女の肩を抱きかかえ、グイッと無理やり女を横抱きにした。

 一体何をするのか、女は瞳で男に質問したが、男はにっこり微笑み返すだけ。まるで何処かの王子を気取った男は涙で濡れた女優の顔に、そっと自己陶酔の口付けを落とした。


 舞台での芝居がクライマックスを迎えた辺りから、女の目には涙が浮かぶ。緞帳が下りると、周りの観客から歓声が沸き起こり、ほんわりとした間接照明が足元から照らされて、観客席は暗闇から夕方のような優しい光に包まれた。

 割れんばかりの拍手が沸き起こり、自然と女の手も音を立てる。惜しみなく、力の限り芝居に拍手を送る女だったが、緞帳が再び上がった瞬間、女の瞳に存在したのは主演女優ではなく、その後ろに控えた男の姿だった。

(久しぶりだわ、貴方の顔を見るのは。本当に凄かった、感動したわ。きっと凄く努力をしたんでしょうね。大成功なのはこの拍手が物語っている。おめでとう。なんだか私の手の届かない所へ貴方が行ってしまったようで涙が止まらない。ねぇ、まだ私の卵焼きを食べてくれる? ねぇ、まだ私の料理を美味しいといってくれる?)

 感動の涙はいつの間にか悲しい涙に。

 女は明るく光り輝く舞台から送られる男の笑顔が自分の知っている笑顔じゃないことに不安を覚えた。一瞬、視線が絡み合ったと思ったのにすぐに男の視線は別の方向を向き、それがまた女の不安をあおり涙が止まらなくなる。

 ほろほろとただ頬をつたっていく涙を拭う事もせず、女は一身にその濡れた瞳を舞台上の男へと送った。別世界に行ってしまったような男にどうか、どうかと願いをこめて。必死で、濡れた瞳を向けて男に訴えていた。戻ってきて……、それだけを。

 男に自分の想いを伝えようと、必死になる女にも舞台から響いてくる女優の言葉が耳に入る。

(引退? この人引退するの? 愛しい人……。いや、何なの? 一体何が起こっているの?)

 女が見つめる男は自分ではない女の肩を抱いた。優しく頬を撫で、崩れるように膝を付いた女をいたわり、優しく抱き上げる。

(わからない、どうしてその人の肩を抱くの? どうしてその人の頬をなでるの? あぁ! 変わってしまった。貴方は変わってしまったのね!)

 女はその光景に耐え切れず、ツンと突き上げてくる鼻の痛さを指で押さえ、おもむろに席を立った。拍手の中、座席が小さくカタンと音を立てて跳ね上がる。

 舞台の光景に観客は目を奪われ、女が泣いて走り去る所など誰も気に留めない。ただ一人を除いて。


 あたり一面真っ暗闇に。天井から照らされるぼんやりと現れた光が一つ。

 闇から光に存在を表した案内人の口元はゆっくりと引き上げられる。

「さぁ、四つの物語が、四人の想いが動き始める。女の一言が、女の想いが、広い劇場に響いた時、全てを突き動かすように其々の想いを動かしていく、揺れ動く。それが善へ転がるのか、はたまた悪へ転がるのか。それとも善悪は存在しないのか。想いは何処に転がり、何処で止まるのか……。この舞台もまもなく終焉を迎える」

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