第32話 彼の追憶④

「――さて、と。そろそろ本題に入ろうか」

 

 食事の後、夏癸の向かいに腰を下ろした隆文は穏やかな表情で口を開いた。

 洗い物を手伝い、そろそろお暇しようかと思ったら座るように促されたのだ。葵は茜を連れて風呂に入ってしまったので、用事があるのは彼なのだろう。

 日頃はあまり食べない夏癸だが、勧められるままにご飯とハンバーグをおかわりして、デザートにフルーツゼリーも出された。すっかりご馳走になってしまったが、そういえば自分がどうしてここに呼ばれたのか理由をまだ聞いていない。まさか初対面の隆文とこうして向かい合うことになるとは思っていなかった。

 

「日向夏癸くん。うちの新人賞に出してみないか?」

「え――」

 

 予想外の発言に言葉を失う。隆文は淡く苦笑を浮かべると、一枚の紙を夏癸に差し出した。【菱川文芸大賞 応募要項】と大きく書かれた下に、細かい文字で詳しい規定が書かれている。

 

「驚かせて悪い。改めて、菱川出版で編集をしている椎名隆文です。君の小説を読ませてもらいました」

「小説、って……」

「部誌の原稿。うちの奥さんが昨日大慌てで見せてきてさ。すごく面白かったよ。文章も読みやすくて、兄妹のキャラクターもよかった。とくに主人公の女の子の心情がよく書けていた。繊細な文章に胸を打たれたよ。短編としてよくまとまっていたけど、もっと読みたいって思った」

「ええと……ありがとう、ございます……」

 

 いずれ部誌に載るとしても現時点では顧問に提出しただけの原稿を勝手に読ませたことへの憤りと、自分が書いたものに対する感想を初めてもらったことへの戸惑いと喜び、そして少なからず感じる羞恥心に夏癸の頬は僅かに熱を持った。

 

「……と、好き勝手に感想を述べてしまったけど、まずは謝らないといけないな。勝手に読んでしまって申し訳ない」

「あ、頭を上げてください……!」

 

 深く頭を下げた隆文に対して、夏癸は慌てて声を上げた。

 このように真剣に大人から謝罪をされるのは初めてだった。夏癸の方が思わず狼狽えてしまう。

 すぐに頭を上げた隆文は、口元に微かな苦笑を浮かべた。

 

「彼女のこと、どうか怒らないであげてほしい。どうしても急いで俺に読ませたかったんだと思う」


 それまで穏やかな表情を浮かべていた隆文が、ふいに真剣な眼差しを夏癸へ向けた。手元の紙をそっと指差す。

 

「締め切りは十一月末、ということであまり時間はないんだけど、書いてみてくれないか。君の書く長編小説を読みたいんだ」

「そう言われても……いままで短いものしか書いてなかったし、それに俺、作家になる気とかは全然、なくって。ただ自分が書いてて楽しいだけで」

 

 小説を書いていることを打ち明けるつもりは誰にもなかったのに、隆文に対してはなぜかすんなりと話してしまっていた。困惑している夏癸をよそに、隆文は真剣な面持ちのまま言葉を重ねた。

 

「勝手なお願いかもしれないけど、君の小説をもっと読みたい、世に出したいって思ったんだ。最終選考まで残れば絶対にデビューさせる。君にはその実力がある」

「でも……」

「俺は、プロの作家になった日向夏癸と一緒に仕事がしたい」

 

 ひたむきに向けられた言葉に、胸を突かれた。

 いままで、こんなにまっすぐ彼に向き合ってくれた人は誰もいなかった。

 応えようと口を開きかけた瞬間、隆文は眉尻を下げて口元を緩めた。

 

「――なんて、急に言われても困るよな、ごめん。学校もあるだろうし。でも、もしよかったら挑戦してみてもらえたら」

「やります」

 

 彼の言葉を遮り、夏癸は断言した。

 

「長編を書いて、応募します。待っていてください」

 

 隆文は軽く目を瞠り、やがてゆっくりと表情を緩めた。

 

「楽しみに待ってるよ」

 


 その後は挨拶もそこそこに急いで帰宅した。

 初めて、長編の小説を書く。誰かに読ませるために。何かになるために。ただ自分の感情をぶつけるだけではなく、読む人の心に届くものを書きたい。幼い頃の彼に、ひとつの物語が届いたように。

 足早に帰路を歩きながら、頭の中にはすでに物語が溢れ出していた。早く書きたい。胸が高鳴る。こんな気持ちになるのは初めてだった。

 

 それからは、毎日、時間が許す限り書き続けた。早朝、休み時間、昼休み、放課後、夜。いままでも書くことは楽しかったけれど、これまでにないくらい夢中になっていた。学校ではノートにペンを走らせ、家に帰ってからはキーボードを打ち続けた。寝食を忘れるほどに――とまではさすがにならなかったのだが。執筆に夢中になりながらも、勉強と家事の手を抜くことはほぼしなかった。

 

 ほぼ部室に篭って過ごした文化祭も終わり、中間考査も近かった。成績を落としたり体調を崩したりしては元も子もないと思ったからだ。ようやく本当にやりたいことを見つけたというのに、それだけにかまけて他のことが疎かになってはいけない。万が一、実家に連れ戻されることになるような事態は避けたかった。

 とにかく効率的に時間を使った。試験範囲の内容はほぼ頭に入っているので試験勉強は必要ないくらいだったが、念には念を入れて毎日の通学時間と帰宅してすぐの十五分程度は勉強に費やした。

 食事は栄養バランスを考えつつ時短メニューを作ったり、飽きるとかは気にせずにまとめて作り数日同じメニューを続けたりもした。あまり好きではないが、昼食は購買のパンや学食を利用して弁当を用意する手間を省いた。洗濯物を溜める日数が少し増えたことだけは仕方がないだろう。

 そうして作った時間をひたすら執筆に充てた。筆が止まったときには無理に続きを書こうとはせず、掃除や軽い勉強をすることでいい気分転換になった。

 中間考査は一学期の期末考査に引き続き学年一位になり、試験が終わった二週間後には規定枚数に収まる原稿を書き上げた。

 

***


「よかったら、読んでもらえませんか」

 

 十一月を迎え、およそ一ヶ月ぶりに訪れた文芸部の部室でコピー用紙の束を差し出した。葵は呆気に取られた様子でそれを受け取った。タイトルが書かれた表紙を数秒見たのち、視線を上げて夏癸の顔をまじまじと見つめる。

 

「これ……日向くんが?」

 

 目を丸くしている葵の顔を見つめ返し、夏癸ははっきりと頷いた。

 

「俺が書きました。出す前に、先生に読んでほしくて」

 

 何に出すのかは言わなくてわかっているだろう。夏癸が焚きつけられたそもそものきっかけを作ったのは彼女だ。

 

「えっ、それ日向くんが書いたの? そんな長いやつ!?」

「あたしも読みたい! 部誌の小説もよかったし」

「どこかに投稿するの?」

 

 室内にいた女子の先輩たちが興味津々な視線を注いでくる。文化祭が終わって引退したはずの三年女子の姿もあった。

 

「ええ、まあ。でも先輩方はだめです」

 

 夏癸が応えると、一斉に不満の声が上がる。

 

「先生はいいのにー?」

「椎名先生は別です。……顧問、ですから」

 

 たいしたことではないのに、口にしたらなぜだか気恥ずかしくて、ふいと視線を逸らしてしまった。視界の端で葵がくすりと微笑む。

 

「ありがとう。さっそく読んでいい?」

「いまですか……?」

「家で読まれたら困るでしょう?」

 

 悪戯っぽく笑う葵に思わず首肯する。自宅で読まれて、これから投稿する編集部で働いている隆文に見られるわけにはいかない。そういうことは、きっと、反則だろうと思うから。

 

「それでは、読ませていただきます」

 

 わざとらしく畏まった口調で言ったかと思うと、葵は真剣な表情で表紙を捲った。印字された文章を視線が追いかけていく。夏癸は静かに椅子を引き、長机を挟んで彼女の向かい側に腰かけた。

 葵の後ろから小説を覗き見したそうにしていた女子生徒たちは、彼女の真摯な表情を見てそっと身を引いた。しばらくは部室にいた彼女たちだが、気が付くといなくなっていた。たいして広くもない部室の中には、夏癸と葵の二人きりになっていた。

 

 時折紙を捲る音だけが静かな部室で唯一聞こえる音だった。物語を読み進める葵は、ふいに頬を緩めたり眉を寄せたりしている。夏癸は飽きることなく、自分が書いた文章を読む彼女の姿を見つめていた。

 不思議と時間の経過は感じなかった。いつの間にか窓の外には夕暮れの空が広がり、室内の空気はひんやりと冷えていた。

 捲り上げていたクリップ留めの分厚い紙の束を元に戻し、葵は顔を上げた。瞳が、ほんの少しだけ潤んでいる。

 

「言いたいことは色々あるんだけど……とりあえず、トイレに行ってきていい?」

 

 夏癸が頷く前に、彼女はすでに席を立っていた。


 ***


 小走りで手洗いに行き戻ってきた葵は、すっきりとした表情でペンケースから赤いボールペンを取り出した。書き込んで構わないかと問われて頷く。

 

「よく書けてると思う。初めて書いた長編だなんて信じられないくらい。夢中になって読んじゃった。ここの文章がとくに好きよ、切なくて、でも最後は心が温かくなって……。ここもよかったわ、男の子の孤独感と苦しさが伝わってきて、胸が締め付けられるようだった。ただ、この展開はちょっと急すぎるかもしれない。台詞も、ここはちょっと説明っぽすぎるかも。あとはね――」

 

 ペンで文章に線を引いたり言葉を書き加えたりしながら、葵は次々と指摘してきた。ひとしきり書き込んだところで、はっとしたように顔を上げる。

 

「ごめんなさい! 勝手に色々言って……余計なお世話だった?」

「いえ、参考になります。結構、勢いだけで書いてしまったので。他にも気になるところがあったら教えてください」

「それならいいけど……私、べつに編集者とかじゃなくてただの本好きな国語教師だけど、いいの?」

「いいんです。先生が思ったことを教えてください」

 

 葵はひとつ頷くと、再びペンを動かし始めた。気になった箇所や好きな部分の感想を話しながら次々と書き込んでいく彼女の手元を覗き込む。自分が書いた物語に口出しされるのは初めての経験だったけれど、不思議と心地良く感じられた。

 葵の手が止まった頃には百枚以上ある用紙はすっかり真っ赤になっていた。修正したほうが良い点だけでなく好きな台詞やこの表現が良いということまで書き込まれているので、何も書かれていないページはない。

 

「私の意見をすべて気にする必要はないから、夏癸くんが納得のいくように直してみて。きっと完成度が上がると思う」

「……はい。直したら、また読んでもらっていいですか?」

「もちろん」

 

 葵は優しく顔を綻ばせた。窓の外はすっかり日が落ちている。それからすぐに、戸締りの確認にやってきた教師にとっくに下校時間が過ぎていると二人して注意されたのが、なんだか可笑しかった。夏癸は追い立てられるようにして家に帰り、すぐに原稿を書き直し始めた。

 修正するたびに放課後の部室で葵に読んでもらい、推敲を重ね、自分が納得できる物語に仕上がったのは締め切り日の三日前だった。

 

「……うん。すごくよくなった、と思う。私、このお話好きよ。大好き」

 

 手元の紙束から顔を上げた葵は、頬を紅潮させて夏癸に視線を合わせた。一回り以上歳が離れた大人だというのに、葵はまるで少女のように目をきらきらと輝かせている。

 

「ねえ、ペンネームはどうするの? 決めてある?」

「……考えていませんでした」

 

 すっかり失念していた。まだなれるかはわからないが、作家としての自分に相応しい名前。考えてみるがすぐには思い浮かばない。だが、じっくりと考えている時間もない。少しの間思考を巡らせた末、夏癸は口を開いた。

 

「本名でいこうと思います」

 

 何気なく応えたつもりだった。けれど、もしかしたら。誰かに、見せつけたかったのかもしれない。自分は何も持っていないわけではない。これだけのものが書ける、のだと。

 

「……いいの?」

「だめですか?」

「ううん。夏癸くんがいいなら、それでいいと思う」

 

 初稿を読んでもらったあの日から、この部室で二人きりでいるときだけ葵は彼のことを名前で呼ぶようになった。父親が名付けたらしい『夏癸』という名前にいままではとくに愛着も持っていなかったが、彼女に名前を呼ばれると心地良く耳に響いた。だから、筆名は日向夏癸で構わない。

 その日のうちにポストに投函した。葵とともに過ごした時間で作り上げた作品が何らかの結果をもたらすことを、ほんの少しばかり祈りながら。 

 

***

 

 ――結果として夏癸は初投稿で大賞を獲得した。二年生に進級したばかりの彼に受賞の連絡をしてきた編集者は隆文で、そのまま彼が担当になった。編集部へ顔合わせに訪れ契約関係の手続きをした後、打ち合わせを兼ねてという名目で夕食に招かれ祝われたのが、少し気恥ずかしいが嬉しかった。

 菱川出版の新人賞を高校生が受賞したのは初めてだということで、ちょっとしたニュースにもなった。新聞の片隅に記事が載った夜、珍しく実家の番号から携帯に着信が入った。

 電話口の義母ははしゃいだ声を上げてすごいすごいと連呼していた。

 

「本が出たら絶対に買うわね。おめでとう、夏癸くん」

 

 煩わしく思いながらも、ほんの少しだけ胸が温かくなった。――電話口から聞こえる声が父親に代わるまでは。

 

「小説の賞を受賞したそうだな」

 

 低く重苦しい声が聞こえてきた瞬間、すうっと心が冷えた。

 

「お前がそんなものを書いているとは思わなかったが、勉学に支障のない範囲でなら好きにしなさい。日向の名を傷付けることだけはしないように」

 

 祝いの言葉ひとつない父親の声は癪に障ったが、態度には表さず手短に会話を終えた。

 通話を切っても不愉快な気持ちは残っていたが、その後、隆文からデビュー作の刊行に関する連絡がきて気持ちが切り替わった。

 両親を喜ばせるために小説を書いたわけではない。自分のため、そして何より自分の小説を好きだと言ってくれた人に読んでもらいたくて書いたのだ。

 九月に発売されるデビュー作の改稿作業を進めながら、二作目の構想も考えておいてほしいと言われた。自分を慰めるためだけに文章を書き始めた頃はなりたいとも思っていなかったプロの作家になれた実感が湧いてきた。何かになれるということが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。

 

 仕事とは関係なく椎名家に呼ばれることも多くなった。一人暮らしの夏癸を気遣ってくれたのだろう。どうやら本当は人見知りが強いらしい茜もすぐに懐いてきた。絵本を読むことをせがまれたときは戸惑ったが、拙い読み方に不満を上げることもなく喜んでくれる茜を見ていると胸の奥が温かくなった。

 普段は人付き合いを煩わしいと感じてしまう夏癸だが、彼らと接することは心地良かった。顔を合わせるたびに、彼らはまるで家族のように家に迎え入れてくれた。生まれて初めて、自分の居場所を手に入れたような気がした。

 ――それから、仄かに色付き始めていた夏癸の世界は、まるで物語のように劇的に、色鮮やかに塗り替えられていった。

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