7/29(水) 小鳥遊知実

 目を覚ますと、目の前に美原さんの顔があった。



「うっ……」

「……ほらバケツ」



 渡されたバケツに思いっきり吐く。バシャッという音と、すえた臭いが部屋に広がる。胃液と水分しかもう出ない。



「ぐっ……」

「人の顔見て吐かれるのは、あまりいい気分じゃないわね」

「すんませ……っごめっ」



 バシャッ。

 バケツが音を立てる。

 喉の奥に何かがいる。何かがごろごろと転がって、刺激する。手足がしびれて、身体を起こすのが辛い。頭が、働かない。



「……」

「……これ、今後も続けるから」



 美原さんは静かにそう言った。



「……いっそ、殺してくれ」



 口から出たのはそんな情けない言葉だった。半分冗談で、半分本気。



「初めての割には頑張ってると思うけど、この治療、月見里はずっと受けてるからね」



 治療? これが?? むしろ、身体を破壊してるだろ。マジふざけんなよ。

 頭の内側がぷくぷくと膨らみ続けている気がする。目を開けているだけで苦しい。気持ち悪さが増すため、ふたたび目を閉じた。



「あの子の腕、見たでしょ、たくさんの傷」



 そういえば……初めて会ったとき。



「あたしたちがこれであの子を追いつめて、自傷させてたのよ」



 自傷……って?



「自殺……?」



 美原さんは首を振った。



「いいえ。あれくらいじゃ人は死なない」



 そうなのか。なんだよ、人間って簡単に死なないじゃんか。

 まあ、俺がこうやって死にそうになりながらも、生きているのと同じか。

 そして俺は思い出す。



『ねえ、なんで人は簡単に死ぬの?』



 ……あれは皮肉だったのかもしれないな。



「それが、小鳥遊が来てから、月見里は自傷しなくなった」



 それは知らなかった。俺が関係しているのかはわからないけど、素直にうれしいな。



「……ありがとう、感謝してる。小鳥遊がいることで月見里は変わってる。無表情でほとんど喋らなかったあの子が、年相応の女の子らしくなったよ」



 うっ……だめだ。

 身体を少しずらし、バケツに体内のものを吐く。

 もうお腹のなかになにもないですよ……。カンベンしてくれ……。

 美原さんが水さしで水を飲ませてくれた。



「ねえ小鳥遊。手術を」

「いらん」



 即答する。

 そんなことはどうでもいい。この戦いが早く終わりますように。


 昨日から始まった投薬の副作用は想像をはるかに越えていた。手術をしないで薬でごまかす、ってこういうことかよ。身体の中の血を全部抜いて洗いたい。自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。

 死ぬかもしれない、と何度も思った。だけど、気を失って昏睡してもその度に必ず目は覚める。目覚めて、絶望する。痛みに。そして、孤独に。

 ほたるが俺を慕ってくれた意味。やっと、本当の意味で分かったんじゃないだろうか。

 痛みや辛さは本人しか分からない。どんだけ重い軽いと差があっても、本人が辛いならばそれは立派な痛みと判断され、第三者から見れば平等だ。それは他人が判断するのは難しいから。

 でも、俺たちは同じ痛みを分かっている。だからこそ、思い合う資格があるんだ。



「あたしの個人的な意見だけど……、あんたを失いたくないのよ」

「……」

「あんたはどうせこのままだと死ぬ。だったら手術するのも手かもしれないわ」

「ゴホッ……」

「必ず、助けるから」



 ふいに涙が目尻からこめかみを伝って、ベッドに落ちた。気づかれないように咳き込むフリをする。

 俺だって、生きたい。でも、手術後もし記憶を失ったとしたら、それは“今の俺”とは別人だ。俺じゃない俺が、俺のポジションで生きることを俺じゃない俺を、俺のように接されるのが、今の俺が、許せないんだよ。

 むかむかしたものが胃を押しつぶし、ねじり上がってくる。



「……ッ!」



 洗面器に飲んだばかりの水を吐いた。



「ちく……しょう……」



 こんな辛い目に合っているのに、なんで人は簡単には死なないんだろうな? ほたる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る