第十八話 ピリリョフ大尉の喜悦

ポサドニック号艦長ピリリョフ大尉は上機嫌だった。


正直、日本に来てから計算違いの連続だった。

未開の野蛮人だと思っていた日本人は何艘もの蒸気船という想像以上の武力を有し、秩序だった指揮系統を持っていた。

おかげで、対馬の一部を占拠するという目的は早々に諦めざるを得ず、日本が太平天国に武器を輸出しているかもしれないという疑惑を追及する機会を得る余裕すらなかった。

ポサドニック号の故障を口実に、英仏と交易をしているという対馬の一角海栗島に上陸することは出来た。

だが、このままでは何も出来ないまま、情報収集だけして帰るしかないところだったのだ。


折角、日本まで来たのに情報収集して帰るだけでは、ピリリョフの評価を下げることになりかねない。

何しろ、対馬の一角を占拠し、太平天国への日本の武器輸出を止めるのが目的だったのだから。

日本の軍事力が予想以上であったと説明しても、ムラヴィヨフ提督に失望されることは避けられないだろう。

だから、ピリリョフは海栗島に上陸するロシア兵に何か起きてくれることを期待していた。

そして、期待通り、日本兵によるロシア兵殺傷事件が起きたのだ。

戦争において犠牲は付き物。

犠牲を出しても、それ以上の戦果を挙げれば良いのだ。

そう考えるピリリョフが、ロシア人殺傷事件の発生に喜ばないはずはなかった。


現在、日本に来た外国人は日本の法に従うことが条約で認められている。

法の整備が未熟なアジアの国家にしては、別格の扱いだ。

そんな中、日本兵がロシア兵に危害を加えたのだ。

この事件を利用して、日本の特権を奪うことが出来れば、ピリリョーフの評価も上がるだろう。

ピリリョフは、早速、海栗島で仲間を探して動き始める。


アジアでは最大の国家清国でさえ、アヘン戦争の敗北から領事裁判権が認められている。

日本だけが、自国の法でロシア人やその他の欧米人を裁けるというのは異常な状況なのだ。

そんな事態を面白くないと思う欧米人は多いはずだ。

そう考えたピリリョフは、今回の事件を利用し、他の国も巻き込んで日本に圧力を掛けられると考えたのである。


しかし、日本に対する圧力を掛ける仲間の発見は予想以上に難航する。

まず、ロシアがクリミア戦争に勝っているということから、イギリス人、フランス人がロシアに非好意的なのだ。

ロシア兵が日本兵に殺害された事実を強調し援助を求めても、それでロシアが更にアジアで勢力を拡大することに対する警戒心が勝ってしまうようなのだ。


更に、日本に対する英仏の評判の良さもピリリョフの足を引っ張る。

昨年のプリンス・ケーキ(一橋慶喜)一行の訪問に対する日本人ブームは未だ冷めやらぬ状況。

それに加え、直近でも、太平天国に襲撃される上海から、婦女子を救出した日本の英雄的なニュースは、日本人気に拍車を掛けていた。

そんな状況で、ロシアの味方をして日本を非難すれば、下手をすれば、本国国民から批判されかねない。

そんな風に考え、ピリリョフへの協力を拒否する者も少なくなかったのだ。


まして、海栗島で活動する英仏人たちは、日本の驚くべき治安の良さを満喫する状況だったのだ。

財布を落としたら、落とし主をわざわざ探して来る日本人たち。

夜の歓楽街や裏路地でさえ安全な街など、アジアどころか、ヨーロッパにも、世界中何処を探しても存在しないだろう。

そんな安全で治安の良い街でロシア人が殺害されたという事件。

英仏人たちは、ハッキリ口には出さないが、ロシア人が日本兵に斬られたのであるなら、ロシア人側に問題があったのだろうと内心で考えてさえいたのだ。


とは言え、全ての人の意見が一致することなどあり得ない話だ。

欧米人の中には、日本に来ていても日本ブームを面白くないと思う人間も、ある程度は存在する。

最初から、アジア人だと言うだけで日本人を見下している人々。

古い武器を日本に売りつけて一儲けしようとして失敗した武器商人、アヘンを売りつけようとして日本国内にアヘンを持ち込めなかったアヘン商人など、儲からなかった人々は日本ブームで日本が持ち上げられることに不快感しか持っていなかった。


『シャーデンフロイデ』、人は不平を持った時に、自分で努力して、その不平を克服するよりも、他人を引きずり降ろすことで快感を感じる傾向にある。

それ故、欧米の日本ブームの中でも、日本を引きずり降ろしたいと考える人々も一定数は存在したのだ。

ジャーナリストなどにも、その様な人々は存在する。

持ち上げられた存在が、地に叩き落されるのを喜ぶ人々も存在するのだ。

この点、日本の繁栄が他国の繁栄に繋がるようにするという方針が幕府側にあったおかげで、対馬に来る異人の多くは日本に来て儲けている人が多い。

その為、ピリリョフは、日本に反感を持つ仲間を見つけることに酷く苦労したのではあるが、それでも、多少の仲間を見つけることが出来たのだ。


ピリリョフは、日本兵によるロシア兵殺傷事件を利用して、日本におけるロシアの地位を上げることを考えていた。

まず、犯人の引き渡しと謝罪は当然のことだ。

治安を守るはずの日本兵がロシア人を殺傷したのだ。

厳格な処罰と賠償を要求するのは当然だろう。

その上で、日本側の処罰が甘ければ、改めて領事裁判権を請求しても良いだろう。

当然、領事裁判権など、日本が簡単に飲むはずもないだろう。

だが、こちらはロシア人が殺されたのだ。

場合によれば、ロシア人保護を開戦事由として、日本と戦い、元々の目的であった対馬の一部占拠に加え、サハリンを占拠してしまっても良い。

国際世論さえ味方に出来れば不可能ではないはずだとピリリョフは考えていた。


これに対し、日本側の動きは、ピリリョフの期待通り鈍重な物となっていた。


事件が起きた直後、日本側はすぐにロシア人を日本兵が殺傷したことに関し謝罪に来た。

前から首を突かれて死んだロシア兵は即死だったようだが、腕を斬られたロシア兵に関しては最大限の医療行為がなされていた。

だが、その後の対応が遅かった。

日本側は、対応を江戸の幕府に確認すると言ってから1か月、ほとんど動きがないのだ。

ロシア語を話せる日本兵がロシア人殺傷事件の犯人であるということも理由の一つであろう。

その為、事件から数日後に桂と名乗る日本人が江戸から対馬にやってきて挨拶に来ている。

しかし、その後、事件の捜査中という名目の下、何度かの聞き取りがロシア側に行われただけで、特別な動きがある様にはピリリョフには見えなかった。

この事は、日本の司法制度、警察制度が未熟な為であると批判する十分な要素になるとピリリョフは考えていた。


そんな中、日本側から、裁判開始が宣言される。


場所は、新しく建てられた建物。

どうやら、この事件が起きてから大至急、島の中央の広場に建てられた建物であるらしい。

ピリリョフ及び被害者である腕を斬られたロシア兵が、建物に近づくと、その異様な姿に目を奪われる。

建物の奥には、一段高い床があり、その奥に襖と呼ばれる紙の扉があるようなのだが、それ以外に壁がないのだ。

木の柱が立てられ、壁のない建物の上に屋根だけが乗っている。

ピリリョフらが座る場所には椅子が置かれ、その下には白い石が敷き詰められている。

何なのだ、この裁判所は。

ここで裁判をするにしても、まるで見世物ではないか。ピリリョフは内心憤慨する。


ピリリョフらが考える通り、裁判所の廻りには野次馬が集まり始めていた。

裁判が行われることが事前に島中に通知されていたのだ。

その上で、野次馬の為に、座る為の椅子まで用意されている。

どうやら、屋根と柱と下の白い石が裁判所と傍聴席の境目になっているようだ。

野次馬達は、裁判所の外に集まり、座れない者も立ち見で見物している。

ピリリョフの仲間も、その野次馬の中に混じっている。

隠すことはないというパフォーマンスか。

本当に、日本人というのは一筋縄ではいかない連中だな。


ピリリョフがそんな風に考えていると、縄で縛られたサムライが現れ、白い石の上に置かれたむしろの上に座らされる。

ロシア兵殺傷の容疑者とされている男だ。

男が入ると、一段高い床のある建物の襖が開き、三人の男が現れる。

一人はロシア語を話せる桂と言う男、もう一人は最初に謝罪に訪れた大鳥という男、あと二人はピリリョフの知らない男。

ピリリョフの知らない男の内の一人が真ん中に座る。


真ん中に座った男が日本語で何やら叫ぶと桂がロシア語に、もう一人の男が英語に翻訳し、


「それでは、これよりロシア兵殺傷事件の裁判を開始する」


と宣言をする。


こうして、ロシア兵殺傷事件の裁判が始まったのである。

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