第十二話 加速する歴史

何故、勝てない。

東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフは焦っていた。


ムラヴィヨフの地位は、徐々に危ういものになりつつあった。

本来、東シベリア総督はロシア皇帝が直接任命する職である。

そして、10年前にムラヴィヨフを任命したロシア皇帝ニコライ1世は既に鬼籍に入り、今は皇帝アレクサンドル2世の御代となっている。

つまり、新皇帝が新たな総督を任命すれば、それだけで失職しかねない状況なのである。

実際、2年前の1855年に日本との国交を結んだプチャーチンが次の東シベリア新総督になるのではないかとの噂が流れる位の状況であったのだ。


加えて、ロシア帝国及びアレクサンドル2世の興味の中心は明らかにバルカン半島に移りつつある。

アジアの東の果てで起こる事よりも、ヨーロッパと首都サンクトペテルブルグに近いバルカン半島に興味が移るのも仕方ないこと。

アレクサンドル2世は、バルカン半島の発展に力を入れ、イギリス、フランス、オーストリア、プロシアなどの勢力に対抗する為、資金も人材も優先的に注ぎ込んでいる。

バルカン半島優先の姿勢は、クリミア戦争継続の為、アラスカとカムチャッカ半島の一部を日本に売却してしまったことにも表れていると言えるであろう。

その上で、クリミア戦争が終わっても、イギリスの勢力を削る為、ロシアはインド大反乱から手を引く訳にも行かない状況。

とても、東シベリアにまで手を出す余裕がないというのが、ロシアの本音であった。


こうして、閑職になりつつある東シベリア総督のムラヴィヨフは、黙って落日を受け入れる程、枯れてはいなかった。

彼は、この時48歳。

若くして38歳で東シベリア総督に任命された彼は、まだまだ野心に満ち溢れていたのである。


そこで、ムラヴィヨフが選んだのが、太平天国の乱に介入することであった。

その為の方法はインド大反乱でもロシアが行っている一部勢力への武器の提供。

ムラヴィヨフはインド大反乱でロシアが行っている方法から学んでいた。

清国に武器を提供して太平天国の乱を鎮めさせ、ロシアが清国への影響力を増していくことを考えていたのだ。

武器を得た清国が太平天国を倒した後、イギリスやフランスの植民地撃退に向かえば、それも良し。

清国に武器を提供する報酬として、清国から人があまり住んでいない外満州(沿海州、ウラジオストックのある辺り)を貰う約束も出来ている。

ロシアがアジアでの勢力を増し、英仏の勢力を減退させる一石二鳥の策。

計算通りに清国が太平天国を滅ぼしていれば、ムラヴィヨフのアジアでの功績はロシアでも比類なきものとなっていただろう。


だが、清国が太平天国に勝てないのだ。


もともと、清国への武器援助はロシア本国の許可を得て行ったものではない。

全てはムラヴィヨフの独断によるものである。

それ故、渡せる武器の量も、ロシアがインドに行った様な大規模な物ではなかった。

東シベリアにいるロシア軍の武器の中から、古く、使わなくなった物を清国に譲渡したに過ぎなかったのだ。

まあ、それでも、もっと古い骨董品の様な武器を使っている清国よりも、ずっと強力な武器ではあったのだが。


ムラヴィヨフの武器供与直後は、清国は好調であった。

もともと、太平天国にたいした武器はない。

そこに、一昔前とは言え、進んだロシアの武器が提供されたのだ。

防戦一方だった清国は一気に攻勢に転じた。

太平天国の滅亡は目の前に迫っていると思われていた。

追い詰められた太平天国が英仏の上海租借地に攻撃を開始したと聞いた時は笑いが止まらなかった程だ。


ところが、数か月前から戦線が膠着状態になってしまった。

何処からか武器を手に入れた太平天国が、清国の攻勢に立ち向かって来たのが原因であるとの報告は受けている。

いつまでも結果の出ない紛争に清国側は不満を述べ、更なる武器の供与をムラヴィヨフに要求。

それだけではなく、武器供与の報酬だったはずの外満州(沿海州)の譲渡も渋り始める始末。

かと言って、ムラヴィヨフが独断で武器を清国に渡している以上、清国に譲渡出来る武器が豊富にあるはずもない。

これ以上、清国に武器を渡せば東シベリア軍の武器が足りなくなる。

その上、東シベリア軍に武器が足りなくなれば、猶更、清国は外満州の譲渡も渋るであろう。


そもそも、太平天国は宗教的な反乱に過ぎない。

つまり、職業軍人は多くないはずなのだ。

それに少々の武器が入った位で何故、清国の軍人は勝てないのだ。

清国が太平天国に勝ってさえくれれば、うまく行くはずなのに。


ムラヴィヨフは苛立ちを隠せず、側近に尋ねる。


「それで、太平天国は何処から武器を手に入れたか分かったのか」


「いえ、噂では日本が武器を売っているという噂がある様ですが」


「日本?あの国に、そんな武器があるものか。

イギリスかフランスが渡しているはずなんだ。

武器を現地人に渡せば、反乱鎮圧が困難になることは、インドで解りそうなものだが、懲りない連中だ」


ムラヴィヨフは不満気に呟く。

彼の常識では、日本人は気が荒く排外的であるようだが、ロクな武器もない国。

軍艦も持たず、刀を振り回す野蛮人というのが、ムラヴィヨフの認識であった。

だが、その認識は間違っていた。

300年前の日本は世界一の軍事大国であったのだ。

当時において、ヨーロッパ全域よりも多くの銃器を持っていた国、それが日本という国であった。

ただ、銃という物が支配階級である武士でなくても、簡単に使える武器であったが為に武士に嫌われ、表舞台から姿を消しただけ。

火縄銃などの古い武器であるならば、十分な量を保有していたのである。


「しかし、日本は侮れない国です。

あるいは、本当に太平天国を援助している可能性はあるかと」


その認識を正そうと、ロシア海軍ネヴェリスコイ大佐が声を上げる。

彼は、ムラヴィヨフの命でサハリン(樺太)占領に動き、日本に撃退された人物(第三部十九話)である。

ネヴェリスコイ大佐は、水戸藩と松島藩の連合軍に遭遇し、長期間にわたり日本人と過ごして来ている。

この中では、一番の日本通と言っても良いだろう。

だが、そんな態度をムラヴィヨフは鼻で笑う。


「どうも、多くの者は日本人に会うと魅了されてしまうようだ。

ロシアでも言われているようだよ。

日本人はコサックの様に勇猛で、貴族の様に教養に満ち、聖職者の様に礼儀正しいと」


「それは、誇張かもしれませんが、虚構ではありません。

私がサハリンにいる間にも、日本人は命を捨てて我らに立ち向かい、ロシア語を習得し、我々からスクーナー船の作り方まで習得しました。

侮って良い相手ではありません」


ネヴェリスコイ大佐の言葉にムラヴィヨフは不満気に応える。


「なるほど、日本の可能性もあるのか。

では、日本が太平天国に武器を供与していた場合はどうする?

日本からの武器供与を止める為に、清国に行く日本の船の臨検でもするのか」


ムラヴィヨフの言葉にネヴェリスコイ大佐が気色ばむ。


「もう、太平天国に十分な武器が渡ってしまった後では、日本船の臨検をしたところで、戦況に変化はないでしょう。

その上で、ヨーロッパでも人気の日本と敵対すれば、国際的非難を免れないかと」


「だが、本当に日本が太平天国に武器供与をしているのに、これ以上放置すればどうなる?

膠着状態では済まず、清国が太平天国に負けることもあり得るのだぞ」


ムラヴィヨフは溢す。

元々、武器を供与すれば、外満州(沿海州)は譲渡するという清との約束だったはずなのだ。

それなのに、太平天国に勝てないからと言って、約束も守らず、譲渡を渋り始めるとは。

儒教国である清国は、国際関係を上下関係で捉える為、目下の相手との約束を絶対に守らなければならないという感覚はない。

創造主たる神が人との契約を守ってくれるから、人同士も契約を守らなければならないとする欧米の常識と大きく異なるところである。


「それでは臨検ではなく、もっと強い手を打って日本を牽制しては如何ですか」


海軍服を来た口髭の男が提案する。

男の名はニコライ・ピリリョフ中尉。

ポサドニーク号の艦長である。


「強い手とはどういう手だ?」


「まず、日本が太平天国を支援しアジアの安定を乱していることを非難します。

事実はどうあれ、噂が流れているのならば、それだけで十分。

我らの方が日本人より国際的に信用があることは間違いございませんからな。

それで、国際的非難は躱す事が出来るでしょう。

その上で、対馬に船を送り、太平天国に武器供与していない事を確認する為の常駐を申し出るのです。

うまく行けば、対馬に我らの基地を作ることも可能となるでしょう」


ピリリョフ中尉の言葉に、ネヴェリスコイ大佐が慌てて反対する。


「無理だ。

そんな事は不可能だ。

対馬の一部を占領しようとすれば、日本人は命を惜しまず襲い掛かって来ることでしょう。

それに、対馬は日本が、英仏との交易地としている土地。

英仏の目もあり、強引な手を打つことは難しいかと」


ネヴェリスコイ大佐の言葉にムラヴィヨフは考える。

確かに、ネヴェリスコイ大佐の言う通りならば、日本側は強硬な手に出る可能性は高い。

サハリン攻略時は日本と交易を始めるという目的があったから、ロシア側は強硬手段に出る訳にはいかなかった。

だから、脅しに屈するしかなかったと聞く。


だが、それでロシア側に被害が出れば?

日本を堂々と攻める口実に出来るのではないか?

日本が太平天国に武器供与をしているなどと言う噂を信じている訳ではない。

だから、対馬攻略に成功したところで、太平天国への武器供与を止められないかもしれない。

しかし、対馬にロシア海軍基地を確保する事が出来れば、今彼らがいるアムール川河岸のニコラエフスクからサハリンを通って対馬までのロシア海軍は、航行の自由を手に入れられることになる。

それは、沿海州を手に入れるのに勝るとも劣らぬ功績。

それに沿海州も、清国が太平天国に敗れるならば、実力で奪取すれば構わないではないか。


人は皆自分の見たいものしか見ようとしないと言う。

追い詰められたムラヴィヨフも、また自分の見たい物しか見えなかったのかもしれない。

こうして、彼は決断を下す。


平八の夢より、3年も早く、ロシア軍艦による対馬占領事件が起きようとしていた。

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