第三十話 ポーハタン号の再来
ポーハタン号の再来は幕府に二重の衝撃を与えた。
一つは、今回のアメリカとの間の条約で確保出来たはずの安全が決して盤石ではないということ。
今回の条約で、アメリカは本州、蝦夷、四国、九州及び琉球付近の領海に幕府の許可なく無断で入らず、出入りを黙認するのは小笠原諸島近辺のみだったはずなのだ。
だが、今回のポーハタン号は、その約束を無視して、再び江戸湾まで入って来てしまっている。
アメリカの約束違反は、今後、交渉する上で有利になるかもしれないが、砲術試しでアメリカの武力を見せつけられている側としては、決して楽観出来るものではなくなっていた。
そして、もう一つは、こんなにも短期間でアメリカの船が再びやって来たこと。
幕府の多くの人間としては、ペリーはアメリカに帰ると言っていたから、次にアメリカの船が来るのは、数年後になると思っていたのだ。
その為、小笠原諸島、父島の整備を急ぐ阿部正弘をせっかちと嘲笑っていた者もいた位だ。
それが、こんなにも早くやってくるとは。
最初、幕府は途中、嵐にでもあってポーハタン号が戻ってきたのだろうと考えていた。
だが、江戸湾に入ってきたポーハタン号を制止する為に乗り込んだ浦賀奉行から、ポーハタン号の目的を聞いて幕府は沸騰する。
ポーハタン号は既にアメリカまで帰っており、今回の来日は条約の批准書を届け、遣米視察団を迎える為に来たというのだ。
ペリーの親書では、江戸からアメリカまで数十日で来られると書いてあったが、それを本気で信じる者はいなかったのだ。
只の脅しであり、誇張だと思い込もうとしていた。
だが、今回のポーハタン号の再来日は、本当に数十日でアメリカから日本に来られる事を証明してしまったのだ。
あの巨大な砲と蒸気船を持つ国家が、数十日で日本まで来られる距離に存在する。
それは、幕府に非常に大きな脅威を感じさせるに十分な状況であったのだ。
そして、海舟会の面々及び平八の書を見た者たちの一部に、ポーハタン号再来は更なる衝撃を与えていた。
その言葉を一言で表せば、何故、こんな時にというもの。
ある者は無意識に、またある者は論理的帰結として、不穏な物を感じ取っていたのだ。
条約を結んだポーハタン号が数か月で批准書を持って戻ってくることは平八の夢で伝えられていたことだ。
そして、ペリーとの交渉が平八の夢の場合よりも早く終わっているのだから、ポーハタン号が、平八で夢で見た日程より、早く戻ってくることも不自然なことではない。
だが、平八から聞いた限り、今頃に江戸湾にいることは危険なのだ。
日本は、まだ外国人と交流する準備が出来ていない。
海外視察を行い、攘夷派の人々の考え方を段々変えていくのが日本の基本方針だ。
だからこそ、アメリカ船は本州まで来ないで、小笠原で待つように伝えていたはずなのだが、ポーハタン号は江戸湾に来てしまった。
そこには、攘夷派の反発と同時にもう一つの問題があった。
歴史は変わったはずだったのだ。
だから、今、この頃に、異国の船が江戸湾にいないはずなのに。
どうして、ポーハタン号が来てしまったのか。
平八の夢で得た情報から、ポーハタン号に脅威が迫って来る可能性を理解している阿部正弘は、ペリーと交渉した江川英龍、佐久間象山及び中浜万次郎を呼び出し、ポーハタン号に向わせることとした。
三人が下田沖に停泊するポーハタン号へと向かうと、ポーハタン号には前回来た者は誰もいなかった。
特使として来たアダムス特使は、ペリーの参謀長として来たアダムスとは別人。
アダムス特使は、乗り込んで来た三人を物珍しそうに見ながらも微笑みを浮かべ、手を差し出す。
「ポーハタン号にようこそ。私は特使のアダムスです。
先ほどの使いの方にもお伝えしましたが、今回はアメリカ議会で承認された条約の批准書のお届けと
アメリカに派遣される日本の視察団のお迎えに伺いました」
差し出された手を強く握り返しながら、江川英龍が答える。
「幕府の全権代理で来ました江川英龍です。
しかし、今回の条約では、無断で我が国の領土に入らないことを約束したはずではありませんか。
批准書をお持ちとのことですが、アメリカは我らとの条約を断りに来たと言うことでしょうか」
事前の情報で聞いていたものの、日本に自分達の言葉を話せる人間がいることに多少驚きながらも、アダムス特使は握手している手を離すと、用意した椅子に座ることを進めながら答える。
「いいえ。私たちは、日本との条約を破る気はありません。事情をご説明するので、まずはお掛け下さい」
席を進められて、三人が座ると、江川英龍が日本語で話し、それを万次郎が英語に訳して伝える。
「我が国は、一言で言えば、外国との交流を望んでいません。
だから、無断で小笠原諸島以外の我が国の領土に来ないことを条約で決めたはずです。
それなのに、何故、あなた達は、ここに来たのですか。
あなた方が、我が国との約束も、我が国の法も守らず、無断で我が国に侵入すれば、我が国のアメリカへの警戒心が上がり、条約の成立も、アメリカへの視察もなくなりかねないと言うことを理解しているのでしょうか」
「この国は、他のアジアの国とは、だいぶ違うようですね。
アジアの国は、もっと、おおらかだと聞いていたのですが」
アダムス特使が肩をすくめながら、そう答えると、苛立った象山が口を挟む。
「他の国のことは知らない。我らは約束を守る。
だから、我らと付き合いたいと言うならアメリカも約束を守り、早く小笠原に戻ってくれ」
思わぬ象山の剣幕にアダムス特使は驚きながらも、それを宥め、静かに話す。
「まず、我らが悪意を持って、ここに来たことでないことは理解して頂きたい。
確かに、あの島で待つようにとは言われましたが、あの島には何もないではないですか。
その上、あの島から、ここに来るまで何日もかかると言う。
だから、私たちは、あなた方の帆船に連絡をお願いするのではなく、自ら、私たちの到着をお伝えして、
そのまま、派遣団の方々をアメリカにご案内しようと思ってきたのです」
あくまで、合理的な行動であり、親切で行ったとアダムス特使は主張するが、日本側としては、そんな主張を受け入れる訳にはいかない。
日本に無断で許可なく近づかないというアメリカとの約束が守られないのなら、攘夷派の連中が爆発し、日本は平八の夢通り、大混乱に陥ることが予想出来るからだ。
本当に、アダムス達に悪意がなく、只の親切心からの行動だったとしても、認める訳にはいかないのだ。
アダムス特使の説明に対して、江川英龍が答える。
「悪意がなく、ここまで来てしまったことは認めましょう。
だが、あなた方が、約束を守らず、無断で我が国に侵入するならば、条約の成立そのものが破綻します」
江川英龍の言葉に、象山が付け足す。
「まず、約束を守って貰おう。悪意があったかないかなど関係ない。
これ以上、我が国に滞在し続けるなら、ペリー提督が結び、アメリカ議会で批准されたという条約が、
アダムス特使、あなたのせいで、失効することになるだろう」
そう言われて、アダムス特使も怯む。
彼は、今回、交渉しに来た訳ではない。
アメリカの批准書を届け、日本の視察団を迎えに来ただけなのだ。
自分の態度が悪くて、条約を破棄されるなど、絶対にされたら困るのだ。
「わかりました。約束は守ります。
ですが、あの島で我が国と貿易をしようと言うならば、もう少し港を整備して戴けませんか。
物資も人も少な過ぎます。
あれでは、補給も、寄港も難しすぎるでしょう」
それに対して、江川英龍が答える。
「今回の条約では、交易をする約束などしていません。
条約文と一緒に、議事録も渡したはずだが、読んでいないのですか。
我が国に無断で入らないこと、我が国の法を守ること、小笠原諸島に来るアメリカの捕鯨船に対してのみ、補給を行い、無許可で遭難して上陸したアメリカ人に対して、人道的な扱いをすることを約束しただけです。
その上で、今後の親睦を深める為、我が国より、アメリカに視察団を派遣すると約束はしましたが、
その結果、交易を行うに値する相手かは、視察の結果、検討するというはずでしたが」
「しかし、ペリー提督からは、アメリカ視察をすれば、日本は貿易開始を検討すると聞いているが」
「視察の結果、アメリカが付き合うに値する国だと判断すれば、という事です。
最低でも、約束を守る国であることを示して頂けなければ、付き合うことなど出来ませんよ」
江川英龍がそう言うと、アダムス特使は降参を示すように両手を上げて答える。
「わかりました。仰る通り、あの島まで戻りましょう。
ただ、それなら、あそこで何日位待てば良いのか、教えて貰えませんか。
それに、批准書の受け渡しをどこで行うのかもね」
そう言われて、江川英龍が、少し考えてから答える。
「批准書は、ここでお受けしようと思っていたのですが、渡して頂けませんか?
その上で、視察団の団員は決まっていますが、準備に時間が必要ですから、1か月程、待って貰えないでしょうか」
「批准書の受け渡しは、もっと大勢の人を呼んで、セレモニーとして行って貰えませんか。
せっかく、アメリカから来たのです。
それなりの礼儀を持って対応して頂きたい。
それに、視察団の準備に1か月も掛かるとは時間が掛かり過ぎませんか?
もし、どうしても、それだけの準備に時間が掛かると言うのなら、その間の滞在の為の水、食料などの補給は保証して頂きたい」
「批准書の受け取りについて、どうしても儀式が必要だと言うなら、
小笠原で批准書の受け渡し式を行いましょう。
その上で、補給も保証しましょう。
だから、早く父島まで戻っては頂けませんか」
アダムス特使はため息をついてから答える。
「どうも、あなた方は、是が非でも、我々を追い払いたいようですね。
我々が歓迎されない客であることは理解しました。
それでは、明朝にでも、ここを出て、あの島に向かうことにしましょう」
「明朝ですか。今すぐ、出ることは出来ませんか?」
「もうすぐ日が暮れます。夜間の航行はさすがに危険ですからね。出発は明日の朝までは無理ですよ」
夜間の航行が危険だから今すぐ出港することは難しいと言われると、さすがに出港を強要することは難しくなる。
まあ、一晩位大丈夫だろうと江川英龍も考え、なるべく早い時間の出港を勧め、船を下りることにする。
だが、その見通しは最悪の結果で報われることとなる。
翌日、嘉永7年12月(1854年11月4日)、後に安政東海地震と呼ばれる大地震が東海地方及び、まだ下田に停泊していたポーハタン号に襲い掛かることになるのである。
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