第一章 はじまり
第一話 天才の憂鬱
他人から見たら、俺は恵まれていると見るのだろう。
人々は俺を天才と呼んだ。
確かに俺は天才なのかもしれない。だが、俺は一度も恵まれているなどと感じたことはない。
俺はただ勉強をしていただけだ。
本を読み、理解し、それを応用する。それ以上でもそれ以下でもない。
テストは当たり前のことを当たり前のように書くだけだった。
退屈で退屈でしょうがない。
特に数学や物理は苦痛だ。問題を見た瞬間から答えがわかっているのに、訳のわからない先生のこだわりで事細かに過程を書かなければならなかった。全く持ってロジカルじゃない。
成果は量と時間の対比で支払われる。
もう既に答えがわかり切っているのであれば、その答えを素早く書いて提出してしまったほうが合理的だ。
「教授、何を考えてらっしゃるんですか」
青いセミフォーマルドレスをまとった女性が俺に声をかける。
「助手君か。なんでもないさ、昔のことを振り返っていただけだ。……いけないな、考える時間を無駄にした」
「教授、またそんなことを。そんなに時間にシビアにならなくてもいいんじゃないですか? ほらあと5分で学会ですよ、急いでいきましょう」
助手は両手で俺の両腕を引っ張り、ベンチから立ち上がらせようとする。
「学会など、開会と同時に滑り込めばよい。開会のスピーチなども非合理的だ。本来であれば遅刻して早退したいぐらいだ」
「そんなこと言ってるから、学界では『上村隆一郎は天才だが天災だ』なんていわれるんですよ。もう少し笑顔で、愛想よくしましょうよ、ね?」
助手は俺の体を体重を使って持ち上げた。流石にパワー負けした俺はベンチから立ち上がり、スーツを整える。
「俺は単に経済学を研究したいだけだ。別に学会でどういわれようが気にはしない。逆にこんな無駄な時間をとられる分、学会は俺にとって何のメリットもない。さっさと研究室へ帰って論文を読みたいぐらいだ。……あと、助手くん、そんな風に顔を覗き込むな、近いだろう」
「あーあ、イケメン教授ってことでこの研究室、倍率高かったんですよ? なのにこんな変人だったなんて。私もついてなかったですよ」
「……助手君、もう慣れたものだが、君こそちょっと口を弁えたらどうかね? 確かに年齢は同じぐらいかもしれないが、立場上は君の上司なんだ。距離感というものをだな……」
この人は正当に大学と大学院を卒業したのだ。俺と同い年ぐらいにも関わらず、俺を上司として扱わなければならない。
気づいたら12歳で高校を卒業し、大学の博士号も15歳の時に取得してしまっていた。いくつか思ったことを論文という形で発表したら教授という地位をもらうのにそんなに時間もかからなかった。
年下の教授に学ぶという中々酔狂な学生はいないもので、今年の研究室もこの助手一人だけだ。
研究室で友達もいないのにもかかわらず、なんだかんだ良くしてくれている。
「教授って天才なんですよね? なんでもできちゃうんですよね? じゃあなんで経済学を選んだんですか?」
俺はこぶしを作り、力説する。
こんな当たり前なことを質問するなぞ、この助手もまだ教育が足りないのかもしれない。
「前も話をしたことがあると思うが、無論! 経済学が英知の塊で、最も影響力があるからだ! 人間の欲望をこれまでに理論化し、ロジカルに説明しようと試みた学問は他にない! スケールが広く、学問の幅が広大であることも魅力の一つだな。学んでも学んでもきりがない、他の学問にこれほどの魅力が……なんだ助手くん、そのあきれた顔は」
「はあああ、やっぱり教授は生粋の経済学者ですね。はいはい、わかりました。さっさと学会行きますよ」
助手は俺の腕を引っ張り、そのまま会場へ連れて行こうとした。
俺はその手を振り払う。
「学会前にトイレに行ってくる」
「教授! 学会まであと1分ですよ! 遅刻しちゃいますよおおおお!!」
俺は気にせずそのままゆっくりと学会が始まる会場のトイレに向かうのだった。
***
「ふう……さて。全く気が乗らないな」
洗面台で手を洗い、自分の顔を鏡で見ながらそうつぶやく。
助手の言う通り顔立ちは整っているのだろうが、憂鬱感で押しつぶされそうだ。なぜこれほどまでに非効率で非合理的な会合に俺がいちいち出席しなければならないのだろうか。
「はああ……」
何度ため息をついてもため息が止まらない。
ため息が止まらない病気にでもかかってしまったのかもしれない。
手をハンカチで拭き、重い足取りで会場へ向かおうとした。
――その瞬間だった。
『……グサッ』
鋭利な刃が俺の胸元を突き刺し、俺の体から引き抜かれる。
心臓が鼓動をするたびに生暖かい俺の血液が足を伝ってトイレのタイルを湿らせていく。
「……上村隆一郎、お前を許さない」
俺は目の前にいる人物にこぶしを掲げようとしたが、徐々に冷たくなっていく体にそんな力は残されていなかった。
せめて顔だけでも拝んでやろうと、相手の顔を目に焼き付ける
「じょ、助手君……なぜ……」
青いドレスは俺の返り血で染まり、赤く塗りつぶされていた。
「あなたさえ……」
先ほどまで暖かかった眼差しが、冷たく俺の胸元をえぐる。
「あなたさえいなければ……私がその席をとれたのに!」
違う。
今まで暖かいと感じていたのは、俺だけだったのだ。
体を重力に任せ、地面に横たわる。
「あんたさえ……! あんたさえ、いなければ……!!」
助手は叫びながら俺の背中を何度も突き刺す。痛みに慣れてしまうほど俺の体を切り裂いた。
こういう終わり方か。
俺にふさわしい最後だな。
俺は最後に助手の顔を片目で見ながら、静かに目を瞑った。
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