精神弱者のメサイア

独身ラルゴ

1章:誘拐犯に救われた少女の話

プロローグ:起点

 2015年9月1日。


 思えばこの日が絶望の起点だった。

 小学3年の夏休みが明けた最初の登校日のことだ。


「もー最悪だったよー」

「どうしたの麗香ちゃん」


 会話の中心の「麗香ちゃん」と呼ばれる女の子はクラスの女王様みたいな子だった。

 その子が理事長の娘ということは誰もが知っていて、何となく逆らってはいけない、そう思われ続けてやがて出来たご機嫌取りをする取り巻き。

 その取り巻きの一味に私も含まれていた。


「夏休みの旅行でね、沖縄に行く予定だったのに台風でダメになったの。その日以外はお父さんもお祖父ちゃんも忙しいからって今年は何処にもつれてってもらえなくってー」

「可哀そう……」

「残念だったね」


 寄り添おうとする取り巻き達。

 しかし結局は他人事。

 どうでもいいと、みんなそう感じているはず。

 旅行に行けなかったなんて話自分のことじゃなければ興味も湧かないだろう。


 けれどそれが悟られれば自分がどんな目に遭うか分からない。

 結果言葉だけでも寄り添うという形になる。


 変に突っ掛かられても面倒だし私も便乗した方が良いのだろう。

 しかし下手に出張ることもできない。

 もし気付かれれば、もし口にするものがいれば私は窮地に陥るかもしれない。


 そう思って口を塞いでいたのだがそれも無駄に終わる。


「あれ? 沖縄って確か ――――ちゃんも今年お土産くれて……」


 視線が私に集まる。


 何も言わなければ平和にことが済んだというのに。

 何も言わなければ彼女もただ愚痴を漏らしただけで済んだのに。

 無駄口は、無駄なストレスと無駄な被害を生むだけなのに。


「……へぇ、そうなの」


 何も言えずに彼女の冷たい視線を苦笑いで受けるしかなかった。

 当然それで終わるわけもなく、むしろここからが始まりだった。




 翌日、学校についたときのこと。

 いつも通り靴を脱ぎ下駄箱を開けて明らかな異変に気づく。

 上履きに土が盛られていた。それはもうこんもりと。


 あまり反応を大きくしないように静かに周りを窺う。

 人影はないがクスクスと嫌な笑いが耳に届く。


 なんてくだらない。

 だがこういう輩は反応すれば余計に増長する。

 反応を薄くして、何事もないように徹すればいずれ飽きて去っていくだろう。


 玄関で土だけ払い捨て教室に向かい、何事もなかったようにいつもの定位置へ。


 その日は特にそれ以上の変化はなかった。

 ただし自分と犯人の心中以外は。

 面白くなかったのだろう。

 それが余計にイラつかせたのだろう。


 けれど一体、どうすることが一番だったというのか。

 私には答えが分からない。




 次は同じく上履きが水浸しだった。

 足と周囲の視線が気持ち悪かったが気にせず乗りきった。


 その翌日は画鋲が入っていた。

 気付かず履いてしまい血に濡れた画鋲をゴミ箱に捨てた。


 その次は接着剤で下駄箱に張り付けられていた。

 取るのに少し時間がかかった。


 遂に上履き自体がなくなった。

 その日は来賓用のスリッパを借り、母に買ってもらった。


 流石に下駄箱を利用するのはやめた。

 しかし今度は別のものが標的になるだけだった。

 教科書、服、ランドセル。毎日何かが失くなり、何かが破壊されて、その度に母に買ってもらっていた。


 これだけの被害に遭っても未だに犯人が見つからない。

 おおよそ見当をつけて見張っていてもまったく別の方で被害に遭う。

 犯人は一人ではないのか?


 少し模索し怪しい人を考える。

 考えて気づいた。

 怪しくない人などいなかった。

 あの日からずっと、私を気にかける人が一人もいなかった。


 他人に相談せず、一人で解決することばかり考えていた私がそう気づいたのは、被害に遭い始めてから2ヶ月以上が経っていた。

 同時に、しばらく学校で誰とも会話していないことに気づいた。

 気づいてからもずっと一人でいた。




 親も最初はたくさん助けてくれていた。


 物がなくなれば買ってくれた。

 学校に何度も連絡してくれた。

 けれど学校は曖昧な返事ばかりで一向に解決には至らない。

 それが両親の怒りを促進した。


 日に日に目に見えて苛立ち始めた。

 終わらない被害に対しても、対応しない学校に対しても、それに対する私の様子に対しても。


 私は感情を押し殺すことに徹していた。

 ストレスに思えば耐えられなくなると思ったから。

 けれどその様子が気に食わなかったらしい。


 父は私に当たり始めた。

 暴力はエスカレートし傷が残るようになった。


 母は制止してくれていた。

 けれどやがて関わるのをやめて家を空けることが多くなった。


 それからは物が失くなっても言えなくなった。

 言えばより酷くなると分かっていたから。


 私の居場所は家でも失くなりつつあった。




 学校も最初はたくさん助けてくれた。


 物がなくなれば一緒に探してくれた。

 犯人も捜してくれた。容疑が明らかな生徒を叱ってくれた。


 しかし生徒を叱った次の日から一変した。

 先生は私に一切目を向けなくなった。


 原因はすぐに分かった。

 理事長の娘に脅されたらしい。


 結局一般の担任など権威の前では無力、まあそれは私も同じか。

 こうなったのも私が権威を持つものに抗う術を持ってなかったからなのだから。


 他のクラスの先生が助けてくれたりもした。

 しかし先生の間で噂があっという間に広がった。

 私を助けると碌なことがないと。


 私に善意で近づくものは全て消え失せた。

 助けてくれないだけならまだよかった。


 ある日の授業中、担任に机を蹴飛ばされた。

 突然の轟音に驚いたのは私だけ。

 クスクスと漏れ聞こえる笑い声。


 命令されていたのだろう。

 そのときの担任の顔は忘れられるはずもない。

 息を荒くし、恐怖と苦痛に顔を歪め、私の顔を見るなりそこに快感が加えられたようだった。

 晴れて先生もクラスの仲間入りを果たした。

 私という玩具を共有するクラスに。


 皮肉にもそのときの授業は道徳。

 それがこの学校の教える道徳らしい。




 母の浮気が発覚した。


 元々外出が多かったから予想はできていた。母も大して隠す気はなかったらしい。

 言及されたときには適当に言い繕い、次の日起きたときには金品と一緒に消えていた。


 残ったのは私と多大な怒りを露にする父だけ。

 私の地獄は加速した。


 父は帰ってこない日が多かった。

 今までは仕事が終わって夜7時には帰宅していたのに。


 酒か、女か、ギャンブルか。

 なんにせよ私の安否を気にかける言葉は一切聞かなくなった。

 当然、そんな私に夕食を用意するなんて気の利いたことはしない。


 仕方なく父のおつまみに手を出したことがあった。

 夜帰ってきた父に叩き起こされ叱られた。


 以前と同じように風呂を沸かして入った。

 次の朝帰ってきた父に水の無駄だと殴られた。


 家の水道が止められたことを恐る恐る指摘した。

 腕にタバコを押し付けられた。


 目につかない部屋の隅で隠れて過ごすようにした。

 仕事でストレスを溜めた父に引きずり出され叩きつけられた。


 どうして欲しいのか分からない。

 どうして欲しくないのかも分からない。


 悩むほど苦痛は増える。

 思考を捨てることが一番だった。

 いっそこの傷だらけの心も一緒に捨てられたらよかったのに。




 学校に居ても苦痛は変わらなかった。


 登校すれば落書きと汚れにまみれた机。

 落書きは消しても意味ないので汚れだけ軽く払いそのまま使う。


 流行った遊びは宝探し。探すのは私で隠される宝は私の筆記具や教科書。

 見つけ出しても埃やチョークの粉にまみれている。リコーダーなんかは誰かの涎にまみれていた。

 教科書が見つからないこともあった。

 そのまま教科書なしで授業に出ると欠席扱いとされた。


 給食ではいつも私だけ特別仕様だ。

 絵の具、墨汁、雑草、泥、虫。スープ類はトッピングしやすいんだと楽しそうに行われる小学生の意図的メシマズアレンジ。

 けれど私は食べるしかなかった。ここでしか食べられないから。


 怪我をすることも多くあった。

 歩けば転ばされ、止まれば突き飛ばされる。

 擦り傷、青アザは絶えなかった。


 カッターで切りつけられ流血したこともあった。

 服を汚さないように手のひらからポタポタと血だまりができる。

 多量の血を見て泣き出す子もいた。

 その子を心配する声が聞こえる中、私にはカッターをしまう少年からの一言、「掃除しとけよ」とだけ。

 雑巾で拭き取ったのち保健室に行っても無視されたので絆創膏だけ無言で借りた。


 体育倉庫に監禁されたこともあった。

 なす術なく一夜過ごし、始業時間となり体育の時間に鍵が開けられてから誰にも見つからないように外へ出た。

 当然遅刻だが授業中に教室へ入っても何も言及はされなかった。

 その日は早く帰ってきた父に一升瓶で殴られた。


 下校中、車に撥ねられかけたこともあった。

 横断歩道を渡る途中、突然急発進した車が迫り轢く寸前のところで急ブレーキ。

 方向を変えて去っていく車には担任が乗っていた。

 少しぶつかり怪我をしたが救急車は呼ばなかった。

 それをしても父が怒りまた傷が増えるだけだったから。 



 体の傷はそのうち治るが心の傷は治らない。

 ふとそんなフレーズを思い出した。


 けれど体の傷は治る兆しを見せない。

 治療もせず、ろくに栄養もとれていないからだろう。


 心の傷は……よく分からない。

 体は常に痛むし寒気もする。

 体の内側の痛みと寒気は心の傷のせいなのか。

 そんなの医者でなければ分からない。


 ただ分かるのは今の生活でこの痛みと寒気がなくなることはないことだけだ。



 朝起きて学校に行き傷つき、昼に雑菌だらけのご飯を食べ、また傷つき、帰って夕飯がなく、父親が帰ってきてまた傷つき。

 学校に行かなくても生徒は家に石を投げ込みまた父に傷つけられ。


 毎日傷を増やした。

 どこに触れても体は痛む。

 体は傷つけただけ傷が増える。


 心の傷も増えたのだと思う。

 毎日ひび割れが広がるように。

 そして簡単に砕けた。


 それは学校帰りに偶然母と鉢合わせた時のこと。

 ばつの悪そうな顔をする母。

 私は問い詰めた。

 なんで私も連れてってくれなかったのかと。


 母は我慢ならなかったのか私を突き飛ばし、見下ろすように言った。

「全部あんたのせいじゃない。被害者面しないでよ」と。


 その言葉の衝撃に耐えられなかった。

 私は自分ばかり傷ついているつもりだった。

 けれど私の存在で苦しんでいる人がいた。


 私を傷つける者の顔はいつも怒りか喜びに溢れていた。

 だから私は人を傷つけることがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。


 耐えられない、耐えきれない。

 体の内側からバキりと、音か聞こえた気がした。

 パラパラと心のかけらが崩れ落ちた気がした。

 それからは傷つくという感覚が失くなった。


 あるのは胸の奥で常に感じる寒さ。

 周囲の冷たい視線がより寒くさせる。

 吹雪の中、裸で立ち尽くしているような。


 守るもののない心は凍え続ける。

 何もしなければ凍えて死にそうなほど体が震える。


 この寒さをどれだけ耐えればいいのだろう。

 私は耐えられるのか。耐えられずに死ぬんじゃないのか。


 死ぬのは……怖い。

 死んだ方が楽になるんじゃと考えなかったわけではない。

 けれど死への恐怖が思い止まらせる。


 死ぬことで海のように深い闇へ放り出されるような気がして。

 今よりずっと寒いところへ放り出されるような気がして。

 もうこれ以上寒いのは……嫌だ。


 耐えればいつかは暖かな春が訪れるかもしれないと信じ続け、日々寒くなり続け、それでも死以上の寒さはないと考え続けて、私は訪れぬ春を待ち続け――――2年が過ぎた。

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