第28話 その頃のご令嬢

「……つまんない」


 口に出してつぶやいて見る。右横の同級生がちら、とこちらを向く。

 するんじゃなかったと彼女は後悔する。余計につまんなくなった。

 つまんないので、鉛筆を持ってない左手でほおづえをつく。栗色の、軽いくせ毛が指に絡まる。

 教師が見ていなからこそできる技よね。教師はつらつらと黒板に字を並べている。

 今日はとにかくついてない、と彼女は思う。

 何がついていないって言ったって、まずそれは朝の前から始まる。

 目覚ましが鳴る。

 何となくすかすかしたベッドの中。

 眠いとごねてもゆらゆらと揺さぶって、そうでなければキスの一つもしてでも起こす相棒の姿がない。

 おはようを言う相手がいない。食事をしに行く相手がいない。

 嫌いな肉の半分を引き取ってくれる相手がいない。

 掃除の半分を受け持ってくれて、内緒話を耳に入れて、宿題の見せ合いをし、ついでに成績の一位争いまでしてしまう相手がいない。

 左隣の席は五日前から空いたままだった。


「……アヤカ・シラ?」


 教師の視線がどうやら彼女のほおづえに気がついたようである。

 お上品な中年の文学教師はやんわりと注意をする。シラはにっこりと笑って注意を聞いたふりをする。もちろん心の中のほおづえはびくともしない。


「……すなわち、ここで作者が特に強調したい所は……」


 文学の時間は眠い。その教科で優等生だろうが何だろうが、眠いものは眠い。

 それが午後ならばなおさらだ。昼の食事も終わって身体がぽかぽかと暖まり、朝のうち静かに飛び込んできていた陽射しは、その熱をようやく教室全体に行き渡らせる頃である。

 ちら、とシラは後ろの扉に目をはせる。

 教室には前後二つの扉がある。どちらも年代もののこの建物と一緒に歳をとってきたようで、その表面に施された細かい彫刻は、それだけで家具収集家が舌なめずりをしたくなるようなものである。

 いきなりこの扉をナタでバラバラにするような奴が出てくれば面白いんだけどなあ……

 シラはデコラティヴな彫刻には興味がない。掃除がしにくいだけだ、と思っている。

 それで飾りも何にもないただの一枚板にしちゃえばいいんだわ。

 馬鹿馬鹿しい、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で、再びつぶやく。また右横の娘がちら、と彼女を見る。シラは肩をすくめる。

 ああいけないいけない。

 どうも調子が出ない。かぶっている猫がはがれようはがれようとして仕方がない。

 原因は判っている。彼女がいないからだ。

 相棒は、五日前に、自分の父親の命令で大陸横断列車に乗り込んでいった。

 父親がどんな理由で相棒を連れていったのかは知らない。だけど物見遊山ではないことだけはシラも知っている…… いや、判っている。


 可哀想に。


 いい加減まずいな、とシラは思い始める。まぶたがとても重い。冗談じゃないほど重い。どうしようもないほど重い。……眠い。

 半分眠りかけた頭の中に、ぎらりと物騒な幻影が走る。

 後ろの扉をどんどんと叩く何か。その音がやがて大きくなって、……ああそうだわ、誰かがナタを持ってきてくれたんだわ。

 このどーしよーもないただごてごてとした掃除のしにくい扉を壊してお掃除おばさんを楽にしてくれるんだわ。

 どんどんどんどんどんどん。

 がちゃ。

 ふっとシラは眠りに落ちかける自分をすくいあげた。


 扉が開いた?


 目を開く。視線を後ろの扉へ移す。違うわ。そのまま視線は壁を伝って前へ行く。


 ビヤ樽だわ。


 前の扉のそばに、校長が立っている。ビヤ樽と裏であだ名される校長は、その通り実に豊満な身体をしている。


「アヤカ・シラ・ホロベシ!」


 一言二言、校長と声を交わした文学教師は、シラのフルネームを呼んだ。眠気を一瞬にして振り払って、彼女はその場に優雅に立った。


「はい」


 低くも高くもない、柔らかな声が教室中に響いた。文学教師は、校長に続いて廊下に出るように、と続ける。

 廊下に出たシラに校長は、扉をぴったり閉めるように、と命じた。言われる通りにぴったり閉める。窓の無い廊下は暗くなる。

 ビヤ樽は彼女の両肩に手を置く。


「よく気を落ちつけて聞きなさい、アヤカ・シラ・ホロベシ」

「はい?」

「実は、あなたのお父様…… エグナ・マキヤ・ホロベシ男爵が、旅先で御亡くなりになりました」

「え」


 さすがに彼女も驚いた。ばりばりとナタが扉を叩き割るのが見えた気がする。

 そしてそのナタを持っていたのは……


「それは……」


 語尾をぼかす。やや声を震わせる。ショックを受けた訳ではない。それが衝撃を受けた時の令嬢の態度だからだ。


「詳しいことは、後で説明します。すぐ寄宿舎へ戻りなさい。迎えの方がいらしています」

「……はい」


 校長に一礼。廊下は走らず。足音は立てず。それが帝国貴族(それが上級でも下級でも!)の令嬢だから。

 シラはくるりと校長に背を向けると、令嬢の歩き方の手本のような足どりで歩き出した。

 まあ気丈な。女性の校長はやや感動しながらその様子を眺めている。しゃんと背筋を伸ばして、動揺一つ見せないようにしている少女の後ろ姿を……逆光に、やや肩が揺れているのを見て、人情家の校長はふと目頭が熱くなる。


 だがそれは間違いである。シラは笑いをこらえていたのだ。

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